episode.03
蒼穹に、鴉が数羽待っている。
眩しいほどの蒼に、小さな黒が滲んでゆらゆらと揺れる。
鴉は嫌いだった。彼らが運んでくるのは、いつだって人の死だ。
人が思うよりも、はるかに賢しい彼らは、そこに何があるかを理解している。
血と絶望がしぶき、いずれ数多の虚ろな骸が転がること。据えた腐臭と血の匂いで大地が覆われること。餌が、辺りに溢れること。鶏が先か卵が先か、所詮はその違いでしかない。
「湿気た面してんなァ。なんだ、そんなに戦場から離れたくないか?」
揶揄うような声に視線を向けると、ガウラがひらひらと手を振った。眉を寄せる。
「……なんですか、総隊長って暇なんですか?」
そうは言うが、ガウラに会ったのは一昨日の戦闘以来である。昨日の捕虜尋問にも立ち会わず、夕餉にも顔を見せなかった。血に濡れていないガウラはなんだか新鮮で、ついそう考えてしまった自分にうんざりする。
「リタと同じ反応するなよなァ。お前ら仲良しかよ」
「知らねえよ。もう出発でしょう、こんなトコで油売ってていいんですか、隊長サン?」
アルヴァールに侵攻してきていた他国の軍を破ったのが一昨日。昨日は休息と尋問に当て、そして今日、アルヴァール軍は王都に帰還する。もう既に兵たちは師団ごとに整列し、出立の号令を待っているところであった。
そう言うヤクも、己が率いる第九師団が整列を終えたのを確認し、その後の細かな指揮を部下に任せたばかりである。
万を越す兵隊の甲冑に光が反射し、あたかも水面を見ているかのように輝いた。
くすんだ大地に、鮮やかな緋色の旗が振られる。何も、よりによって緋にしなくともいいだろうに、とヤクは思った。
戦場において、空の蒼、土塵の茶に続いて目にするのは赤だ。しかも、土色なぞすぐ赤に塗り替えられてしまう。
戦いでは、何よりも確かな色。
「そう言うなよ。今回の戦は久方振りに大掛かりだったんだ。兵の様子を見て回るのも、総隊長の役目だろうが」
ガウラはヤクの後ろにずらりと並んだ第九師団を見まわした。一糸乱れぬ整列。
此度、ヤクが率いていたのは一万の兵であるが、戦を経てもその数はあまり減っていないように見えた。犠牲者の数は報告する決まりであるため、当然ガウラは数を把握していたが、数字で見るのと実際に目にするのとは全然違う。前線を受け持っていたというのに、ここまで生き残るのは大層優秀と言わざるを得なかった。
「半年程度でよく鍛えたものだ。お前もまだ騎士の位に慣れてねえだろうに」
「……俺は殆ど何もしてねえよ。優秀なのは、半年前に死んだ俺の前任だろ」
騎士の位は受け継がれる。九柱の形こそ保たれてはいるが、実際は補充の効く体のいい飾りがいいところだろう。
ヤクも、前任が死んだせいで騎士の位を与えられた一人だった。第九師団の大部分はその前任が率いていた兵だ。
騎士は生命を賭けて国を守るためにいる。吟遊詩人に謳われるように、アルヴァールは九つの柱が支えている。
無窮にして無敗。
盤石にして勇猛。
当然のように勝ち続け、すべてを踏みにじって君臨する。
そうあれかしと、望まれている。
まだ騎士の位について間もないヤクでも、それは理解していた。
「……騎士でも、死ぬんだな」
「そりゃ人間だからな。死ぬ時は死ぬ。……なんだ、死ぬのは怖いか」
怖くなどない。
そう言おうとしたが、何かが違う気がした。怖くはない。何十、ともすると何百もの命を奪ってきた。死線を歩いているのだから、いつか死ぬのは当然のような気もする。そう、怖くはない。怖くはないが、ああ、きっと___。
「……死ねない」
そう、死にたくないのではなく、死ねないのだ。
まだ、やることがある。
心に誓ったことがある。
それを成し遂げるまでは、ヤクは、死ねない。
その為に今まで生きてきたのだから。
「ま、王都に帰ったら恐らく、暫くは休暇だ。血潮とも一時のお別れだな」
ガウラはそう言うと、空を見上げ太陽の明るさに目を眇めた。時間だな、という声は蒼天に溶けて消える。
「___さあ、帰還だ」
ざ、といくつもの甲冑が土を踏む音が響く。腹に響く角笛の音。旗が大きく振られる。まるで水が波打つように、大軍が行進を始めた。
____アルヴァール兵、その数凡そ5万。
血を浴びて歩くその道は、きっと勝利の凱旋に違いなかった。
***
前の隊が歩みを止めているのを見て、ヤクも小さく手綱を引いた。微かなざわめきが聞こえてくる。見ると、前の隊だけでなく、その前も止まっているようであった。
「どうした」
馬を小さく走らせて後方へと向かうつもりであろう兵の姿を認め、問いかける。きっと伝達兵であろう。
はっ、と瞬時に姿勢を正した兵が馬を止めてその声に答えた。
「ガウラ総隊長が、野営の準備をするように、との仰せであります」
「野営?こんな早くにか?」
疑問を呈して鸚鵡返しに尋ねると、兵は困ったように頷いた。
「なんでも、…獣が出るようで」
兵が答えるや否や、仔細を聞くのも叶わないうちに向かいからヤクの名を呼ぶ声がした。
堂々たる馬に乗り、赤い外套を纏った青年、___敵の総大将を見事討ち取った騎士、ジェイル=ヴォーデンその人である。
ジェイルはヤクと向かい合っている兵の姿を認めると、おや、と片眉を上げた。
「話し中だったかい?」
「いや」
騎士二人と面を合わせた伝兵は、哀れなほど背筋を伸ばし、勢いよく敬礼をした。緊張で身体を強ばらせる彼を見てジェイルが苦笑する。
「もう行っていい。伝令の途中だったんだろう?」
「はっ」
ヤクの言葉に再び敬礼をした兵は、馬首を巡らせすぐさま駆け出した。まっすぐ後方に駆けていくのを見ると、きっと一番後ろ、第三師団のリタの所まで行くらしい。
「嫌われちゃったかな」
「馬鹿言え。今戦の功労者に気後れしたんだろ」
「はは。首級を取ったってだけなのに、幾分大袈裟じゃないか?」
さらりと口にするジェイルだが、それほど単純ではないことはヤクだって知っている。
先の戦では、三方に分かれて敵陣に攻め込む、通称鶴翼の陣が適用された。
リタ率いる一万の兵、第三師団が中心となって、左翼を。
第一師団を率いるガウラやジェイルは中心部、その数凡そ三万で分厚い本陣を構成する。
ヤクの受け持つ師団、第九師団は右翼だった。
本来、鶴翼の陣とは防御を絶対とする陣形だが、此度の戦は地の利も相まって敵陣を包囲する形で攻めることとなった。主力同士が鎬を削っている間に両翼が側面を討つ、さすれば短時間のうちに兵力を削ることが可能である、と。
軍略通りならば、両翼の兵の消耗も激しいながらも敵陣に混乱を招き、一気に敵将を討ち取る手筈であった。
しかし、この男は。
「運が良かっただけだよ」
本陣の奥、中央部にいたのにも関わらず、鶴の嘴に躍り出ただけでは飽き足らないばかりか、敵軍の本陣を少数の兵で突破、敵軍最深部の敵将に肉薄し、見事その首を討ち取ったのである。
まさに化け物だった。
しかし、そんな芸当が容易く出来る人間が第二師団長、ジェイル=ヴォーデンという男なのだ。
「しかし、こんなに早く野営地を立てるというから何があったのかと思ったが___聞いたかい?獣が出るんだってね」
その声音はごく普通に世間話をするような調子だったが、確かに猜疑の意を含んでいた。
左程ジェイルと親しいわけではないヤクにもわかる程だ。そう、敢えて言葉にするならば。
まさか、獣如きで、と。
「大方この先にあるエレバスの森に住み着いた狼の群れだろう。冬が明けたとはいえ、最近は土地そのものが荒れてきている。餌が少ないんだろうな」
そう言いつつも、やはりヤクも疑念を抱いていた。
狼は基本賢い。いくら腹を空かせているとはいえ、五万の兵が行進しているところを襲うだろうか。
数十キロ程度北東へ進めば、積み重なる程の死体の山がある。もっとも、既に鴉や鬣犬に食い散らかされているかもしれないが。
「三万の軍隊より狼の群れを恐れるか。上層部の考えていることはよくわからないな」
戯れだった。ジェイルもヤクも、決して原因が狼などではないことは理解している。
ジェイルの馬が小さく嘶いた。
情報伝達が早かったのだろう、あちこちで早くも篝火が焚かれ、兵卒が忙しそうに歩き回っている。
五万の軍隊は移動も厄介だが、ただ止まるのでさえ容易くはないのだ。馬が繋がれ、天幕が張られる。
そうしているうちに、夜が来る。
もっとも、今日は日も満足に暮れぬうちから野営の準備をしていたため、天幕を張り終わっても夕餉の時間まで大分間があるだろう。
こんな時間なら、とヤクは思う。
こんな時間なら、エレバスの森を越えてもなお、野営地を作る余裕はあったはずだ。
なのに___なぜ?
二万の騎兵と三万の歩兵。それだけ人間がいても、恐れるべき存在。
あるいは、それなりの代償を払わざるを得ない存在。上層部が、そう決断しなければいけないほどの存在____。
例えば山火事や土砂崩れなどの天災、戦の残兵、あるいは__御伽噺のような、魔物。
そこまで考えて、ヤクは笑いだしそうになった。
まさか!そのどれも、ありえない。
斥候も放っていない、軍を後退させてもいない。それなのに、何かが起こっているわけがない。
そう、起こっているわけがないのだ。
「詳しいことは、俺がガウラ隊長に聞いてくるよ。もしかしたら、隊長の気まぐれかもしれないし」
ジェイルが肩をすくめるのを見て、そうだな、と相槌を打った。
無論の事、ガウラが気まぐれで軍を止めたことはないが、今までなかったからと言って今後もないとは言い切れない。それに、先程頭に浮かんだ他の選択肢よりかは、可能性があると思えた。
「まあ、何でもないことを祈っておこうか」
にこりと笑んだジェイルは、先程の伝達兵とは反対方向、ガウラのいるであろう前方に向かおうと手綱を引いた。
丁度ヤクとはすれ違う形になる。
「ああ、そうだ」
ヤクの視界にすっと影が差した。
馬を器用に操ってヤクの至近距離まで近づいたジェイルが、通りすがりざま身を屈めて囁く。
「今から少し仮眠を取るといい。夜半から明け方にかけて、夜襲があるかもしれない」
可能性は限りなく低そうだけれどね。そう続けて囁いた彼の顔を見上げる。
「…何か知ってるのか?」
「いや。……ただの勘だ」
そういうとジェイルは馬の腹を軽く蹴り、ヤクの後方へと歩き出す。
それを横目で見送って、ヤクも馬首を巡らせ、今しがた張られたばかりの天幕へと向かった。
どうせやることもなくて暇だ。天幕も兵卒が大方張り終わった。夕餉までは時間がある。
(そういえば、まともに睡眠を取っていなかった、か)
戦闘の後は気が昂って中々眠れないことが多々ある。別に支障が出ない程度だったが、時には昼寝も悪くなかろうと、ヤクは忠言通り、暫しの睡眠を取ることに決めた。
闇の中、小さな焚火が揺れる。
夜も更けた。大方の兵士は、天幕の中で眠りについている。
時折視界の端で淡い赤色の光が揺れた。見回りの兵士が巡回しているのだ。
静かな夜だった。
月は出ているが細く、青い。
少しでも風が吹いたら雲に隠れてしまいそうである。
剣を抱き、夜空に舞う火の粉を眺める。忍び寄る寒さのせいか、眠気が来ることはなかった。
ジェイルの言うことを真剣に信じているわけではなかった。これで敵襲があったなら、ジェイルを間者だと疑わねばならぬ。
目を閉じる。
ジェイル=ヴォーデン。
第二師団の団長にして、ガウラに次ぐ実力者。
そんな者が実は敵だったりしたなら、アルヴァールは大損害だ。戦士としては大分老いた総団長ガウラの後は、彼が継ぐだろうと言われているのだから。
加えてジェイルの第二師団は斬り込み役も兼ねている。
夜の闇は空恐ろしいほど静かだった。草木のざわめきも、虫の鳴く音すら聞こえない。
夜は更けていく。
跳ねる火の粉を見つめていたヤクは、何か強い風が吹き抜けるような音を耳にした気がして、後方の闇を振り返った。
遠い空の暗闇に、一瞬高く吹き上がる赤い光___。
見間違いかと目を凝らしたが、それが再びヤクの前に現れることはなかった。
そして、夜も白んできた頃、ジェイルの悪しき予言は的中した。
まるで、ヤクを嘲笑うかのように。