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プラトニックアート  作者: みくに葉月
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第七章

 七月の第一週目。薫と詩織は「青い鳥」でいつものように勉強会を開いていた。

「薫君はほんとにコーヒーが好きなんだね」と徂徠詩織が言った。

「そうだね。ここのコーヒーが好きなんだ」

 店内には二人以外誰もおらず、二人が声を出すと二人だけの声が店内で木霊した。窓の外で鳴く雀の声は悶々として壁の向こうから伝わって来た。照明のガラスの装飾は僕たちの姿を反射し、眩しく輝いていた。

「薫君、どうしたの。さっきから顔色が悪いみたいだけれど」

「詩織、僕はどうしたらいいのか分からないんだよ。僕は、どこに向かって生きているのだろう。僕は今、何を目標に生きているのだろう。分からない。とても漠然としたことだけれど、とても大事なこと。それが分からないんだ」

「そんなの、分からないのが当たり前じゃない。もし分かっていたなら、苦労しないわ」

「そうだね」

 その後は数学について勉強をしたが、薫の顔色は一向によくなることはなかった。まるで夜空から星々を抜き取ったように暗い顔をしていた。暫くして、詩織がそれを見てこう言った。

「あなたの言う『分からない』というのはもっと別次元のことについてなのね。分かるわ。私も最近、そう思うことがよくある。本当はそんなこと、手に取るように分かるはずなのに、誰かに流れのようなものを遮断されて身動きが取れなくなっているんじゃないかって。そんな漠然とした不安を抱くの。でもね薫君、それは運命でしかないのよ。私たち人間一人ひとりに組み込まれた遺伝子がその人の性格を決めるのと同じように、私たちの運命も遺伝子的な何かによってきめられているのよ。だから決してあがくことが出来ない。私たちはただ流されるままに生きていくしかないのよ」

それから長い沈黙がもたらされた。秋山薫にとってそれは一分にも感じられたし、一時間にも感じられた。そして開口一番に薫はこう言った。

「勉強会は一度やめにしよう」「一度やめにして、もう一度考えてみたいんだ。もちろん、今していることと僕が今悩んでいることについては全く関係のないことなのかもしれない。でも、一度僕の中で渦巻く感情を一つひとつ手にとるように観察してみようと思うんだ。だから悪いけれど、詩織に勉強を教えることはしばらく出来そうにないんだ」

「いいわ」と詩織は言った。何も後悔のない思い出を培ってきた老人のようにそう言った。「一度やめにして、頭の中を整理しましょう」

そういって二人は別れた。あっさりと、埃が宙を舞うように。

薫は詩織と別れると、博士のもとへと向かった。すべてを確かめるために。すべてを解決するために。あの日以来博士とは顔を合わせていない。博士は薫君は既に死んでいるのだと言った。しかし、薫はこのようにしてぴんぴんとして生きている。そんなことを言われても実感がないのはわけなかった。そして、そんな意味の分からないことを言う博士とは今後会おうとも思わなかった。しかし、ここ数日の間薫が詩織と過ごしたり、考えごとをしている間に「このままではいけない」という感覚に襲われ始めたのだ。それはなんの突拍子もなく始まり、薫の神経をじわりじわりと汚染し始めた。そして詩織も同じような感覚に襲われていたのだ。ナイトメアに襲われたあの日から、薫たちの感覚は麻痺し始めていたのだ。だからこそ薫は確かめなければならないと思ったのだ。

「お邪魔します」と薫は言った研究室に入った。研究室内は前に来た時と同じように静謐で、神秘的なオーラを纏っていた。

「薫君、久しぶりだね」と博士は言った。

「お久ぶりです」と薫は落ち着いた素振りを見せて言った。

「でも、どうして再び私に会いにこようと思ったのだろう? 君は私の言葉の理解にあれほど苦しんだというのに」

「変わったんです。あれから僕、考えたんです。この世界で何かが少しずつ擦り切れているような感覚がするって。それは部屋にある剥がれかけの壁紙のようにぺらぺらとしていて、今まさにそれが剥がれそうになっているんです。僕はそれを見ていてたまらない気持ちでいるんです。でも部屋にはボンドもテープも何もなくて、どうしようもなくそれを眺めているんです。こんなことってあんまりだと思いませんか?」

「なるほど」と博士は言ったきり、しばらく黙りこんでしまった。博士の顔はよく見てみると皺まみれになっていて、長年の苦悩がそのままそこに刻まれている気がした。

 どれくらい時間が経っただろう。そのまま二人は見つめ合ったまま何も話さず、ただそこに居た。薫はそんな空間にのまれて本来の目的を忘れそうになったが、ふと我に帰ってまた博士に同じような質問をぶつけた。すると、博士は「うーん」と言ってこう言った。

「薫君、少し関係のない話をしても良いかな。かつて、私は教授だった頃の話だ」

「今だって教授じゃないですか」

「博士と教授は意味合いが違う」

「どのように違うのですか?」

「博士とは学位名称のこと。教授は未来の希望を抱える学生と向きあう教師のことを指す。その違いだね」と、博士は微笑んで言った。「私はある日、当時、教授だった頃の夢を見たんだ。私は大学できちんと学生と向き合い、熱心に教育をしていた。それはもう絵に描いたように。それで、私は朝から晩まで学生に何かを教えていたのさ。それはある意味幸せなことだった。私自身、それが一生続けばいいと思っていた。しかし現実はそのようにはさせてくれなかった。ある日目が覚めると私は雲の上に居たのだ。周りを見回しても何もない、砂漠なら上に太陽があるけれど、ここではそれすらもない。とても寂しい場所だった。そりゃあたまげたね。これは間違いない。夢だと思った。しかしどれだけ時間が経っても目が覚めることがないんだね。それどころか、疲れ果ててそこでそのまま眠ってしまったのだよ。夢の中で眠るとはとても不可解だね。でも確かにそれは事実だった。今でもはっきり覚えている。そして、夢の中で眠りに落ちてしまう直前に声が聞こえたのだ。「ここは本来あなたが来るべきではないところ。もうすぐナイトメアが襲ってくるから逃げて」ってね。そして目が覚めると私は博士になっていた」

 博士は話を終えるとため息を吐いた。「信じるも信じないも君次第だ。ただ、これだけは言える。これは真実なのだと」

「信じます」と薫は言った。「だって、僕もそうなんじゃないかって思ってたところなんです。この世には何か超越的な力が存在していて、エウリピデスの劇に出てくるデウスエクスマキナみたいに勝手に僕たちを操作しているんじゃないかって。でも、ナイトメアというのは悪魔です。正しい力ではない」

「その通り。だから私は博士になってからは流体力学の研究をほったらかしにして哲学、神学の研究を始めたのだよ。それで一つ分かったことがあった。それは別に哲学に限らず、この世界にあるありとあらゆる事象がこの世界の真理について物語っているということだ。例えば、君、フェルマーの最終定理は知っているかな」

「知っています。長い間証明されることのなかった数式のことですね」

「そう。あれは志村・谷山ヴェイユ予想という手法をヒントに解くことが出来た。その証明式の答えはモジュラー形式という美しい円形の形式で表すことが出来る。過去何百年も解かれなかった数式の答えが美しい円形なのだ。これを真理と言わずして何というべきだろう。そのように、この世界にはある一定の秩序だった真理が存在していて、私たちの生活を回しているのだ。そしてそのシステムにある一定の狂いや、限界があるとデウスエクスマキナみたいな絶対的な何かが現れて半ば神隠しのように私たちを世界からさらっていくのだ。そうするとすべてに説明がつくのだ。君も例外ではない」

博士はそういうと机の引き出しから一枚の新聞紙を取り出して薫に見せた。

「これは二年前の新聞だ。ここの記事を見てごらんなさい。これは二年前に君が死んだはずの交通事故についての記事だ。ほら、ここに君の名前が書いてある。当時のニュースでは君の顔写真まで映し出されていた。ところがどうだ、君はこの世界に存在している。これは一体どんな理論を用いて説明すればいいことなのだろうか」

 薫はその記事を見て唖然とした。確かにそれは薫の名前だったし、年も同じだった。ここには顔写真が載っていないから分からないけれど、博士が言うのならそれは間違いないことなのだと理解した。

「二律背反も甚だしい。まさに神様の悪戯としか言えないことだ。神様ならまだ良いのだが、君も感じているように、これは悪魔の仕業だ。名前はナイトメア。この前君に渡した本にはそれについて多くの研究が書かれている。ナイトメアは人間と契約して初めて能力を発揮することが出来る。どうかね、心当たりはないかね。ナイトメアと契約した人間は寿命が伸び、さらには悪魔の能力そのものを手に入れることが出来る。そんな人物に心当たりは?」

「あります。久我未来という男です。彼は僕と徂徠詩織という女の子に呪いをかけました。呪いの正体は分かりません。でも、あれ以来僕も詩織も違和感を感じているんです。何か大きな力によって流れのようなものを封鎖されているような感覚がするんです」

「なるほど、それは多分記憶操作の類だね。ナイトメアはそのような小細工を得意とする。その問題を解決するためには一度久我未来くんに会って話をするのが一番いいだろう。どうだね。出来そうかね」

 薫はそれを聞いて幾分か力の抜けるような表情をしたがこくんと頷いた。

「ありがとう。実のところ私もこの世界にも常に違和感を感じ続けていたのだよ。それの正体が今分かった。君には感謝しなければならないね」

 薫は博士からお礼としてデジタル式の腕時計をもらい、そこで博士と別れて久我未来を探しに街に出掛けた。部屋から出る時に博士はこう言った。

「餞別だ。もう会えるかどうか分からないが、君も今度会える時は何か私にプレゼントしてくれたまえ」


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