2 きっかけに類するもの
「彼女が言っていたのは、普通の“鬼”ではないのか? 何か別の、知られていない物語がありそうだな………」
一
翌日も暑かった。………そりゃそうだ、夏なのだから。
しかし余りに暑いので、夏というのはどうしてこうも暑いのだろうなんて、疑問の形を借りた不満が沸々と沸き上がってくる。
なぜ夏は暑いのか?
いや、暑いから夏なのだ。
何だと。ふざけるな。
「…………」
暑さで気が変になりそうだ。
ジージーとかミンミンとか、なぜか必死になって鳴いている蝉がうるさい。横を通り過ぎていく自動車が起こす温風も、透明な炎が上がるような道上の陽炎も、暑苦しくて鬱陶しい。八月に入りいよいよ猛暑といった時期に、どう考えても張り切り過ぎの蝉と自動車のエンジンが、ゆらゆらと燃える陽炎に酸素を送っているようでもある。おいおい、そんなことをしたら余計に暑くなるだろうが。やめれ。
………暑さは僕の体力と精神力を蝕む。
日差しの照り付ける路面と、荒んでいる自己の内面から逃げるように、古ぼけた民家が作る影に逃げ込んだ。
「あっつ………ばーちゃん、アイス~」
「あぃよお~」
とある用事がある図書館への道すがら、コンビニでもデパートでもなく駄菓子屋の婆さんからアイスを購入する。税抜価格六〇円のを二つ買った後で、冷えた缶ジュースを一本買った方がよかったかもしれないと思ったりもした。だが僕はアイスが食べたかったのだ。ジュースを飲みたいではなくアイスを食べたいと思ったのだ。だから後悔はない。
「………ん? なぜだ?」
しかし、よく考えるとこれはおかしな話だ。結果は同じなのに、僕はアイスを欲した。
冷蔵と冷凍の差を重視し、一度凍らせたものを舌で舐めつつ、あるいは齧り取った欠片を口腔内で融かしながら『アイスを食べた』というのもおかしい。実際は『冷たいシロップを飲んだ』というのとさほど変わらないではないか。アイスクリームなら………アイスクリームでも、まぁ似たようなことが言えるだろう。多分。
であれば、「食べた」は感覚的あるいは単に習慣的な言い回しであるだけ、つまり経口で身体に何かを取り入れることを広く指しているのだとしたら、それで納得できる……だろうか。いや、分からない。「飲む」という表現がある。それは飲み物に対して、一方で「食べる」という表現は食べ物に対して用いられる。しかしアイスに関しては、個体と液体の境目のような例である。個体を液体にして体内に取り入れるから、一見すると両方の状態を含んだ、容易に状態を変化させる食べ物。アイスが固体のままでは消化できない。融かして液体にすることが必要となる。だから、アイス→消化の過程全てを「食べる」というのなら、まだ理解しやすいかもしれ………いや、しかしそれは、消化の過程でというよりは単に温度で融かすものだ。何なら、消化管でなく体表で、身体にすら触れていないところで融かすのもありだが、しかしそうなると最早「アイス」を食べているとは言えず、譲歩しても「融けたアイス」を食べているとしか言えず………それこそやはりシロップを「飲む」のと変わらないではないか!
「………ん?」
いや待て。やはり「食べる」という言葉の意味するところが広すぎるのがネック。
例えば、ガムなどには「食べる」という表現を用いることができるが、結局は「チューイング」、つまり後で吐き出すのであるから、真にガムを「食べる」人というのは、「ガムは飲み込む」という一部の人々に限るべきではないか。だが一般に「噛んで(吐き)出す」とは言わず、チューイングガムにも「食べる」という表現を用いる。その方が平易であり簡便であり、またそれでも理解可能だからである。要はニュアンスが伝わるか、その対象の共通の認識がどの程度まで「共通」であるのか、というところが問題なのであり、通常ガムを「食べる」と言った場合は、「噛んで(吐き)出す」ことを意味する。多数派の認識である。
昔「カレーは飲み物」というジョークが流行ったことがあったが、あれもこの問題の本質的な部分に目を向けた例と言える。同時に、同じ認識が多数の間で共有されていたからこそ生まれ、活きたジョークであった。
「あ、そっか」
ここで気付く。
あの「カレーは飲み物」は、単にカレーライスが食べ物だという常識があってこそ活きたジョークだと思っていた。実際にカレー自体は液状だから、そのものの特質などの習慣的な、共通の認識をドライに捨象してそのものを単なる「液体」とみなし、しかしまた逆に親しみを込めて「飲み物」と呼んで愛好するジョークだと思っていた。しかし、実はもっと違う視点で考察できるものだ。
例えば一般的なルゥ料理でカレーと並ぶシチューは「食べる」もの。シチューもまた実際には液状であるので、「シチューは飲み物」と言って言えなくもない。しかし意外性ではカレーに劣る。その差は何か。
そう、ご飯の存在だ。
カレーとご飯はセットでカレーライス。
炭水化物と、つまり主食といえるものと混ざって、人々の慣れ親しんだカレーライスとなる。
ただ、ここで言う差というのは、単にご飯が含まれているかいないかという物質的なものではない。もっと感覚的なもの、つまり視覚要素の違いのことである。
食べ物か飲み物かというのは単に、それが食べられそうか、あるいは飲めそうなものか、という見た目で決まっているのだろう。
つまり、デロデロに融けた、融けきった「アイス」を「飲み」たいか、それともキンキンに冷えた「アイス」を「食べ」たいか、ということだ。
「なるほどなぁ。僕は『飲みたかった』んじゃなく、『食べたかった』んだ。しっかしまぁ、そんな結論に至るのに随分とまわりくどレロレロレロ………ん~」
………などと考えるのも面倒だったので、思考を止め、舌で存分に清涼感を味わいながら、図書館への残りの五〇〇メートルほどを進む。途中でアイスが力尽きたために、二本の棒を近くの公園のゴミ箱へ捨てると、図書館がすぐそこに見えるほど近くに来ていた。
図書館の入り口のガラスドアについた太い取手を押し開けると、先程までの暑さが嘘のように感じられるくらいの冷気が、控えめに吹き抜けてくる。
「ふぃ~、涼し~」
身体から融け出したかのように流れる汗も、冷房の効いた屋内ではすぐに引いていく。正気度が回復したところで、入り口のすぐ脇の貸し出しカウンターを見遣るが、誰もいない。デスク上には、図書館の用事を書きなぐったノートが開かれていた。すぐ隣にはコーヒーの注がれたマグカップも置いてあり、黒い水面に糸屑が浮かんでいる。
「今はちょうど留守なのかな?」
その辺に設置してある、一般図書検索用のパソコンではダメなのだ。館内は館内でも、一般人が使わないような古い図書で、管理者に書庫の奥から引っ張り出してもらわないと読めないような、そんな情報が必要なのだから、このカウンターのパソコンでないといけないのに………。
真っ黒な画面としばらく睨めっこをした後、パスワードが分からないからサインインは諦めて、用のある本は自分で探すことにした。
「古図書庫の鍵、どこだっけな」
かつて、図書館に頻繁に出入りしていた僕に笑顔で応対してくれた司書の方々が懐かしい。笑顔が健康的な、溌剌とした女性に、長年の読書量がそうさせるのだろう、とても落ち着いた雰囲気の、六十歳前後だと明かしたミスター・スマイリィダンディ。
………まぁ、それも結構前の話だ。現在はどうだか知らないが。
事務用品が雑多に積まれたデスク上には鍵はないようだと踏んで、引き出しを漁る。本当はダメだ。もちろんダメだとも。良い子も悪い子も真似してはならないことだ。
「………誰? あっ」
「あ~………」
良い子は真似しないでね。そんな、テレビカメラを意識したような台詞が言えよう筈もなく。僕は、いつの間にそこにいたのか、僕を見つめる一人の少女に、どう言い訳をしたものかと考えていたのだ。
教会のステンドグラスを背に佇む女神像のように、少女は慈悲深い目で、何やってんのこの人、と僕を見下ろしていた。尤も、ここはただの図書館で、あれはステンドグラスなどではなく普通の窓ガラス。格好も女神っぽい衣装でなく、キャミソールに薄いカーディガンを重ね着したものと、やや短めのスカートといった、現代の少女そのもの。見下ろしていたというのは、すぐそば、カウンター後方の階段を登ったところの踊り場から僕を見下ろしていたということなのであるが。
「あ、怪しい者ではないよ………? ただ、探し物を、ちょっと」
台詞が怪し過ぎた。
「………このことだったの」
少女は、両手に抱えていた、本が何冊か入った籠と、肩に掛けていた鞄を置き、それらの中から何やらゴソゴソと取り出した。驚きに目を見開いたり他人をじっと見つめて動かなかったりその後一人で勝手に納得したりと、随分と挙動不審な女神だなと思えば、少女が振りかぶった。野球のフォームとは違う、スポーツ初心者みたいな可愛らしい姿勢だが―――。
「おいおいマジ………あ、あれマジだ⁉ 何、何⁉ 何投げようとしてるの⁉」
気が動転していて一瞬だけ把握が遅れたが、それがおそらく投擲可能なサイズの、かつある程度の質量のある物体であろうというのは、何となく想像できていたのでというかやめてやめてやめてそれ死んじゃうやつだよ、流石に辞書は……え⁉ 辞書⁉
ブオンッ
「まず話し合いを―――づぅあっ⁉」
ドガシャーン
デスクの端に載っていたパソコンのディスプレイが撃ち抜かれていた。さっきまで僕がいた位置だ。
「…………え」
辞書弾が起こした風でなびいた前髪が額に貼り付く。冷や汗の原因たる辞書は、既に図書館の入り口付近で寝そべっていた。羽根をまき散らした鳥の死骸みたいに、ページが散々なことになっている。
「嘘だろ………? なぁ返事してくれよ………」
弾丸のように『一発』で消費された辞書よ。僕の代わりに散ったディスプレイよ。振り返ったところには、誰の応答もなかった。
当然である(?)。少女が辞書を投げて破壊の限りを尽くしたのだから(?)。
もう何が何だか。
(あの華奢な身体のどこにそんな力が………というかどんな身体でも辞書をレーザービームみたいに発射なんてできないだろ、コントロール良過ぎ、何だあれ、デタラメだ、あんなの無理、もうダメだぁ)
誤解を解かないと意識が溶けるかもしれない。下手に行動を起こそうとすれば臓物が散るかもしれない。
何が何だか分からないが、前方の少女に対する、何か生物としてのポテンシャルの差のようなものは理解できた。
あれ、少女に負けてる気がするぞ、僕。
せめて人並みにはと自信のあったキャパシティーもオーバー気味だ。そんな中で辛うじて手繰り寄せた思考の帰結は―――。
(死んだ振り………!)
それは例えば、野性の熊を前にした人間がとる愚かな選択。
(背を向けて全力疾走………!)
それも。
(食べ物を差し出す!)
それも!
手近なもので、投げることができて、相手の興味を引いてくれそうな物は、生憎と持ち合わせていなかった。
(仕方ないな)
「……―――」
とりあえず、呼吸を落ち着ける。
対処のしようはある筈だ。
図書館内の本がダメになってしまうかもしれないけれど。
話し合いは、その後。
「―――」
僕は身体のサイクルを、電源をオンからオフに、オフからオンに切り替えるようにして、直感的な、ともすれば反射にも近いようなことを、意識的に行おうとする。それは例えば、汗をかくことを意識的に行おうとするのに似ていた。と言っても、感覚的にも、おそらくは実際の所でも、原因の部分で全くの別物なのだろうけれど。
「――――あ」
しかし突然、身体から力が抜けた。
(なんだなんだ⁉ なんだ⁉)
いつかの大男のようなことを思いながら、混乱したままで、全てを悟った。
全身から上がる悲鳴は、身体にかけた無茶な負荷によるもの。
何が「呼吸を落ち着ける」だよ。
失敗してるじゃないか。
「あ……れ………」
『―――え⁉』
突然床に倒れた僕。少女がこちらに駆けて来る。
『――に――れ、冷たい⁉ 真っ青⁉ 真っ白⁉ 死んじゃった⁉ うそ⁉ ………でも、あれ、これって―――』
少女は僕のそばまで来ると、そのまま立ち膝になって、なぜか、呼吸や脈拍、意識の確認を始めた。
さっきのは殺すつもりではなかったのか。どういうことだ。
『もしもし? もしもし?』
あたふたしている少女の、その可愛らしい表情を見ていると、何だか不思議な感情が込み上げてきた。
こういう人とは、もっと普通に会話をしたかったんだけどな。
(それにしても、この状況………フ、アハハハハハ!)
こんな少女に対して本気になりかけて、本気で失敗するなんて。
自分を殺さない少女に対し、混乱と安堵もあったからだが、何より自身の情けなさが痛過ぎて、もう大笑いしたい気分だった。
(ハハ……ハ………結局、死んだ振りになっちゃったか………)
しかし、死んだ振りではない。事実、今の僕は死にそうなのだから。
そう、いうなれば、全く逆であろうが『冷や汗をかく』というのとかけて『冷えをかく』とでもしようか。身体のサイクルの変化………それはひょっとしたら、置換と言っても過言ではないほどの変化かもしれないが、それを意識的に行ったところ、つまり冷えをかいたところ、それに失敗したのだ。何しろ、最近まで余り使わなかったし、子供の頃はそれこそ呼吸のようにできていたけれど、今となっては錆びついていたものだから。
子供の頃にできていたこと、あるいは持っていたもの。大人になる頃にはできなくなっていたこと、あるいは、失っていたもの―――大概の人間に当てはまるものとして、身体の柔軟性などはいい例だ。
身体の未成熟ゆえに利く融通のようなものはあるということ。
つまり、僕はかなりヘタクソになってしまっていたのだ。
(いやぁ、でもまさかここで失敗するとはね。サイクルが完全には―――)
余裕だった筈のアタマは、身体の信号にじわじわと気付き始めた。
(―――ッ、ぐっ、クソッ、首が熱い、身体の内側が熱いー!)
自分のポンコツさ加減に、呆れた笑みをこぼす余裕もなくなってきた。
苦痛にのたうち回りたいところだが、そこは流石に生物とでも言うべきか、許容範囲外の刺激には意識のシャットダウンで対処がなされるようだ。
『―――ぇ! ―――と! ――――‼』
『――……。――――……――――』
その、栗色で肩に届くか届かないかという髪を揺らしている少女の表情を見ていた。意識が途切れる直前まで、見ていた。
女神などとは少し違う印象の、美しいがどちらかといえば可愛らしさの方が優る顔立ち。
少女は瞳を潤ませて―――あっ、とうとう涙が溢れてきてしまったようだ。
べそをかいているようである半泣き少女が、『どうしよう⁉ どうしよう⁉』とか『え、聞いてないよ‼』とか、泣いているのか怒っているのか分からない様子のまま、バッグから取り出した端末で誰かと話し始めると、僕はなぜか安心して―――。
かわいいなぁ、とは思いつつも。
遠くなる意識の中で、僕は自分のそんな感想に笑ってしまったのだ。
「こんなのがボーイミーツガールだなんて!」 ごもっともです。
主人公の自嘲の色が濃いのは、少女との対比です。
そして、今の彼がとても卑屈なのは、心が荒んでいるからに違いないでしょう。