第四章
日曜日の昼下がり、薫は例の如く運河のある公園に行き、一人でベンチに腰を掛けていた。流石に日曜日となると人は多い。家族連れ、友達同士の集まり、また、仲睦まじい様子のカップル。どれもこの世で一番幸せだというような表情をしていた。大きい滑り台の上では子供たちの間で誰が一番最初に滑るのかについて議論をしていた。薫はそのような風景を眺めながらポケットに入っている小銭の枚数を数え、帰りに買うジュースのことを考えていた。何も問題はない。とても平和な休日だ。少なくともその時の薫はそう思っていた。
しばらく心のやりどころを徒然なるままに巡らせておくと、後ろから声がかかった。
「こんにちは」と、見知らぬ男が言った。「君は、秋山薫くんだよね」
見知らぬ男は見た目は薫と同じくらいの年齢で、灰色のシャツに濃いジーンズという服装だった。顔の表情は特にハンサムでも不格好でもなく普通だったが、そこには何かしら不自然な点が隠されているような感覚があった。それを一言で言えば虚構と呼べるかもしれない。この男はまだ「こんにちは」と「秋山薫くんだよね」としか言葉を話していないが、あたかも存在自体が偽りであるような、異様な雰囲気を放っていた。薫はそのような人物に未だ遭遇したことがなく、その男の特徴を心の中で言葉で形容することが出来なかった。とにかく、その男からは何かしら怪しい妖気が感じられた。
「はい、秋山薫は僕です。でも、どうしてあなたは僕の名前を知っているのでしょうか」
薫がそう言うと、その男はくすぐられた時みたいに微笑んだ。
「とにかく僕は君を知っている。君は僕のことを知らないようだけれど、そんなことは問題ではないんじゃないかな。むしろ問題は君の中にあるようだと思うけれど」と、その男は言った。
「確かに、それはあまり大きな問題ではないかもしれません。しかし、失礼ですがお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。人同士の会話では便宜上お互いの名前を把握しておいた方が良いのではないでしょうか」
「それは難しい問題だね、秋山薫くん。問題はあくまでも君の中にあり、君の中で完結している。それに関することで僕はここにやってきただけなんだよ。でも、そうだね。便宜的に必要なのであれば仕方がない。僕の名前は久我未来。君と同じ仙谷高校の高校三年生だよ。僕はあまり学校に行かない人間だから、あるいは君は僕のことを見たことがないかもしれない」
薫は久我未来が言った言葉を頭の中で反芻し、ため息をついた。そしてこう思った。僕の周りには学校に行かないことを普通のように捉えている人間がいささか多すぎる。しかし、そんなことを初対面の人間にいちいち指摘いる暇はない。そんなことよりも言うべきことがあった。
「分かりました、久我未来さん。要点をまとめましょう。あなたは今日、今この瞬間、僕の元を訪れた。あなたは僕の中に何かしらの問題点があると考えている。だからあなたはそれについて何らかの目的意識をもってしてここにやってきた。そうですよね? しかし、僕にとってはそれが一体どんな問題なのかは分からない。それでは、その問題とはどのようなものなのでしょうか」
僕がそう言うと久我未来は暫くの間停止されたビデオのように微動だにせず、感情さえ表に出さずに何か物思いに耽っている様子だった。それから開口した言葉がこれだった。
「さあ、そんなことは知ったことではないよ」
訳が分からない。久我未来は僕の中に内在する問題について用事があって僕の元を訪れた。だがしかし、その肝心な問題の内容が何かについては久我未来さえ知らないのだという。これでは話にならない。
「君は」と久我未来は言った。「今までの人生の中で悪夢を見たことはあるかい? 答えは否。君は悪夢を見たことがない。僕はそれを知っている。理由は何度も言わせないでくれるかな? そうしてくれると今後の会話がより円滑に進むような気がするのだけれど」
「問題はあくまで僕の中に存在している」と、薫は無意識的に言った。
「その通り。じゃあ早速、悪夢を君に見せてあげよう。ナイトメアさん、もう大丈夫ですよ」
久我未来は突然虚空に向かって言葉を話し、不吉な笑みを浮かべた。その直後、目の前に残像ような影が生まれ、それはたちまち現像物となった。それはあっと言う間の出来事だった。ナイトメアと呼ばれる男は薫と同じくらいの年齢で、白いシャツに黒いパンツといった服装だった。その男からは途轍もない邪気が発せられていて、息をすることすら困難なくらい絶大なオーラが漂っていた。それは文字通り悪夢だった。
ナイトメアは薫の顔を真っすぐ見つめ、何か合点がついたような顔をしてこう言った。「あの娘が鍵なら、君は鍵穴だね」
〇
六月二十日月曜日、午後四時半。薫と詩織は例の如く「青い鳥」にて勉強会を開いていた。二人は指折り数えたこともないだろうが、青い鳥での会合はこの日で十九回目だった。六月にもなるとお互いに余計な気を遣う必要もなくなる程度には親密度を高めており、実際、薫も詩織も毎週のこのひと時をより一層楽しみに思うようになっていた。詩織は相変わらず不登校のままだったが、自分のことも周りの事も何も気に掛けていないようだった。
「退屈……」
詩織は机に項垂れるようにして倒れこみ、全てを放棄する姿勢を体現していた。
「詩織、今一応倫理学の勉強中なのだけれど」
薫は詩織に勉強を教えなければならない。別に誰が決めたわけでもなくただの詩織の我儘によって発足した勉強会なのだけれど、それが薫の使命感に大きく寄与していた。
「ねえ、倫理学の勉強ってどうして古代から始めないといけないのかな。私たちの生活とは全然関係のない時代の人が考えたことなのに、どうしてそれについて考えないといけないのかな」
「別に、倫理学は必ずしも古代から学ばないといけないというわけでは無いよ。ただ、世界で一番最初にその人は今の時代の人々を納得させることが出来るような、とても素晴らしい考えを思いついたんだよ。だから僕たちはその人の考えを理解するために、あるいは敬意を表するためにそれを学ぶのだと思う」
「プラトン」と詩織は言った。
「そうプラトン。イデア論を展開したプラトン」
「ねえ、プラトニックラブって何?」
「詳しくは知らないけれど、知的な愛っていう意味かな」
「くだらないね」
「僕に言っても仕方がないよ」
詩織はどこか悲し気な顔をしていた。水晶の玉を暗い水の中に沈めるように、それはどこにも向かわないままそこに佇んでいた。
「薫君」と詩織は言った。「もし私が記憶喪失になったら、それでも君は私の事を徂徠詩織として見てくれる?」
「どうして?」
「どうしても。君の意見を聞きたいのよ」
詩織の言葉の一つひとつがガラスの欠片のように太陽の光を受けて輝いている。薫は詩織の言葉の一つひとつを丁寧に拾い上げながら、そう思っていた。薫にって詩織は詩織でしかない。一緒に青い鳥で勉強をする詩織でしかない。それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから薫はその質問には答えることが出来なかった。どうしてもできなかった。
どうしてだろう。単なるたとえ話なのに。薫は考える。夜空の下で。いつもと同じ光景、いつもと同じ人。それが、当たり前に続くと思っていた。いや、これから先もずっと続いていくだろう。でも、いつか区切らなければならない時が来るのかもしれない。それが記憶喪失や大きな病のものでもなくても、何か小さなきっかけのせいで今の当たり前が壊されていくのかもしれない。そう思うと、薫は怖かった。
夜風が頬を撫でる。それはもわもわとした熱気を含んでいて、嫌がらせのように体力を少しづつ奪っていく。大きな風が吹いたら、時々海のにおいがする。運河に向かって並ぶ欄干に腕を掛け、考える。考えても分からないことを。時刻は午後八時半。そろそろ帰ろうかと薫は欄干から手を放して歩き出した。階段を一段一段登り、堤防からぴょんと飛び降りる。それからこいで来た自転車に跨いで進みだす。すると、薫の目の前に見知らぬ男が現れた。
「君が秋山薫君かな?」と、その男は言った。
「そうですけど、何の御用でしょうか」
その男は身長180センチくらいの長身で、年は60歳くらい。合体もよくて、とても貫禄があった。よくよく見てみれば白衣を着ている。そんな男が薫をどうして知っているのか、薫には分からなかった。
その男は言った。
「君は、二週目の世界について知っているのかな?」




