第六章
騒々しいくらいの暑さが本格的な夏の到来を予期させる。久我未来は公園の中で確かにそう予期した。足元を歩く蟻の行列が夜光に照らされて煌めき、木の枝という枝がゆったりとした風に当てられてざわざわ鳴り響いていた。
久我未来は一人で考えていた。自分は今一体何をしているのか。どこに向かっているのか。
あの時、彼女にかけた呪いは、僕にどんな救いをもたらしてくれるのだろう。僕は鍵である彼女を使って秋山薫にかかった錠を解除した。秋山薫はまだそのことに実感を得ていない。当たり前と言えば当たり前である。なぜなら、彼は記憶を失っているからである。彼はどのようにして生まれ、どのようにして育ったのかを忘れてる。それは別に、何かの事故があってそうなったとか、病気でそうなったとか、そういう類のものではない。それは、この世界の必然的な運命という名のもとで発生した問題なのである。僕はそれについて深いことは知らないので詳しく説明することは出来ないが、ナイトメアは「秋山薫くんはあの事故である意味生涯を終え、今は全く新しい秋山薫という人物になりかわってしまったのだ。当時の秋山薫くんは一週目ですべてを終えてしまったのだ」と言っていた。秋山薫は事故により記憶を失ったわけではないが、事故により秋山薫はすべてを失い、まったく新しい秋山薫という別人になることによって元の秋山薫とはまったく違う記憶を持つ個体になったのだ。なるほど、そうかもしれない。いや、そう思うのはあまりにも無責任なのかもしれない。何よりも、秋山薫の記憶喪失にかつけて僕がナイトメアの力で徂徠詩織に呪いをかけたのはこの僕であるのだから。
徂徠詩織は、一週目の秋山薫を好いていた。でも、今の秋山薫は二週目の秋山薫だ。徂徠詩織はそれに気づかず、今も仮初めの彼を愛している。だから僕はその悲劇を利用し、少しばかり操作を行った。ナイトメアの力を借りて。別にそれに対して罪悪感を感じたことはない。僕は僕のやりたいことをやる。ただそれだけだ。
公園の外灯が雑草を照らし、久我未来の項垂れた頭の上に舞う塵をも照らしていた。久我未来は考え事をしていたこと自体に対して呆れた。一人、考える。どこにも吹かない風に身を委ね、瞳を閉じる。
〇
徂徠詩織は一人考えていた。
私は今、何を考えているのか、何をしたいのかがよくわからない。行先の無い船の上に乗り、宇宙の下、ただぷかぷかと浮かんでいるだけの、何んの抑揚もない人生。別に、将来の夢がないとか、これからの人生設計が分からないというかそんな問題ではない。ただ私は何者かによって無理やり流れを阻害されたような感覚がする。
徂徠詩織はただただ「何かのせいで今こうなってしまっている」という漠然とした被害者意識に襲われていた。先日訪れたナイトメア。それが何か関係している、そういった予想しかすることが出来なかった。
「私は、誰を好きなのだろうか」と詩織は一人呟いた。「私は、本当に薫君のことが好きなのだろうか。彼は勉強を教えてくれるし、優しい。話していると落ち着く。でも、それが好きと関係あるのかどうかについて考えると、分からなくなる」
一人で呟いた声はどこにも届かなかった。それは、まるで救いようのない戯曲の中でのセリフのように悲しく思われた。今の徂徠詩織にとって、価値観という感覚が欠落していた。
夜空を見上げ、一人考える。どこにも吹かない風に身を任せて。
そのようにして久我未来は地面を眺めていると、遠くから足音が聞こえた。
「久我未来君?」
暗がりの向こうの正体は外灯のその灯りに照らされた時、明かされた。その正体は新町純佳だった。
「君は確か……新町純佳さんだったよね」
「久しぶりね。でもその前に、あなたに言っておかなくてはならないことがあるわ。久我未来さん、あなたは今手を出してはいけないことに手を出している。」
「手を出してはいけないことって?」
「とぼけても無駄よ。私は何でも知っているんだから。あなたは今、情報の操作を行い、二人の人生を滅茶苦茶にしようとしているのよ」
「さあ、どうだろう。それが無茶苦茶かどうかは二人の決めることであって僕たちではない気がする。僕はただ二人に然るべき人生の道しるべを示してあげているだけだよ」
「さあどうでしょう。それを決めるのもまたあなたではないような気もするわ」
「どちらにせよ、僕が今していることをやめようとは思わない。君が何を言おうと、僕はやめない。僕は僕のやりたいことをする。ただそれだけだよ」
「そう……」新町純佳はため息をついた。「でもね、私たちと彼らの住む世界は違うのよ。彼らは一週目の人間。私たちは二週目の人間なのよ。それをあなたは捻じ曲げようとしている。一週目の人間を二周目の人間のエゴとして叩き潰そうとしている。それでは公平ではないんじゃないかしら」
「公平ではない、なんて。女の子が使うには珍しい言葉使いだね」
「話をはぐらかさないで」
「確かに、僕は二週目の人間であることにかこつけて彼らを利用しようとしている。でも、それでもいい。僕が悪者でいい。それでも僕は歩みを止めるわけにはいかないんだ。それが、僕の求めていることなのだから」
新町純佳は長い間黙り込んでいた。まるで世界のどこかにある谷底を一点に見つめるかのように。そして、地面から湧き出る水疱のように顔を上げて言った。
「そう……。でも、私はそれを認めるわけにはいかないの。だからね、あなたは私の知らないところで生きなさい。あの時、私に呪いをかけてから私の元を去ったように」
「言われなくても」
久我未来はそう言うと、新町純佳は踵を返し、姿を消してしまった。どうしようもない、この世界の暗闇の中でただ一人、久我未来は心の中で叫んだ。
「分かってるよ」




