開始領域 -Promoter-
1話あたりの字数は約6000〜9000字です。
長くてすみません。
どこまでも赤い世界を、セリは一人で歩いていた。
誰もいない。
ただ、赤だけが広がる世界。
――ここなら誰もいないよ。
セリが目を閉じると、セリの胸が裂け、中から真っ赤な植物が生えてきた。
セリの血をたっぷりと吸って育った毒の蔦だ。
――ここならいいよ。どんどん伸びても。
私を食い尽くして、あとは枯れるだけだから。
――ここを私たちのお墓にしよう。
赤い滴を滴らせながら伸びていく植物へセリは語りかけた。
「セリ……!」
誰もいないはずの世界で、自分を呼ぶ声がする。
そんなはずはないと振り返ると、目の前にボルターがいた。
――ダメだよ。来ちゃダメ。帰って!!
お願い、ここから出ていって!
「セリ。もう大丈夫だ」
ボルターは静かにセリへ近づくと、その体を抱き締めた。
セリの中にいた植物の気配が消える。
「セリ、大丈夫だ」
ボルターはもう一度優しくセリにささやくと、その震える唇に自分の唇を重ねた。
最初はついばむような軽い口づけが角度を変えて何度も繰り返し、それが次第にむさぼるように深く、激しくなっていく。
――は!? ちょっと待った!! なにこれ? どうなってんの?
息苦しさに喘ぎながらも、セリはボルターの首に自分の腕を回し、自らも激しく唇をねだる。
――いや、ねだらないから! ねだるわけないから!!
「ボルターお願い、私をメチャクチャにして!」
うわぁああぁああーーー!!! なんかそれダメ!! それ絶対口が裂けてもそいつに言っちゃダメ系なやつーー!!!
「いいんだな、セリ……」
――いくないいくない! いいわけがないでしょバカボルター!! さっさと離れてこの変態エロ大魔王!!
なんなのこれ? 絶対夢だよね!?
ってゆーか、なんでこれ私の夢なのに主導権が奪われてんの!?
赤一色だったはずの景色は、いつの間にやら軽薄で妖しいピンク一色の世界に塗り替えられている。
「セリ……」
うおわああぁあーーーー!!!
おっさんが本格的に自分のことを脱がしにかかっている。
ダメだ! 早く起きて私!! ここで起きなかったらいつ起きるの!!
このままじゃあの変態に何をされるか分かんないよ!!!
頼むから!!! 今すぐ!! 起きてーーーーーっ!!!
***
「――っどわはあ!!」
荒い息で飛び起きると、汗が滴となって布団に落ちていった。
おかしい。今は汗をかくような季節じゃないのに。
セリはすぐに周囲の気配を確認する。
今は誰もいない。
しかし、自室のドアがわずかに開いていた。
セリの表情は一瞬で冷たいものへと変わる。
ドアは確実に閉めたはずだ。やはりこの部屋に誰かが侵入したらしい。
となれば犯人は一人しかいない。
一応暗殺者として仕込まれ、気配にもそれなりに敏感なはずのセリの寝所に気づかれずに侵入できるだけのスキルを持つ人間。
そしてどういうメカニズムかは不明だが、勝手に人の夢の中にまで侵入し、夢の主に狼藉を働こうとする変態。
そんなやつ、ここの家主しかいない。
だいたいあの男は根本的に存在がおかしい。
口を開けば女の胸を自在にでかくできるだの、服を透視できるだの、自分の戦斧にさわると妊娠するだの、バカみたいなことばかり言うし、本当にするし。
大きなため息をつきながらランタンに灯りをつけると、セリは自室の扉を乱暴に押し開けた。
やっぱりいた。
セリの視線の先には、暗がりで挙動の怪しい男の影。
「なにしてんのボルター」
冷たい表情のセリの口から、ほぼ同じ温度のとげとげしい声が出た。
「お? おおセリ、ちゃんと俺は今まで自分の部屋で寝てたんだが急に喉が渇いてな。
たった今ちゃんと自分の部屋から出て来て水を飲もうとしたところだ。
お前はどうしたんだセリ。珍しいな、こんな夜中に起きてきて。ははは、変な夢でも見たのか?」
怪しい。わざとらしすぎる言い回しと説明口調。
「ボルター、私の部屋に勝手に入ったでしょ」
セリの声はすでに外気よりも低い温度に下がっている。
「ん? いや、だから俺は今の今までちゃんと自分の部屋の自分のベッドの中で寝てたって言ってるだろう。
お前が見たのは夢だセリ、俺が恋しすぎて夢に見たんだろ?
ったく、しょうがねえやつだなお前は」
いつまでも疑わしい視線を向けているセリに、ボルターはニヤリと笑って近づいてきた。
「――ああ、そうか。そういうことか。悪かったな気づかなくて。
なんだよ、そうならそうって言えよ。素直じゃねえなあ」
意地の悪い笑みを深めて、ボルターはセリへ距離を詰める。
「な、なによ」
間合いを詰められないように、同じ分だけセリは後ずさった。
「俺を誘ってんだろ? なんだよ、だったらちゃんと『一緒のお布団でイチャイチャしたいの♡』って甘え声で言えよ?」
「んなわけないでしょ!?」
「照れんなよ」
そう言いながらボルターはセリを壁に追い詰め、退路をふさぐ。
セリは必死で押し返すが、ほぼ密着状態だ。
いつの間にかボルターの顔は、普段の三割増しのキメ顔で、声も通常より低く甘いキメ声仕様に変化している。
ボルターはセリの耳元で吐息混じりにささやいた。
「なあ、どんなイチャイチャしてえの? 先にベッド温めて待っててくれよ。
うーんと焦らしてから行ってやるからよ。
俺にどんなことして欲しいのかじっくり考えてジュンジュンさせててくれよ、いいな?」
ほぼ顔が接触する距離まで接近され、セリは不覚にも夢の中で、ボルターにキスをされた感触を生々しく思い出してしまった。
ダメだ! このタイミングで赤くなるなんてヤツの思う壺じゃない!!
ホントにされたわけじゃないんだから!! 翻弄されるな私!!
とっさに手に持っていたランタンをボルターの顔に押しつけた。
「ぐあああ~~~っ!! 目があああ! 目があああぁぁ……っ!!」
突如強い光に目を灼かれたボルターは、某大佐の最期の名言を絶叫し、床にのたうち回った。
「ちょっと!! うるさい!! レキサとロフェが起きちゃうでしょ!!」
セリは床で転がる、自分の倍ほど年上の男を足で踏みつけて動きを止めると、抑えた声で叱責する。
隣の子供部屋では、ボルターの息子レキサと、娘のロフェが静かに眠っている。
二人はもちろんボルターとセリの間の子供……ではなく、ボルターの別れた前妻との子供だ。
セリはたまたま行き倒れているところを不幸にも、このバツイチ変態エロギルドマスターのボルターに拾われ、この家族とは、もはや半年以上も一緒に暮らしている。
つい先日セリは、前妻であるメトトレイのところへレキサとロフェを逢わせに行くという、離れ離れになった家族の愛をつなぐ壮大なミッションをこなしたばかりなのだが、留守中にボルターの策略にはまり、多額の借金をボルターとの連帯債務で負わされることとなってしまったのだった。
ちなみにその債務の同意書に書かれたサインは、ボルターが勝手にセリの名前を書いたものなのだが、あまりにも筆跡が酷似しているため、どんなにセリがサイン偽造による連帯責任の解除申請を訴えても、その申請は通らなかった。
もはや、セリは借金を返し終わるまで、この男と人生を歩む他ない状態となっている。
「セリ、どうせ踏むならタイトのミニをはいてるときに踏んでくれ。頼む。
そしてその時は何も躊躇せず顔からいってくれるとありがたい」
真顔で注文をつけてくる変態に、セリは抑えようのない殺意が込み上げてくるのを感じた。
どうしてくれようかこの変態。息ができないように喉のあたりをぎゅーーーって踏んづけたら永遠に黙ってくれるだろうか。
ああ、でもその場合、債務を私一人で完済しなくちゃいけなくなるから、まだ当分は生かしておかなければならない。
なんだかもうバカらしくなってきた。
目も完全に冴えてしまったし、とても二度寝なんてできそうにない。
それに下手に部屋に戻ったら、この変態がついてきそうで嫌だ。
セリは転がっているボルターを放置することに決めると、大きなたらいに洗濯物を大量に詰め込み、玄関のドアの鍵を開けた。
早朝には早すぎるが、起きてしまった手前、朝の洗濯から順に家事を片づけていくことにした。
「あ、ちょっと待てセリ」
いつの間にか立ち上がったボルターが、後ろからセリの体を腕で抱え込んだ。
セリの背中にボルターの熱が伝わり、また不覚にもセリは顔が火照ってしまう。
ダメだ。さっき見た夢のせいで、妙に意識をしてしまう。
落ち着け自分。相手は変態だ。気を許したら何をされるかわからない。
「そんな薄着で外出たら風邪ひいちまうぞ。俺の上着着てけって。ちょっとでけえけど」
そう言って革のジャケットをセリの肩にかける。
ずっしりとした重みがセリの肩に乗せられる。
「お前の冬用の上着も買わなきゃだな。なんか気に入ったのがあれば言えよ?」
暗いので赤くなっている顔はきっとバレていないはずだが、バレるとまたからかわれるので、セリは下を向きながら低い声で答えた。
「別にご近所さんのお下がりでいいから。お金もったいないし。
そんなことより、私が風邪ひくの気にするなら、ボルターが洗濯してきてくれる?」
「あ! スゲー急に眠気が押し寄せて来た!! こんなとこで寝ちまったら風邪ひくから俺はもう自分の部屋に戻るわ!」
ものすごい速さで踵を返し、ボルターは自室に姿を消した。
このやろう、そんなに洗濯が嫌いか!
ほとんどここに溜まってんのはあんたの溜め込んだ洗濯物だぞ!!
怒り心頭で玄関を開けると、セリはまだ月が煌々と照らす夜空の下、家の側を流れる小川に向かった。
たらいに水を汲んでいる間は、ボルターのジャケットは大きすぎて邪魔なので、そこら辺に放り投げたのだが、やはり上着なしでは深夜の気温は寒すぎた。
改めて袖を通し直すと、温かさにセリはほっと一息をついた。
――ボルターのにおいがする。
いや、ボルターのにおいって、別にあいつのにおいなんて好きでもなんでもないし!
っていうか、あいつ! 以前にも増して距離が近くなってるし!
以前はからかうにしても、もう少し遠慮とか配慮が多少なりともあったような気がする。
距離を詰められても、決して接触するようなことはなかったはずだが、ここ最近は零距離どころか、密着してくる。
そのたびにセリはドキドキしてしまうのだが、このドキドキは明らかにパーソナルスペースを無視して侵入してくる不審者に対する、嫌悪感情によって引き起こされる動悸だとセリは認識することにしている。
セリの中で思い出したくない出来事のひとつに、不覚にも不本意ながら悔しいことにボルターの胸にすがりついて泣いてしまったという痛恨のエピソードがある。
抹消したい過去ナンバーワンなのだが、もしかしたらそれ以降、これぐらい触ってもOKという認識をあの変態に与えてしまったのかもしれない。
連鎖的に、優しく頭をなでられたときの大きな手の感触を思い出す――。
――いや、思い出すな私!!
別にぎゅーってされて安心するのはボルターに限ったことじゃないし! レキサやロフェとぎゅーってしても幸せな気持ちになるし! ナックとだってぎゅーってすると落ち着くけど、今はほとんどロフェが離さないから触れないだけだし! ナックとぎゅーってできるなら別にボルターにぎゅーってしてもらわなくったって…………って、別に私、あいつにぎゅーなんてして欲しくないし!!
ナックは森にすむ『喰らうもの』と呼ばれる獣なのだが、現在はボルター家のペット的なポジションに落ち着いており、特に最近はロフェの専用抱き枕となってしまっている。
ダメだ、雑念が多すぎる。洗濯に集中しよう。
タライの中の水に足を浸すと、あまりの冷たさに足が切れるような痛みを感じる。
キャラバンにいたころは、温かい地域に絶えず移動していたので、冬というものを体験するのはセリにとって初めてだった。
冬というのは空気がキーンと張りつめているように感じる。
そのせいなのか、毎晩夜空がとても澄んでいてきれいだ。
空を仰ぐと、月の光がいつもより強く輝いている気がした。
きれいな満月が出た夜は、キャラバンのみんなで焚火を囲んで、踊り明かしたりしたんだっけ。
なんとなくそんなことを思い出し、記憶を探り、その時に誰かが踊っていたステップを踏んでみる。
洗濯ものの踏み洗いとリンクさせて、即興の洗濯ダンスにしてみた。
楽しかった夜に比べて、今はただ悲しい気持ちにしかならない。
もう、誰かと踊ることもないだろう。
みんな、殺されてしまった。
キャラバンのみんなを殺した犯人は――――。
「なにそれ! 楽しそう!!」
誰もが寝静まっている時間のはずなのに、小さな高い声が聞こえ、セリは辺りを見回した。
誰もいない。
「ここだよここ!」
声のする方に視線を下げると、それはいたのだった。