マーリカとの出会い
レインにとって、マーリカとの出会いは時間を動かすような衝撃的な出来事だった。
今までは何をしても閉塞感を感じて、世界は色褪せて見えていた。
特にアデルとは性格も考え方も違うため、会うたびに神経をすり減らしていた。レインは王族であるが、結婚後はアデルの家に婿入りするせいか、アデルはいつだって高圧的だった。何をするにも話を聞かず、一刀両断にされるので、いつの頃からか、自分の考えを言わなくなった。
言わなければ言わないで、何も考えていないのかと責められ、乾いた笑いしか出てこない。アデルは自分が少しも悪いとは思っていないのか、毎回毎回、レインの行動や考えを否定する。
初めから仲が悪かったとは思わないが、とことん合わなかった。アデルに余計なことを言わせないために、レインは喚くアデルを無視するという悪手を取った。アデルの言葉を受け入れないことに彼女の矜持が傷ついたのか、いつの間にか修復不能なほど二人の距離は広がった。
心配そうに自分を見る母や国王、王妃、それに異母兄弟たち。婚約破棄をするべきだと息巻く王妃を大丈夫だからと宥めたのは、アデルを思ってというよりも面倒だったからだ。
貴族としての矜持の高いアデルが婚約破棄を素直に受け入れないだろうし、言い出した後の更なる苦境を想像すれば現状を我慢した方がまだましだと思っていた。
そんな殺伐とした日常に天使のように現れたのが、マーリカだった。お忍びで平民たちが生活する区域を当てもなく彷徨っていた時に出会った。護衛を撒こうと迷子になったレインを救い出したのだ。
マーリカは貴族であったが、どちらかというと商家の娘のような雰囲気を纏っていた。事実、ヘールズ男爵家はかなりの商売上手で、旧体質の上位貴族よりもはるかに羽振りがよかった。領民ときちんと向かい合い、堅実な経営をしている結果だった。
初めからマーリカに対して恋愛感情があったわけではない。レインには婚約者がいたし、マーリカも二人きりにならないように注意していた。王子であるレインを誘惑するような言葉も言わないし、親しくするにも礼節を持っていた。
レインは王子であり、マーリカは男爵令嬢だ。これ以上、会うことはできない、とマーリカが次第に断るようになった。
マーリカとの交流を望んだのはレインの方だ。素直にこれからも会いたいと言えば、マーリカは眉尻を下げて困った顔になった。
レインに与えられた側仕えたちに相談した結果、二人きりにならなければいいという判断になった。側仕えたちと護衛達を交えての交流となった。それでも女性一人だと角が立つので、時折、マーリカの友人も交えての交流だ。
マーリカがレインと側仕えたちの中に入っただけで、劇的に関係がよくなった。レインがアデルと仲が悪く、すぐに険悪な空気になるので、側仕えといいながらもどこか一線を引いたような付き合い方だった。周囲に興味がなかったから、それでもいいと思っていたが、こうして親しい距離で付き合い出すと以前の関係には戻れない。
「流石、マーリカ。金勘定は文句のつけようがない」
側仕えの一人であるジャンが纏められた資料から顔を上げた。マーリカが作ったアデルに対する慰謝料の見積もりだ。
マーリカは2週間程でこの書類を作ってきた。その後、1週間で判断が下されたのだからマーリカの資料の出来がよかったのだ。
マーリカの資料は公務の手伝いと言いながらいかにレインの手を煩わせていたのか、どれほどアデルがレインと口論していたのかを裏付けと合わせて作られていた。誰が読んでもレインの辛さが理解できるようになっていた。
驚いたことに、レインの公務についてもアデルはかなり口を出している。レインが処理した内容を否定するような書類を、添えて提出したりしていた。その行き過ぎる行為を咎めなかったのは、それが普通になっていたからなのかもしれない。どちらにしろ、書類として残っていたのだから二人の関係を知らない人でも理解することができたようだった。
「初めて読んだときは驚いたよ。二人が衝突するのは当たり前だと思っていたから」
「そうだろうな。議会で認められたら相殺できそうだな」
そんな会話をしていると、扉が開いた。入ってきたのはノルンだ。
「あ、ジャンも来ていたんだ」
「よう」
ジャンはだらしなく長椅子に体を預けたまま手を上げて挨拶する。ノルンが不愉快そうに眉をひそめた。
「ジャン、もう少し品よくできないかな? 一応、殿下の側仕えなんだから」
「いいじゃないか、殿下が何も言わないんだし。というか、殿下のほうが口が悪いことが多いよな?」
「殿下はいいの! 存在自体が品があるから」
「はあ? ふざけんなよ!」
二人がいつもの調子でいがみ合いを始めたので、レインは声を上げて笑った。
「二人は仲がいいな」
「勘弁してくれよ!」
「本当だよ。ジャンと仲がいいだなんて!」
二人の悲鳴を楽しく聞きながら、ノルンの後ろから入ってきたカークに目を向けた。
「どうだった?」
カークに聞けば、書類を渡された。
「ほぼ認められた。少し金額が残ったのはバークス侯爵家の今後のためということらしい」
「お互いに痛み分けといったところか」
レインが呟けば、カークは肩をすくめた。
「男の目からして、侯爵令嬢と結婚したいと思う男は少ないだろうね。これから相手を見つけなければいけないことへの慰謝料というのか」
「……俺の側にいたからそう見えていただけじゃないか?」
レインの言葉に、ジャンとノルンが大きな声を上げた。
「そんなわけないだろう! 自分だけが正しいという姿勢は男も女も関係なく倦厭する。殿下はよく頑張ったよ」
「そうだよ。側にいた僕たちの方が声を聞くだけで胃が痛くなるほどだったんだから!」
二人の勢いに押されながら、レインは笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「そうそう、この笑顔を見られるようになったのはマーリカのおかげだよねぇ」
ノルンが嬉しそうに笑う。ジャンもニヤリと笑った。
「ああ。マーリカの欠点はすぐに節約だと言い始めるところだけだからな」
「それはジャンの自業自得じゃないか」
楽しげに話しが進むのをレインは心が温まるのを感じた。マーリカと出会う前ならありえなかった光景だ。何気ないやり取りがとても嬉しい。
「話を戻していいか?」
カークが淡々とした口調で和やかな空気の中、割り込んだ。ジャンもノルンもまだあるのかと、目を瞬いている。
「陛下から一つだけ条件が付けられた。バークス侯爵家への慰謝料は自分で稼ぎ出して返済しろと」
「はあ?」
非難の声を上げたのはノルンだ。レインは驚いて目を瞬いた。
「この金額なら、俺の資産で十分に払えるが」
「殿下の資産は慰謝料には使えないようになっている。ただ、金を稼ぐための資金としては使っていいことになった」
レインはため息をついた。
「ある意味これが婚約破棄の代償という事か」
「そう考えた方が精神的にも楽」
カークは頷く。カークはそのまま続けた。
「マーリカとの婚約も認められた」
「よかったね」
ノルンがレオンに祝いを述べれば、レオンは頬を緩ませた。
「喜ぶのは少し早い。慰謝料を払い終わらない限り、結婚も延期になっている」
「それは……」
レインが息を飲んだ。ジャンとノルンはにやにやしている。
「返済中は身分が保証されるなんて、陛下も優しいな」
「レインは残念だったね。マーリカとイチャイチャしたかったのに」
「ちょっと待て。バークス侯爵家の年収に近い金額を稼ぐなんて、何年かかるんだ?!」
レインははっとして、思わず叫んだ。カークは肩をすくめた。
「あれだ、バークス侯爵令嬢を先に嫁にいかせたい気持ちもあるんだろう。だから返済するまで数年単位なんだ」
もっともな話にレインはがっくりと肩を落とす。
「殿下はお金を何で稼ぐかまず探さないと」
「マーリカに相談だな」
気楽に話す彼らを恨めしげにみながら、レインも会話に混ざった。