第八章
街に出たところで薫はどこに行けばいいのか分からなくなっていた。当然と言えば当然だった。ナイトメアは音もなく現れる。場所も時間も特定ではない。そんなやつを当てもなく探し出すのは正気の沙汰ではなかった。
そこで薫は詩織を呼び出し、「青い鳥」で会うことにした。薫は詩織に会うと愕然とした。詩織は顔面蒼白になり、満身創痍の様子だったのだ。理由を聞いても詩織は何も答えず、ただ首を振ってばかりいた。そこで薫はふと思い出してこう言った。
「もしかしてそれはナイトメアと何か関係があるのかな?」
すると詩織は意外な顔をして目をぱちくりさせ、やっと言葉を発した。
「どうしてそれを知っているの?」
「大学の博士に知り合いが居て、その人から詳しいことを聞いたんだ。僕と君に呪いをかけたのはナイトメアという悪魔で、それは超越的な力で僕たちの運命を左右していること。そしてナイトメアには人間との契約が不可欠でそれが久我未来君という」
「じゃあ」と詩織は言って一度口を噤んでから言った。「あなたが本当はこの世に存在していないことも知ったのね」
「どうしてそれを知っているの?」と薫は驚いて言った。
「どうしてもよ。それで、あなたはどうしたいの? それを聞いてどうしようと思ったの?」
「どうするも何も、ナイトメアの悪事を止めてもらえるように久我未来君を説得しようと思う。そうして初めて僕たちの流れをせき止めている何かが解き放たれるような気がするんだ」
「でも、そうしたらこの世界に居るあなたは消えてしまうかもしれないのよ? あなたは元の世界で生きるべき人だった、でも、それをナイトメアは無理やり改変してこの世界に連れてきてしまった。だから、あなたはナイトメアの力なしでは生きていけないのよ」
「それでも、それでもいいんだ。僕は本来ここに居てはいけない人なんだ。君さえ幸せでいてくれるなら、僕は消えてもいいと思っている」
「そんなの……そんなのあんまりだわ。だって、薫君がいなくなったら私は一人になるじゃない」
「仕方のないことなんだ。そもそも今ある幸せも本当はなかったことなんだから。今が幸せなだけまだましなんだよ」
薫がそう言うと、詩織は黙りこくったまま何も話さなくなった。薫から見て、詩織の表情は硬く見えた。それから薫は居ても立っても居られなくなり、その場を離れた。
青い鳥を出てしばらくの間あてもなく歩き続けると一本の桜の木の前にたどり着いた。桜の木は細く、頼りなさそうに、美しく生えていた。真夏の桜の木は特に感動を呼ぶ代物ではないがそれが却って薫を安心させた。薫はしばらくの間その桜の木を見つめていた。桜の木には意思がないが、薫にも意識がなかった。正確には朦朧としていた。朝が何時から何時までか、夜が何時から何時までかの線引きなど考えたところで分からない。それどころか考えようとすることすらできない。それほど薫の神経は消耗しきっていた。そうしてしばらくの間そこに立ち尽くしていると、見計らったみたいに「それ」は現れた。
「やっと会えましたね。ナイトメアさん」
「久しぶりだね。君は随分と僕の事を探したみたいだね。ご苦労様。僕はたいして君に会いたいわけではないのだけれど、特別出血大サービスで会いに来てあげたよ」
「出血大サービス? 冗談じゃないですよ。僕があなたから被った害の大きさを埋め合わせるにはいささか足りないんじゃないですかね」
「まあ、そういわずに。そうだ。君に夢を一つプレゼントしてあげよう。何、心配はいらないよ。これは悪夢じゃない。健全な夢だよ。さあ、瞳を閉じて、想像して。ふりこが揺れているよ。右へ左へ。君の意識と共にね。右へ、左へ、また右へ。そう。そのまま。そして落ちていく」
ナイトメアがそう言うと薫の意識は混沌の奥底に落ちていった。
やり場のない苦しみが夢の中を支配する。
僕は夢の中でどうしようもなく苦しんでいる。こんな世界なんて滅んでしまえばいいのに。血を流すよりも痛い苦しみに心が締め上げられて、もう居ても立っても居られない。そう思った瞬間にいつも目を覚ます。
そして、まだ意識がはっきりしない頭を抱えながらも嘆く。
「嗚呼、今日もまたこうして一日が始まる」
それは呪いと言ってもいいかもしれない。
見たくもない悪夢が目の間に突き付けられる。瞬きすら許されない不可避の幻。
ここは夢? それとも現実? 分からない。
死人の苦しみは死なないと分からないでしょう? それと同じことよ。
そんものかな。
誰かの言葉が心の声のように木霊する。そして薫の意識も次から次へと移ろいで行く。洞窟の中を冒険するように。そして、薫はある一つの思い出のような終着点を見つけ、そこに意識の根を下ろした。
少年は美術館の展覧会の会場に居た。題名は「印象派芸術家たちの戯れ」で、会場には老若男女問わず数多くの男女のつがいが訪れ、その全員が気難しい顔をしてそこにある展示物を眺めていた。
「君は、この絵をどう見るかね」と、青年は言った。
白いシャツに黒いズボンの、どこにでも居そうな人だ。少年はその青年を知らなかった。
「分かりません。僕には難しすぎるようです」と、少年は抑揚を欠いた声で言った。
「分からなくて当然さ。こんな絵に意味性を求めてはいけない。そこからは純粋な感想だけを抽出すれば問題はないんだよ」青年は険しい顔をしていたけれど、他の来場客とはまた違った険しさを顔に出していた。
「では、例えばこの絵は何を伝えようとしているのだと思いますか?」
二人の前には羽の生えたウサギの絵が展示されていた。絵の調子はまさに印象派のそれそのもので、一目見ただけでは何の絵なのか判別がつかなかったが、少年はなんとかそこからウサギの絵を見つけ出すことに成功した。それは地から足を離し、今にも空高くに飛び立とうとしている。その優雅な佇まいはかの有名はフランスの英雄のようにも見える。顔は恍惚とした表情をしていて、己の壮麗な姿に満足していない様子だった。
青年は瞳を閉じ、その絵の向こう側にある世界と意思疎通しているようだった。彼の肉体はどこにも行かないが、意識が遥か彼方の宇宙空間まで飛び立ち、目で見えない何か大切なものをそこで探していた。
「そうだね」と青年は言った。「例えば君は赤色のピーマンを見たことはあるかな」
「あります。普通のピーマンよりも少し大きくて、黄色のやつと同じ種類のものです」
「違うね。それは多分パプリカだよ。あるいはピーマンなのかもしれない。しかし、君はきっと黄色いものと赤いものの方はピーマンではなく、パプリカであると定義している。君は今それを言い間違えた。そうだね? でも実際には赤色のピーマンは存在する。君はそれを知らなかった。つまり、このウサギの絵も同じことが言えるんだよ。このウサギは本物のウサギではなく、羽の生えたウサギだ。それはウサギであると判断しているが、実際には羽の生えたうウサギだ。それを知らずに分かったような顔をして何かを語るのは滑稽というものだよ、君。だから我々は未知のものからは論理的に説明できる何かを取り出そうとしてはならない。それはこの世において極めて無秩序なものだから、僕たちにそれを扱うことは出来ない。何も考えてはいけないんだ、僕たちは。ただ眺めているだけでいいんだ」
少年は青年の言葉を聞き、理解するまでに大変な時間を費やさなければならなかった。そしてその言葉を部分的にでも理解できた時にふと顔を上げて少年の隣を見たが、青年はいつの間にか姿を消していた。
「何も考えてはいけないんだ、僕たちは。ただ眺めているだけでいいんだ」
「演出は大事だよ」と悪夢のような男は言った。
「これもナイトメアの能力の一つなのですか?」
「そうとも言えるしそうではないとも言える。これはある種の幻覚であるが、その幻覚には材料が伴う。それが個々人の深層心理にあるものであるから、それが一概に人工的なものとして扱うことは出来ない。だから今君に見せたものはあるいは君の奥深くに眠る記憶なのかもしれないね」
ナイトメアはそう言うとうつむき、少し考えるようにしてまた瞳をあげて言った。
「この世界について、この僕の事について、博士から聞いたのだろう? だから君は知っている」
「それもある」
「ほう、他に理由があるような口ぶりだね」
「この世界には、この夢の世界には受験というものがないんだ」
薫がそう言うとナイトメアは激しく笑った。地面がひしめき、今にも地震が起きるのではないかと思われた。
「君は面白い発想をしている。なるほど、確かにこの世に受験というものをうっかり作り忘れたみたいだ。君や徂徠詩織さんが高校三年生にもなって進路について考えなくてもいいのはこのためなんだね。でも、よく君がそのことに気がついたね」
「久我未来君の意識の中から見つけたんだ。久我未来は僕に呪いをかけた。でも、呪いはナイトメアの力を必要とする。そのナイトメアの力を発揮するためには必ず人間という媒体が必要となる。呪いの場合も然り。その対象である人間と意識をリンクする必要がある。あなたが僕に呪いをかけた時、同時に久我未来の意識と記憶が僕の中に入って来たんです。だからすべてを知ることが出来た。あるいは僕はあなたに感謝するべきなのかもしれないえですね。でも、どうして僕たちに呪いをかける必要があったのでしょうか」
「まさか、知らないわけではないだろう。君は久我未来の意識を共有したのだから。久我未来は徂徠詩織を愛していた。でも、最大の障壁である君が邪魔をしていた。でも、君は死んだ。一週目の世界で。二週目の世界では君は一週目の秋山薫として存在しない。徂徠詩織はそんな君を再び愛した。だから呪いをかけることにした」
「でも、僕はもうこの世からいなくならなければならない」
「そうだね。君はこの世界でいささか人工的に作られ過ぎた。他の誰でもない僕によって」
「好きにしてください。久我未来が好きにしようとなんだろうと別にどうでもいいです。この世界の僕は元々僕の物ではなかったのですから」
「本当に良いのかな? この世界から君についての何もかもが消滅しても」
「いいんです」と薫は言った。「そろそろ夢から覚めないと」
八月十七日。久我未来は徳永詩織と二人で夜の公園を歩いていた。
「徳永詩織?」と久我未来は言った。
「そう、苗字が変わったの。両親が離婚してね前までは徂徠が苗字だったのだけれど、最近になってお母さんが再婚したのよ。だから徳永詩織」
「ふーん」と久我未来は言った。雲も何もない青い空を見上げながら。
「私、今の生活は幸せよ。久我君が居て、新しい家族が居て、この他には何もいらないっていうくらい」
「僕もだよ。僕は君が好きだ。幸せでいる君が好きだ」
「ありがとう。いつまでもこのままで居たいね」
「そうだね」
運河のある方から内陸の方へ流れる海風が二人の頬を撫でる。月明りは淡く、外灯の光に遮断される。二人の居る世界はまるで、手作りのおもちゃ箱の中のおもちゃみたいだった。
二人の居る世界が永遠に続く物語を書こうとすれば永遠に描き続けることが出来るだろう。しかし、二人が永遠に続く世界を作ろうとするならばそれは相当の労力を背負うことになる。そんなほぼ不可能な技を、ナイトメアは成してしまったのだ。ナイトメアのせいで久我未来のためだけの、がらくたのような世界が一つ出来上がった。それについて反論の出来る人はだれ一人居ない。誰も気づいていなければ誰も指摘することは出来ないのだ。
誰も真実を知らない居ない世界。秋山薫の存在しない世界。無数の星の中から一つだけ抜き取るとしたらそれはまさしく秋山薫に違いなかったのだ。
九月二十三日。久我未来はあることを詩織に尋ねた。
「詩織はこの先どうするの?」
「どうするのって?」
「ほら、もう三年生ももうすぐ終わるから進路を決めないといけないじゃないか」
「ああ、そうね。でも、前も言ったけれど全然決められないの。自分のしたことなんて何もないんだから」
「そうは言ってももう選べる進路も少なくなってきてるよ。専門大学の先行入試はもう終わっているから、あとは四年生大学か就職しかないだろうね」
久我未来がそう言うと、詩織は動きを止めた。
「ねえ、入試ってなんだっけ」
「ああ、それは……」と久我未来が言いかけた時、彼も動きを止めた。
「入試、入試、入試。そうね。それは元々頭の中にあったはずなのにね……でもどうしてかしら。その言葉がとても引っかかるわ」
「それは気のせいなんじゃないかな」
「いいえ、気のせいじゃないわ。ちょっと待って。ああ、そうよ。私は徳永詩織になんかならない方がよかったのだわ! それに、今ここに居る場所は私のためにあるものじゃない。あなたのためにあるものよ。私はこの世界において根本的に存在意義を失っている。そう。そうよ。私は何もかも操作されていたのよ。あなたにね」
「それは、どういうことだろう」
「とぼけないで」
そういう詩織は確固たる意思を持った表情をしていた。
「ああ、ばれてしまったのか。でも、一つだけ教えて欲しい。どうしてそのことが分かったのだろう」
「薫君の意識が私の中にあったのよ。あの時、あなたが私に呪いをかけた時、薫君の意思が私の中に入って来たの。だから薫君が居ないこの世界でも私は薫君のことを思い出すことが出来た。あなたは失敗したのよ。残念ね」
詩織がそう言うと、久我未来は紙くずのようにバラバラになって消えてしまった。そして、久我未来が構成したその世界もまるまる崩れ落ちてしまった。木々も砂地も、月も雲もすべて真っ白に溶けてなくなってしまった。
そこは何もない世界。デウスエクスマキナも、ナイトメアも居ない世界。真っ白で奥行きのない世界。そこに一つの色の塊が現れた。それは青色の塊で、おたまじゃくしのような動きですいすいそこを泳いていた。その塊は物語っていた。この世界において正しいのは記憶でも無意識の願望でもなく、意志の強さなのだと。例えどれだけ記憶があっても、それに色がついていなければすべて意味がないのだ。だから人々は色を考えたのだ。二十四色の色鉛筆が現れ、パソコンの塗り絵ソフトが現れたのだ。そうして人間の生活を豊かにし、確固たる何かを築き上げた。薫にとって、それが詩織だったのだ。そして、詩織にとっても薫はそうだったのだ。
何もない世界はやがて台風にのまれ、大きな深淵の中に閉ざされる。誰かの記憶も誰かと誰かの関係も、すっかりなくなる。さて、そこからは何が誕生するのだろう。
しばらくすると、何もないところから一つの新芽が生えてきた。それはどんどん成長し、雨の恵みを受け、一粒の雫を垂らすようになった。そしてその雫はやがて球体となり、生を育むようになった。その中をよく見てみると詩織と薫が居た。雫の中というちっぽけな存在だけれど、そこに確かに存在していて息づいている。そんな世界があった。
それはどこにもありふれている世界なのだ。世界はそこらじゅうに転がっている。問題は誰がどのような世界を選ぶのかということだ。久我未来は選ぶ世界を間違え、ナイトメアはすべての世界をごちゃまぜにしようとしてしまった。彼らはしなくてもいい苦労をしていたのだ。こんなに非生産的な活動は他に類を見ない。すべては仮初めの美しさを求める感情が暴走したがために生まれた不毛な争い。人々はその危険性に気づかなければならないのだ。だから神々はナイトメアを含む、関係者すべてを裁くことにした。デウスエクスマキナが言った。
「もう人間にとって世界は必要ないのだ」




