第五章
「二週目の世界?」と、薫は言った。
それは当然の返答だった。当然のことを、当然という手法を選ぶ常識にならって言った。薫はそれは当たり前だと思った。第一、この男が何を言っているのかが分からない。分からない限りはまず話を聞いたところで何を言っているのか理解できるわけがない。
けれど、一方で、薫は感じ取っていた。その言葉の意味を。ここ最近起きた異常なことを頭の中で並べてみると分かること。新町純佳に会ったこと。ナイトメアに遭遇したこと。どれも出来過ぎている。
博士は薫の言葉を聞くと、ちょっと来なさい、と言って薫を連れ出してしまった。自転車で見知らぬ道路を右へ左へ。それからたどり着いた有料駐車場に止めてあったその男の車に乗って移動した。
薫は気が付くと大学の校舎の中に居た。大きなビルのような建物が乱立していて、美しく感じる。夜の校舎は誰も居なくて、少し不気味だけれど、薫にとってはそっちの方が落ち着くようだった。
博士は車から降りると歩き出し、とある校舎の中に入った。それからだれも居ないエントランスを抜け、エレベーターで最上階に上がり、廊下を歩いてとある部屋に入った。
それから博士は「さあ」と言った。
最初、何がさあなのか薫は分からなかったが、しばらくするとすぐに分かった。かちかちと音を立てて一定のリズムを刻むメトロノーム、デジタル時計が二つとアナログ時計が三つ、それらの存在感が暗がりの中で囁いていた。部屋はちょうど自動車が一台入りそうなくらいの広さで、長机が四つ、椅子が十脚、それから本棚とその中には多数の本がしまい込まれていた。でも、それらの中で印象に残るのはやはりメトロノームと時計だった。
気味が悪い。でも、博士は部屋の電気をつけるとこういった。
「どうだい? 愉快だろう」
「愉快かどうかは分からないですが、不可解ではありますね」
「そうだ。非常に不可解だ。不可解だからこそ、これが不可解な世の中の謎を読み解く真の武器になるのだよ。例えば、そうだね。このアナログ時計とデジタル時計はどちらも同じ時計だね。同じ刻み方をし、同じ周期で時を表す。でも、厳密にいえばデジタル時計はモジュラ演算という計算方法を使うことによって時を表すことが出来ている。これはつまり、同じ時計でも表示方法が違うと言うことだね。メトロノームの場合もまた同じだね。では、その二つの間にはどんな関係性があるのだろう。私はこのことについて長い間研究を続けているのだよ。そして、ついにとてつもないことを発見したのだよ」
「それで、そのとてつもないことと僕にはどんな関係があるのでしょう」
「関係があるかもしれない。あるいは、関係がないのかもしれない」と、博士は言った。それは的を射ていない、理解不能の言葉だったが、博士の言葉は不思議にも薫の胸に響いた。「君は、この世界が何で出来ているのか、自分が一体何で出来ているのかについて考えたことはあるかね」
「何度もあります。ですが、いずれも結論にはたどり着いたことはありません」
「薫君、それは当たり前の事なんだよ。その問いには模範解答というものが存在しない。一億二千万人の人がそこにいるのなら、そこには一億二千万通りの世界を構成する事象が存在しているのだよ。それは、その問いを解く鍵は自分の中にしかないことを意味している。だから人々は本当の意味で生きる意味、自分が存在している世界の意味を共有することが出来ないのだよ。おっと、少し喋りすぎたようだね。ようするにだ」
博士はそういうと自分のデスクに荷物を置いて荷物の中から何やら取り出そうと漁り始めた。
「ようするに、この世界は何か特定の答えが存在しているが、それを解くためには個々人が答えを出さなければならないという課題が発生するのだ。だがしかし、この世界にはそうやすやすと解答を出させない何かが潜んでいたのだ。それがこれだ」
博士はそういうと鞄の中から一冊の本を取り出した。その本は分厚く、枕にするとちょうどいいのではないかと思う程だった。タイトルには「ナイトメア」と記されていた。
「ナイトメア……ですか」
「そう。日本語でいうと悪夢だね。君、フロイトの有名な言葉を知っているかね」
「『眠りの中で見る夢は無意識の願望の充足である』でしたっけ」
「そう。私たちが日々現実世界で感じているストレスを軽減するために夢の世界ではそのように願いを叶えてくれる。かくいう私もよくそのような夢を見る。そうやってバランスをとっているんだね。では、ここで新しい仮説を立ててみるとどうなるだろう。もし、この世界自体が夢の世界であるならば」
「そんなのありえません」と、薫は堂々と言った。「ここが夢の世界であるならば、僕たちが見ている夢は一体何者なのでしょうか。それに、もしここが夢の世界であるならば、この夢を見ている人は一体どこにいるのでしょうか」
「それは簡単だよ」
「簡単?」
「マトショーリカのようなものだと考えればいいのだよ。僕たちが居るこの世界も、現実世界と思っているだけで実は誰かの夢の中の世界で、僕たちが見ている夢の中の世界の僕たちも現実世界だと思い込んでいるだけなのだよ」
「でも、もし、もしこの世界が夢の世界であるならば無意識の願望が充足されるべきではないのですか。実際の僕たちは決して願望が充足されているとは言えません」
「そうだね。そこが難しい問題なのだよ。でもね、何が無意識の願望で、何が不満であるのかなんていうのは判別をつけることができないのだよ。人によって幸せの定義が違うし、価値観も違う。そんな混沌とした人の集まりの居る世界が誰にとっても同じ存在になるわけがないんだ。そこで出てくるのがナイトメアなんだよ」
博士が手渡してくれた本には過去の哲学者たちの研究について記されていた。
「『我思う、故に我あり』デカルトが残した言葉だね。確かに、自分が自分であることを認識できているのなら、その存在は認められるのかもしれない。でももし認識している世界自体が偽りであるのなら?」
博士はナイトメアについての本のあるページから一枚の紙を抜き取り、薫に見せた。そしてこう言った。
「君は現実世界において、既に死んでいるのだよ」




