第二章
嘘は罪だけれど虚構は罪ではない。それが久我未来の口癖だった。
「漢字で書いてみてよ。嘘は虚を口に出しているけれど、虚構は単なる概念でしかなく、どこにも当事者は存在しない。当事者の居ないところには罪は存在しない」
久我未来は元来ひねくれた性格の持ち主だった。彼は虚構を愛し、それを概念のまま、ちょうど田植えみたいに誰かの心に植え付けるのが得意だった。果たしてそれは罪なのか、言葉にしていないから罪ではないのか、それは神のみぞ知る事柄だった。
ある日の午後、久我未来と詩織は二人で公園の中の運河の沿道を歩いていた。それは何か思わせぶりな駆け引きの積み重ねによって計画されたことではなく、ただ純粋に自然な合意の下で行われた会合だった。
雲一つない空。パレットの水色よりも濃くて、宇宙の深淵よりは薄い青色。それは印刷された紙をぺったりと貼られたみたいに不自然な色をしており、それを映す運河は混沌とした色をしていた。
「雲よりも白い壁について君はどう思う?」と、久我未来は運河の水面を見ながら言った。
「さあ、別になーにも思わないよ。ただ白いなーって思うだけだよ」
詩織がそういうと久我未来は見計らったように鞄の中から写真を取り出して言った。
「僕はこの壁が気に入らない。この世において、雲よりも白いものがあってはならないと思う。それは教会も然り、ありとあらゆる建造物に当てはまるだろう。けれど、僕はこの壁が一番気に食わない。今すぐにでもなくなればいいのにと思う」
その写真には白い壁の建造物が写っていた。正面から見ると、それは昭和に建てられた慎ましい商店の後のような印象があったが、側面の方は、壁の一面に白い画用紙をぺったりと張り付けたような、少し間抜けともいえる印象があった。建物の隣は駐車場になっていて、建物が色んな角度から見れるようになっていた。久我未来はその側面の方の白い壁の事を指摘していた。
「それはどこにあるの?」
「さあ、どこだろう。今は分からない」
「どこにあるのか分からない。けれどあなたはその壁がなくなればいいと思っている」
詩織は久我未来の言葉を反芻し、その意図を探ったが特に何も分からなかった。
「そう世界で、いや、この銀河系の中でもっとも忌々しい存在だと思っている。だから、本当はこんなところでゆっくりしている場合じゃないんだ」
久我未来は一縷たりとも表情を表に出さなかった。、まるで、社会革命家のように寡黙な顔をしながら饒舌な語り口で話した。
「久我さん、あなたはとても親切な人なのですね」と詩織は言った。「世界に存在するものごとをすべて言葉で言い表すことは出来ない。でも、誰かが声を上げなければならない。その誰かの役割を、あなたが担うべきだと思っている」
そういうと久我未来は肩をすくめ、少し瞳を閉じてから言った。
「そうだよ。でも、問題点はそこじゃない。本当に問題なのは本質を霧隠れさせることだよ。例えば、君は君で居ることを隠している。本当は博識なのに凡才のふりをしている」
別に隠してなんかいない、と心の中で詩織は思う。それは蜘蛛の糸と同じで、どこにも向かわない繋がりの中で存在している問題なのだ。それが明るみに向かおうが霧払いされようが詩織には関係のないことだった。詩織は頭の中で思案しながらも久我に悟られないように平静を装った。
「久我さん。正直言ってあなたが何をどこまで知っているのか分からない。私だって、知っていることが本当に事実かなんて分からないのだから正直何をどこまで知っているのか自分でも分からない。きっと、そのことについてあなたは何もかも知っているのだと思う。けれど、質問をしても無駄なのでしょう。ただ、一つだけ聞いてもいいかな。あなたが本質を重んじるのは少し以外じゃないかしら」
「詩織さん」
「その呼び方で呼ばないで」
「そう、でもどう呼んだらいいのか分からないよ。今の君にとって苗字は無意味だろう」
「呼ばなければいい」
「そう。まあいいや。ノイズのような君の為にその問題は伏せておこう。質問の回答。僕は別に本質は嫌いじゃない。ただ、本質を追究するあまり、それまでの道のりが固定化されることを恐れているだけだ。だから虚構を使って真実をはじき出す。僕は今までとは全く新しい答えを探しているんだ」
「二律背反」と、詩織は言った。
「そうだね。あるいはそうなのかもしれない」
そう言い終えると、二人は再び歩き始めた。運河はどこまでも続いていたし、その沿道もどこまでも続いていた。天気は五月後半に相応しく、比較的良好。風も心地良い程度に吹いている。太陽が傾いて、オレンジ色の空模様と運河の青色とのコントラストが見事に綺麗だった。あとは運河の水が少しばかり汚いことを除けば何も言うことはないように思われた。
しかし、悪夢は突然訪れた。それは何の前触れもなく、詩織の目の前に現れた。
それは文字通り悪夢としか形容のしようがない印象をもってして現れていた。二人はずっと正面を向いて歩いていたのに、いつの間に現れたのだろうか。それは非科学的に、砂のようにどこからともなく現れるか、ワープのように瞬間的に現れるかしか考えられなかった。
一見してみるとそれは黒のチノパンと白のシャツを着た、ただの人間であった。年も詩織たちとそこまで離れているようには見えないし、むしろ幼い顔だったので年下の可愛らしい男の子だと言われても何の疑いもなく受け入れるような、誰からも愛されそうな様相をしていた。だが、それはあくまでも見た目に過ぎない。詩織は第一印象よりもその背後にそびえる巨大なオーラに心を半ば支配されていた。
恐怖、と言ってもいいのかもしれない。その少年からはそれに値する絶望的な力強さが感じられた。詩織が恐怖を抱く理由はそこにあるのかもしれないと思った。
詩織は少し顔をしかめていたが、隣を見ると久我未来は笑っていることに気が付いた。
前々から思っていたけれど、やはり異常だ。この言葉に尽きる。詩織はため息をつき、半ば諦めの態度で目の前の異物と向き合った。
すると、その悪夢のような男は詩織たちに向き直り、にやりと不敵な笑みを浮かべながらこう言った。
「さあ、僕の愛しの鍵はどこにあるのだろう?」
〇
五月が終わり、六月に入っても外の蒸し暑さは消えてくれることはなく、むしろ増大しているような感覚があった。まだもう少し先だろうけど、本当に梅雨はやってくるのだろうか。そんな疑問が薫の頭の中にはあった。
詩織とは二週間前から顔を合わせていない。先週の月曜日と金曜日は薫が家に迎えに行っても誰も居なかったからだ。後から連絡があったのだが、詩織は体調不良で両日とも病院に出掛けていたということだった。一人でいけないのだから親が仕事を休んで同伴してもらったのだろう。そうだとしても、薫は何か別の理由があるのではないかとつい深読みしてしまい、いつでも悶々と考えてしまう癖があった。だから学校でもその心配が尾を引き、それほど有意義な生活は送れなかった。
窓の外から差し込む光は目が痛くなるくらい明るかったが太陽の角度の問題で内側を明るくするまでには至らなかった。その光は地面を部分的に照らし出し、一種のアートのような印象を醸し出していた。薫は放課後の廊下を歩きながら今日も特に何もなかったとため息を漏らしていた。別に何かを期待して学校に来ているわけでは無い。ただ、あまりにも長い高校生活ではほんの少しのスパイスでもないと到底生きてはいけないのだ。そして薫にとってのそのスパイスは徂徠詩織の他でも何でもなかった。
冷たそうな石で出来た階段を下りながら、今は水すら張られていない古びた噴水の前を通り、号令を唱える部活生たちを横目に見ながら薫は校門を出た。
薫は今日も今日とて神社に向かう。その途中で詩織の家の前を通るけれど、今日は火曜日なので訪ねる理由がない。何か気の利いたお見舞いの品を携えることが出来るなら喜んでお見舞いに行きたいところだったが不幸にも薫には持ち合わせが無かったので詩織の家に行くことは断念せざるを得なかった。
神社までの道のりにはいくつか曲がり角があったが、基本的にはどこまでも真っすぐ続いていた。薫は何も考えず、ただ神社に行かなければならないという使命感と共に足を動かしていた。学校から神社までは十五分くらいしか掛からなかったが、太陽の傾きは確実に変化していき、神社に着く頃にはオレンジ色の光が幾分か混じっていた。
神社の鳥居にお辞儀をしてからくぐり、石畳の端を歩きながらお賽銭箱あたりに人影があるのを見て、「やっぱり今日も来てたんだね」と薫は言った。
新町純佳。薫と詩織と同じ仙谷高校のクラスメイト。それと同時に神社の娘でもあった。黒い髪の毛をしていて(神社の娘としての決まりだろうか)、後ろで髪をとめていた。体型は詩織とそれほど変わらず、顔の形もどこか詩織と似た雰囲気があった。純佳はいつも落ち着いた服を着ていたが、それが純佳にとって一番似合う服装の種類だと薫は思っていた。今日はベージュのシャツに濃いジーンズという組み合わせだった。
「それはこっちのセリフだよ」と純佳は言った。「私はここに住んでるの。居て当たり前でしょ」
この神社では鶏を飼っていて、昼間の間は大体そこら中を歩き回っていた。全部で十匹くらい。神社は道路に面していたので、鶏を鶏舎から放している間は鶏が神社の境外に出ていかないために誰かが見張っておかなくてはならなかった。その役目は神主か巫女である純佳が担っていて、今日は純佳がその担当をしているようだった。
「純佳、今日は学校に来なかったね」
「この通り、今日は私は鶏の見張り番だからね。そんな暇はないの。でも、例え見張り番じゃなくたって必ず学校に行くわけじゃないだろうけれど」
純佳は何か言ったようだったが、声がしぼんだようだったので後半部分は薫にはあまり聞こえなかった。とにかく、神社はお参りをするところだ。境内に入ればとにもかくにもお参りをしなければならない。薫は純佳といくつか言葉を交わしてから手水やでお清めを済ませ、お賽銭を入れ、鐘を鳴らし、手を叩いて拝んだ。そしてお辞儀を済ませ、後ろから声が聞こえた。
「何をお願いしたの?」と純佳は言った。
「それは言わないといけないこと?」
「いいえ、願い事は言うと叶わなくなるんだよ」
「そう、じゃあ言わない」
僕がそう言うと純佳は微笑んだ。
「大事なことをお願いしたの?」
「そうだね。あるいはとても大事なことだと思う」
「それは誰かのためのお願い事?」
「さあ」
「それはもしかして、徂徠詩織について関係のあることだと思うんだけど」
それを聞いて薫は驚いた。詩織は仙谷高校に転校してからは一度も学校に行ったことがないのだからそのクラスメイトと面識を持つのは不可能なはずだ。
「どうして君は詩織を知っているんだろう」
「それは秘密。でもそのことについて私は言うことがある」
純佳のさっきまでの余裕のある微笑みは消え、その表情は真剣なものに変わっていた。丸い瞳はオホーツク海のように澄み渡り、白い肌は雪国のように純粋に見え、その言葉には決意が混じった響きが含まれていた。僕が何も言わずに黙っていると不意に彼女は開口した。
「あなたはこれから先、徂徠詩織と会ってはいけない。彼女は危険過ぎる。それは多義的な意味で、あるいは象徴的な意味で危険ということでね。例えば、蛇。例えば毒。誰が考えても危険と思うような類のものだよ」
「よくわからないな。もう少し具体的に説明してくれないかな」
「それは無理よ。例え詳しいことをあなたに話しても何も伝わらないもの。本当に伝えたいことは言葉にしても伝わらないものよ」
「じゃあ無理だ」と薫は少し声を強めて言った。「僕にはやらなくてはならないことがある。そのためには詩織と会うことをやめるわけにはいかない」
薫は殆ど反射的に返事をした。それを見て純佳は眉をひそめ、ため息をついた。
「そう。じゃあもう何も言わない。それに私は何も言えない。この件については何も話さないことにしましょう。では、また明日」
「また明日」
そう言って薫と新町純佳は別れた。まるで何事もなかったかの如く平和な別れ方だった。薫は帰りの電車を駅のホームで待ちながら空を眺めていた。アトリエのキャンパスみたいに平坦な空では夕日のオレンジと夜の薄暗いい色が混じり合い、誰もがため息をつくくらい壮麗な景色を生み出していた。
薫は純佳との会話の中で何か不自然な点がなかったか考えてみたが特にそんなものはなかった。徂徠詩織について二人は話し合い、何事もなかったように別れた何も問題はない。
そういえば、と薫は思った。
別れ際に彼女は何かを呟いた気がする。




