0 遠い寄り道
まず最初に、物語があった。
それが誰のものなのかは………分からない。
奥底に沈められた物語。そこはまだ寒かったから、凍りついていた。
きっかけがありさえすれば。
誰かと誰かの物語は、とけあっていく―――
記憶の中の僕は、本を開いていた。
『むかしむかし、あるところに―――』
どうしても忘れられない話はこんな語り出しだった。どこにでもあるような、それこそどうしてその話が記憶にとどまり続けることになるのか分からないほど、陳腐な語り、ありふれた結末。
しかし、僕はその話の中に吸い込まれるように、何度も読み、何度も想っていた。
見る度に、聞く度に。そんな終わり方に納得がいかなかったのだ。
『―――そして冷たくなった男が、雪どけの下から見つかったのでした』
甘美な物語。甘くて、冷たくて、切なくて、透き通るほどに美しく、残酷な物語。
それが僕の知っている『雪女伝説』だった。
『じゃあやっぱり、死んじゃったのかなぁ』
『わかんない。でも、これってそういうことじゃない?』
隣の草の上に腰を下ろしている、僕と同い年くらいの少女は、それに理解を示した。納得はしていないようだったけれど。
『何だか、さびしい終わり方だなと思ってさ』
『………仕方ないよ』
『………仕方ないのかな』
『そういう運命なんだって。お母さんが言ってた』
少女はそうは言うものの、読み終えた物語の結末が、やはりどこか腑に落ちない様子。自分の思い描く理想とは似ても似つかないものだから、悔しいと感じる。僕にも、それはすごく共感できた。
生きてさえいればよかったのに。何とか幸せになれたかもしれないのに。最後の最後で、死んでしまうなんて。
それでも少女が表情を曇らせながら「仕方ない」というのは、きっと理解しているからなのだろう。
そこにあるのは、理想でも運命でもなく、現実なのだということを。
『運命、か。でもなぁ』
『あと、ブンフソウオウはヨクブカでツミだ、って………』
少女の母親まで………大人がそこまで言うのだから、そういう気がしてくる。
でも、だとしても、僕は―――。
『じゃあ、ぼくはきっとヨクブカなんだろう』
そして、罪深い?
上等だとも。
『どういうこと?』
『何でもない』
『………? あっ、待って』
読み終えて、僕が閉じようとしていた本のページに、少女が手を伸ばす。ひらひらと、上から何かが落ちてきたのだ。
『ほらっ、ねっ、さくら!』
『あ、うん』
少女が手のひらに一片の桜花弁を載せると、二人で頭上を見上げる。
二本の桜の木が、昼の淡い青空いっぱいに枝を広げていた。
そういえば。僕達が本を読んでいたのは、桜の木の下だったのだ。
それは、桜が咲く季節―――
季節の変わり目に外出した時、不思議な感覚を覚えたことがある。それまで感じなかったニオイが、鼻先に感じられるようになっていたのだ。
そういう時は、清々しさに、足が軽くなる。
冬と春の境界線を曖昧にしたまま、けれども自分だけは春の訪れを知っている気になり、それは見慣れた公園の淡い色彩が、どこか色づき始めたという直感に、そしてこれからもっと色づく筈だという展望に変わっていく。
いつからなのか、いつまでなのかは分からないが、いつかは、いつであるのかは分かる。
冬が終わると、雪を解かしながら、それはやってきた。
そして、この桜を咲かせたのだ。
『―――くん、―――くん?』
『………え』
『―――ぅしたの?』
少女が、物思いに耽っていた僕の顔を覗き込む。
『どうしたの?』
『―――ああ。いや、さっきの話だけど、仕方ない、って言ったでしょ?』
『うん。言った』
『でもさ、やっぱり………うーん、ええと』
『?』
僕は、この不思議な気持ちが少女にも分かるか尋ねたかったけれど、僕自身がまだよく分かっていなかったから、うまく言葉にできない。
しかし、実は単純。それはただの願いだったのだ。
現実に納得できない僕の、自分の望みが何なのかすら分かっていなかった僕の中の、何かモヤモヤとしたものが、一番強い願いを解き明かしつつあった。
そういう運命なんだって―――そうかもしれないけれど、でも。
『でもやっぱり、ぼくは―――』
ところが突然、少女の輪郭がぼやけ始めたかと思うと、それは遠くなっていく。
続きを口にすることは叶わず。必死に叫ぼうとするも、声が出なかった。
待って。
待ってくれ。
言っておかなければならないことがあるのに。
………今、やっと分かったんだ。
僕の言いたいこと。
僕の願い。
冬の後に廻ってくる、春のような。
見事な桜を咲かせてくれた、今の、この季節のような。
どうせなら、そんなハッピーエンドがいいんだ、って。
「―――っり、ぼくは………っ」
パチッ、と音が出るわけでもない瞼が開く。
どうやら、自分で発した寝言に起こされたらしい。
「随分と懐かしい夢………」
自分の寝言で目覚めるとは空しいなと思いつつも、見ていた夢の内容を少しだけ思い出すことができた。
自分がまだ幼く、生意気なだけのマセガキでいられた頃の話だ。
「僕にとっての一番の春は、あの頃だったのかもなぁ」
くたびれた人間の台詞を吐きつつ、枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。前面についている大きめのスイッチを押すと、日付と時刻を表示するデジタルの画面が緑色に光った。七月二四日、土曜日。時刻は朝の四時四分。本当はあと少し寝ていてもよかったのだが、もう起きることにして、アラームのスイッチをオフに切り替える。ベッドを降りて部屋の窓のカーテンを開けると、まだ薄暗い外の様子が見えた。
「顔、洗うかぁ」
めくれたTシャツ、ずれたハーフパンツのまま、洗面所へ向かった。
キュイ、と無造作に蛇口をひねって水を出す。明かりのついていない、暗く静かな空間に流れる水音を聞きながら、何気なく視線を前に飛ばす。
大きな長方形の鏡の中から、真っ白な顔が拗ねた子供のような目で僕を見ていた。
「………」
傍から見れば無表情としか言えないであろう顔だ。窓から差す朝日を待ち続ける洗面所の、群青色の暗闇を背景に、ぼうっと浮かび上がるその顔は、さながら幽霊のようでもある。いつもながら、いつになく生気がない。それ以外は何の変哲もない。見惚れることもなければ吐き気がすることもない。特に思うところもなく、強いて言えばもっと自分好みの顔に生まれてきたかったと思うくらい。
拗ねた子供は物思いに耽っていた。
「雪女………か」
久しぶりに思い出していた。
僕が知る結末を。
仲の良い知人が聞いたら、きっと笑うだろうけれど。
でも、僕は知っているのだ。
それがどういったもので、どういう結末を辿ったのか。
僕が僕であるが故に、知っている。
そして、こういうことがあり得る、こういう奇跡は存在する―――
そう思うだけで、世界が輝く気がした。世界を好きでいられる気がした。
だから。だからこそだ。
僕は、奇跡を守り続けることにしたのだ。
お水はもっと大切に。