第三章
テトラポットの上を歩く。なるべく歩幅を狭くして、間に落ちてしまわないように、慎重に足を運ぶ。徂徠詩織は変化を求めていた。それはどんなものでもいい。例えば、この赤茶けた髪の毛を思い切って黒に戻してもいい。でも、どちらかと言えば詩織は場所的な変化を求めていた。だから旅をすることにした。
徂徠詩織にとって、一人で旅をすることは死と隣り合わせになることを意味している。絶対に目的地に行けない病。それはゴールのない迷路に迷い込むのと同じリスクを伴う。リスクを伴う外出など危なっかしくてできやしない。徂徠詩織はそう思い、薫に連れまわしてもらう以外は殆ど家の外に出なかった。
しかし、この日は何となく勇気が湧いてきた。そして考えたくなったのだ。秋山薫然り、先の久我未来の件然り、最近の彼女の周りでは色んなことが起きた。そのために徂徠詩織は頭の中の情報を整理する必要があった。情報を整理するためには実物と触れ合わなければならない。例えばテトラポットについて考えてみる。テトラポットの上を歩く女性。言葉で表してみるととても美しく聞こえるし、頭の中でその様子を思い起こしてみると実際にとても優雅な光景だと思うことが出来た。しかし、実際問題。女の子がその上を歩くのは大変難しく、美しいフォームを保つことはほぼ不可能だということを徂徠詩織はその上を歩いてみて初めて実感した。このように、真実を確かめるためには実際に歩いてみないと分からない。だから詩織は歩くことにしたのだった。
いつの間にかとても遠くまで歩いてきてしまった気がする。右を見れば広い海。その向こうを見ても一向に島が見える気配はなく、それは地平線まで続いていた。左を見れば鉄板みたいな暑さを帯びたコンクリートの道路があり、道路沿いには今も使われているようだが、古びた工場が立ち並んでいた。それと、猫が遠くの方で力なくのびていた。
「暑い」
そう呟いたが、その声はどこにも届かなかった。当たり前だ、と思いながらも詩織はやはり声に出して言った。
「今日の服装はこの天気にはちょっと合わなかったかもしれない」
そう言うと詩織は自分が着ている藍色のワンピースを振ってみた。高校二年生にしては少し幼過ぎる服装だけれど、お気に入りのワンピースだ。これを買ってくれたのはいつだろうか、と考えてみたが、詩織はそれを思い出すことが出来なかった。
これも旅の要因の一つだ、と詩織は思った。詩織は何かについて思いを巡らせると、不意にそれに関する記憶が途切れることがある。記憶喪失というにはあまりにも部分的過ぎるため、そうではないだろうと否定した。では、なんだろう。しばらくの間考えてみたがやはり分からなかった。
海沿いのテトラポットから離れ、近くにあるショッピングモールの方へ足を運んだ。ショッピングモールというのは往々にして地形などの地域性を軽々と無視する。だからテトラポットがあるような田舎の街でも簡単にこんなモールが建てられるのだ。徂徠詩織は半ばため息をつきながらもモールの広場にあるテーブルの傍の椅子に腰をかけ、鬱々と考えを巡らせた。
先日出会った久我未来という男。私は彼を知っている。どこで知ったのかは覚えていない。彼はとある場所にある白い壁が心底気に入らないと言った。その場所は見知らない場所だから、その壁をどうすることもできない。しかし、それでもなお彼はその壁が気に入らないのだと言った。果たしてそこにはどんな意味性があるのか。分からないが、そこには何か重要なメッセージが隠されているような気がした。
しかし、夕日の光が一日の中の絶頂に達したとき、「それ」は突然訪れた。「それ」は白いシャツに黒いズボンを身にまとった悪夢だった。どこにでもいる無垢な少年としか思えない容姿で、つぶらな瞳、潤いを含んだ肌、血色の良い色をした唇、顔のどのパーツを見てもやはりそう思うしかない印象があった。にも拘らず、「それ」は圧倒的な恐怖の威圧が含まれていた。私は「それ」に対してどうすることもできない。恐怖心すらも感じる隙を与えない。視界の景色を「それ」は無理やりに捻じ曲げ、虚空の中に押し込んでしまう。暗闇の中の私は水中の中で体がバラバラになったような感覚を感じる。息を吸い込もうとすればするほど体は見えない何かに押しつぶされそうになる。そして手を高く伸ばし、どうにか助かろうとする。
気づけば私は一人で公園の運河に佇んでいた。
正体不明の「それ」は「僕の名前はナイトメアだ」と言った。
訳がわからない、と詩織は思った。無から有を現出させることは不可能だし、有を無にすることも不可能だ。そんな当たり前の科学的根拠を、ナイトメアは嘲笑うかのように拒否した。にわかに信じがたいことだが、その目で見た事実を否定することはできない。世界五分前仮説が立証されない限り過去の記憶は絶対なのだ。
だがその一方で、詩織自身の身に変化が起きていることに気が付いた。瞳を閉じてみるとそれがありありと感じることができる。心の中にある、黒々とした正体不明の不吉なもの。それは詩織の体を着々と汚染しているようだった。詩織は、もしこの心の浸食が立証されるのであればナイトメアの異常性も否定できるのかもしれないと思った。デカルトの「我思う、故に我あり」とあるがまさにその通りなのではないか、と。
だが、それは結局現実逃避に過ぎないことだ。
ナイトメアは詩織にある種の呪いをかけた。しかし、当の本人はそれが具体的にどのような効果をもたらすのかは理解できていない。
「大丈夫、何も問題はない」と、詩織は呟いた。
詩織は自分の手を見つめ、ため息をついた。




