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プラトニックアート  作者: みくに葉月
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第一章 

 五月十二日月曜日、午後三時半。天気は文句のつけようのない晴れ。五月の中盤ということもあり、今が春なのかどうか少し迷うほどの暑さだった。薫はそんな曖昧な天候の中、とある小さな商店街の中に居た。

「たい焼きを二匹ください」と隣の少女は言った。名前は徂徠詩織。薫と(一応)同じ高校の、(一応)同じクラスに在籍するクラスメイト。

「二匹入りまーす!」と、レジ係を担当する女性は元気のある声で中に向かって叫んだ。

 たい焼きを待つ客は薫と徂徠(そらい)詩織しか居なかった。それどころか、この商店街の端から端まで完全に人通りが途絶えていた。

 ここは人口五万人ぽっきりの小さな街で、中心街から少し離れるだけで人の気配が消えることはしばしばだ。この商店街だって中心街のある区画から線路を挟んで一つ隣の道筋にあるだけなのに、商店街と中心街の人口密度の差異は明確だった。

商店街も良いところなのに、と心の中でぼやく。人の集まる場所とそうでない場所との違いは何だろう。自問し、自答する。きっと真新しさなのだろう。それだけで人の動きが変わる。面白い。

そんなことを考えていると、もうたい焼きが出来上がったようだ。さっきのレジ係の人が愛想よくたい焼きを渡してくれた。それから歩き出す。

「ちょっとちょっと、薫君、置いてかないでよ」と徂徠詩織が後ろから言った。

しまった、と思う。考えごとをしていると周囲のことを忘れてしまう。しばしばよくあることだ。

「あ、ごめん。忘れてた」

「忘れてたって何よ。じゃあ私たちは何故一緒に歩いていたのよ」

なんだったかな。そして思いだす。

「そうだ、今日は数学の日だったね」

 先ほども述べた通りこの街の人口は少ないので、海の近くにある仙谷高校を除いて他の高校は廃校になってしまった。なので、去年まで米華高校に通っていた徂徠詩織は三年生の春から薫と同じ仙谷高校に通う手はずになっていた。

 でも――

「うんそうだよ。だから早く買い物済ませようね」

そう言って徂徠詩織は微笑んでから僕を追い抜き、ずんずんと先を歩く。

「あ」と前方から間抜けな声が聞こえた。

「どうかした?」と僕はその声の趣旨に大体の見当をつけつつもそう問いかける。

「ここから青い鳥ってどうやって行くんだっけ?」

そう、彼女は、徂徠詩織は目的地までの道順を殆ど覚えることが出来ない。同じ道を何回何十回と歩こうとも、彼女はそれを上手く覚えることが出来ないのだ。方向音痴なんてものじゃない。そこには科学的根拠も何もないけれど、事実は事実だった。当然詩織にとってその記憶不可能な道の中には高校までの道のりも含まれていた。つまり、徂徠詩織は自力で学校に通えないのだ。

だからこうして毎週月曜日と金曜日の放課後は二人で「青い鳥」という喫茶店に行って、学校で学習した内容を僕が詩織に教える慣わしになっていた。なのに――

「もう詩織と通い始めてから一か月になるよ。そろそろ道を覚えたんじゃないの?」

「いじわる。その道が覚えられないから学校行けなくて困ってるんでしょ」

「はいはい。そうでした」

 そう言って肩を並べて、また歩き出す。

 ここから青い鳥は学校ほど遠い道のりではない。十分くらいだろうか。踏切を渡り、中心街を横切るように真っすぐ歩けばすぐにたどり着く道のりだった。この街は小さい。今はやりのコンパクトシティほど思い切った街ではないけれど、このくらいがちょうどいい。閉鎖されている訳でもなく、解放されている訳でもない。街に左右されず、個々人が好きに生きている感じがとても良い感じだった。

「そういえばさ」と詩織が何かをゴクッと飲み込んでから言った。「薫君、早くたい焼き食べないと冷めちゃうよ」


 レンガ造りの外観と内装。程よい明るさの照明。内装に合わせた洋風のテーブルや椅子、それからカウンター。どれをとっても素敵な喫茶店だった。建物は二階建てで、二階部分が家になっているらしかった。

もしも、「今日からここが君の新居だ。家賃の代わりに住み込みで働いてもらうからね」と、カウンターの中に居るマスター(らしき人)に言われたら一つ返事で「イエッサー」と答えるかもしれない。喫茶店は好きだ。それに、ここからだと自宅からよりも比較的学校が近い。毎朝満員電車で学校に通わなければならない自分にとって、ここは理想の場所だった。

「さて、と」

 目の前に座っている徂徠詩織は道中でたい焼きを摂取したお陰で勉強モード全開だ。集中力が途切れる前にさっさと今日やる範囲を終わらせてしまおう。

 モードを切り替える。スイッチを押して、部屋の明かりを点けるみたいに。

そうしてしまえばこっちのものだ。

「じゃあまずは復習から。この数式を微分してみて」

「えっと、アルファベットが付いてるやつの数を取って…ついてないやつはけして…こうかな」

「そう、正解」

僕の手が動くと詩織の手も動く。僕が思考すると彼女も思考する。二人の間に見えないケーブルが繋がり、考えがリンクする。

「うん、合ってる。じゃあ今日の単元入っていくね。微分をもう一段階進んで学ぶには先に微分係数と極限値について理解しておくこと……そう、そこにxを代入してようするに微分とは導関数を求めることだよ」

微分、積分、そしてベクトル。

気づいたころにはもう終わっている。いつも通りだ。

 今日も今日とて気づけば午後七時になっていた。そろそろご飯時だ。


「うーん。つーかーれーたー」

「こらこら、転げ落ちるよ」

椅子の上で三角座りをして伸びをする詩織に注意する。

詩織は「うー」と唸って今度は机に頭を乗せて項垂れる。

その表情が不覚にも少し可愛いと思う。こうやって向かい合わせに座っていると否が応でも相手の顔をまじまじと見なければならなくなる。勉強を教えている間は何も気にならなかったが、改めてこうしてみるとやはり詩織の容姿は可愛かった。

詩織の髪は少し茶色っぽくて、軽くパーマがかかっているからふわふわした印象がある。それは詩織の間の抜けた感じを大いに表していた。顔の各パーツは整っていてその完璧なシンメトリーの様子は薫の心を少なからず揺さぶった。

「でも今日の私、めっちゃ頑張ったんじゃない?微分積分もベクトルもばっちりだよ」

そう言って彼女はガッツポーズをし、どや顔を見せびらかす。単純なんだな、と心の中で頷く。でも、確かに不登校の生徒がここまで勉強内容についてこれているのは努力と才能の賜物であると言えるかもしれない。

詩織が転校してくるずっと前からこの喫茶店にはお世話になっていて、常連客の特権で長居しても誰も嫌な顔をする人は居なかったけれど――そもそも常連客じゃない人が長居しても誰も嫌な顔はしないお店なのだけれど――、流石に申し訳ない気持ちになってきたのでそろそろお勘定を、と席を立つ。それを見て詩織も荷物をまとめて席を立った。


もう五月なのに真っ暗だねー、怖いねーとか何とか言って詩織はぶんぶん手を振り回しながら先を歩いていた。喫茶店から駅まではすぐだけれど、詩織の家までは割と時間がかかる。女の子一人で帰すのも気が引けるので詩織を家に送り届けなければならない。

それにしても、今年で十八歳なのに挙動がいちいち子ども臭い。将来お母さんになった時に逆に子育てされはしまいかと半ば冗談の発想が浮かんだがそんなことを言えば彼女が怒るのは目に見えていたので口を噤むことにする。だから、無言の空白が生まれる。

何を話そうか、と頭を悩ませるが、当の本人は何も気まずさを感じていないようだった。まあ、今さらと言えば今さらな気もする。 

外灯が街路樹と交互に立っていて、木の梢辺りが黄色い光をバックに影を落としている。あまり特徴のない街路樹だけれど、これはこれで雅だ、と過去百回目くらいの感想を心の中で述べる。


       〇

      

 高校三年生に進級してから早一か月ちょっと、今さらながら徂徠詩織について考えてみようと思い、秋山薫は昼過ぎから一人で浜寺公園を歩いていた。

なぜって?なんとなくだ。特に理由はない。

ただ、彼女と出会ってから今日までの毎日があっという間に過ぎてしまったので、現在の詩織と最初に出会った頃の詩織に関する記憶同士が上手く結びつかなかったから今一度記憶の整理をしようと思ったのである。

この公園の面積は知らないが、線路の長さで例えると端から端まで二駅分くらいの長さの線路がすっぽり収まる大きさだ。公園の近くにはかの有名な銀行の建築を手掛けた有名建築士が建てた駅があるし、公園西部に沿う形で位置する運河では花火大会などの催し物がよく行われていた。地元民はその名誉を胸にここを深く愛する。地元民にとって、ここは切っても切れない土地なのだ。

 さて、と思う。

 考えると言っても果たして何を考えれば良いのかが分からない。多分、こういう時には順序正しく一から十まで思い出した方がいいのだろう。なんとなく長くなりそうな予感があったから薫は近くの自販機でりんごジュースを買ってから日陰のベンチに腰を掛けた。

 そして、思い出す。


 あれは三年生の始業式の日だった。

 学年が変わったからと言って周りの景色も友人も人格が変わる訳ではない。今まで通りの、何の変哲もない学生生活の幕開けというだけだった。

 式が終わると教室で必要な連絡事項を聞き、終われば帰る。次の日から授業が始まるだけだ。

 特に考えることもないので頭を空っぽにしながら帰り道を歩いていると、学校のすぐ近くの公園で女の子が倒れているのを発見した。

 学校の近くの公園で女の子が倒れている。それは当時の薫にとって衝撃的な出来事でしかなかったことは言うまでもない。

藍色のワンピースを着た女の子。白い肌に、少し茶色の、軽くパーマがかかった髪の毛。整った顔立ちをしていて、自分と同じくらいの年の子。

どうしてこんなところで倒れていたのか。この周辺の高校は仙谷高校しかない。もし彼女が高校生なら、始業式である今日は出席していなかったことになる。

そうこうしているうちに女の子は目を覚まし、こちらを疑るような視線で見つめた。

そして開口し、こう言った。

「私のおうちはどこ?」


それが秋山薫と徂徠詩織の、最初の出会いだった。

不思議だ。

藍色のワンピースの女の子。三年生の春から仙谷高校に一応在籍する女の子。

でも、制服は購入していない。

彼女にとって、そうする必要性が無いからだそうだ。

何が不思議って?

それは思い当たる部分だらけなのだけれど、とにかく漠然とした何かだ。でも、そこには確かな因果関係が内在していると思う。ちょうど、刺繍の裏地の糸が絡まっているのに気づくように。何かのつじつま合わせのように薫と詩織は出会った。

そして、薫と詩織は知り合ってからの一か月間で色んなことを話し、お互いのことを分かり合った。


「私ね、目的とする場所には一人で絶対に行けない病を患っているの。からかわないで。これは本当の話。こんなこと言っても誰にも理解されないでしょ? だから親にも、誰にも言わないことにしていたのよ。でも、薫君なら分かってくれる。そう思ったの」


「高校二年生まではどうしていたの?」

「二年間は過保護なお母さんのお蔭で毎日車で登下校していたの。今年からは仕事で忙しくなるからそれが難しくなりそうだけど」


「それはつまり、生まれつきのアレルギーみたいなもの?」

「分からない。それがいつ発症したのかさえ。でも、その病は進行していて、私の体を確実に蝕んでいる感覚がある。いつか、本当にどこにも行けなくなるかもしれない」


薫は詩織の話のすべてを受け取め、漠然とではあるけれど、不思議と腑に落ちた。当時の薫にとって、理屈なんてどうでもよかったのかもしれない。

「なるほど」と薫は言った。「そんなの簡単だよ。僕が毎日学校に連れて行ってあげればいい」


そして、彼女は言う。常識という、世界のありとあらゆる規則を無視して。


「いいの。そもそも私にはあの学校に行く気が無いから。だから、もう学校に行けなくていい。その代わり、薫君が私に勉強を教えて欲しいな。例えば、喫茶店とかで」


 詩織にとって、何かを目的とする場所へは一人で絶対に行けない。例えば、学校は勉強するところだ。勉強を目的として行くところには絶対に行けない。でも、喫茶店は違う。喫茶店は一義的な場所ではなく多義的に扱われるべき場所であり、そこにはどんな限定された目的もあってはならないのだ。目的のない場所には行ける。それが詩織の言う理屈だった。


薫は長い間うつむいていたが、ふと空を見上げると手に持っているりんごジュースと同じくらい明るい夕陽が輝いていたことに気が付いた。時間の流れは一定なはずなのに、時間の経過が早く感じられる時がある。これも不思議の一つだと薫は思った。そしてベンチから立ち上がり、また歩き始めた。

 家に帰ると薫は一人で晩御飯の支度をした。昨日はカレーライスを作ったので、その残りの具材を使ってカレーうどんを作って食べた。特に美味しくも不味くもない普通の味だった。敢えて言うならば少し水の量が多くてシャバシャバになってしまった。晩ご飯を食べて皿洗いを済ませると、明日の学校の課題を済ませ、詩織に教える勉強の内容を確認した。それから寝床についた。

 今日過ごした一日を比喩で例えるなら、とても安定したロウソクの火のような一日だった。多分、人生というものはこれと同じように知らず知らずのうちに残り短くなっているのだろう。気づけばもう無くなりそうになっている。それは寿命という限定的な話ではない。人々には人生の中には生きている期間に区切りのようなものがあると思う。そして、その期間のようなものが一区切りするとまた新しい期間に入り、新しい空気を感じるようになるのだ。

僕たちはそのことを忘れてはいけない。いつもその区切りのようなものを意識しながら、その隔たりを越える時には出来るだけたくさんのものを抱えて越えなければならないのだ、と薫は思う。だから、眠る前にはそのことを意識しなければならないのだと思う。その期間に抱えたいくつかの物事を失わないように、真実が真実であり続けるように、そう願って目をつぶるのだ。秋山薫はまるで呪文のように心の中でそう唱え、すぐに眠りに落ちた。


 月曜日、二人はその日も例の喫茶店で話していた。薫は高校の授業があったからそれが終わってから詩織の家に迎えに行き、それから喫茶店に行くという手順を踏まなくてはならなかった。

「薫君は本当に甘い物が好きなんだね」と徂徠詩織は言った。

薫はチーズケーキとイチゴケーキ、それとホットカフェラテを注文していた。確かに詩織の言う通り、薫は甘い物ばかり注文していた。チーズケーキの上にクリームが乗っていて、

「そうだね。僕は少しばかり他の人よりも糖分を必要としている量が多いから、自然とそういうものに気がいくのかもしれない」

「でも、あんまり食べ過ぎると糖尿病になるよ? ほら、私みたいに糖分控えめにしないとさ、健康維持できないよ?」

「うん、気を付けるよ」

 薫はそう言って目の前に座っている詩織の頼んだ品々を見て思った。マーガリンを塗ったトーストとゆで卵、それとブラックコーヒー。確かにそれらはとても健康的なメニューセレクトだと思う。けど何かが違う気がする。薫の頼んだものと何か決定的な違いが。

「ねえ、糖分控えめはいいんだけどそれってティータイムには不向きじゃないかな」

ケーキを食べている人間の前でトーストを食べている。どうでもいいけれど、これはあまりにもミスマッチ過ぎるのではないか。

薫がそう言うと詩織は何だか得意げな顔をして、まるで小さな子供に算数を教えるみたいな口調でこう言った。

「ふふん、今日の私にとってはこれが朝食なのよ。今日起きたの午後二時ごろだったからまだ何も食べてないの」

なんというか、それでは色んな意味で本末転倒な気がする。薫は心の底からそう思いながらも口には出さずに留まった。その代わりに微妙なため息が出た。

窓の外を見る限り、喫茶店の前の通りには殆ど人が通らなかったが時折慌ただしく歩き回る背広や主婦の姿が見受けられた。外を照り付ける太陽は少しずつ淡くなっているような感覚があったが完全に衰えるということはなかった。夜が来るのはまだもう少し先のようだった。

薫は昼の、とりわけ夜の手前のこのだらだらした感じが好きじゃなかった。空を見ても時計を見てもそれが昼なのか夜なのか判断することが出来ない。それを夕方と言う折衷案はあるにはあるがそう妥協してしまうと「夕方とは何か」について考えずにはいられなくなるのだ。そしてその時間帯の判断が出来なければ自分という存在すら薄く感じられてくる。自分がどういう存在で、どういう世界に属しているのか。それは周りの環境を見渡さなければ分からないことだ。そして、この微妙な時間帯が具体的に自分とどう結びついているのかが分からなければ、それは周りの環境を不安定にさせる一つの因子ではないかと頭が勝手に判断してしまうのだ。頭で考えても無駄なことだと焚きつけても、それはマンホールから出てくるゴキブリみたいにどうしようもなく薫の思考を乱した。

「そういえばさ」と徂徠詩織が言った。「薫君はいつからあの神社にお参りに行ってるの?」

「あの神社って?」

「ほら、あの東区の方にあるところ。放課後になるといつも行ってるでしょ? 私、この通りお外に行けないからよく二階の窓から外の景色を見てるの。そしたらたまに薫君の姿が見えるんだよ。いつも同じ時間、同じ方向に向かって歩いてる。その方向には寂れた住宅街とちょっとした林しかないの。それで薫君が行くところって考えたら神社しか浮かばないもの。それに急いでるのかな。たまに片手に小銭を握りしめて歩いてる時もあるでしょ? そういうところから推理するとすぐ分かるのよ」

「よくわかったね。そうだよ。毎日じゃないけれど、学校がある平日で勉強会がない日は大体神社に行ってる気がする」

「どうして?」

「どうしてって言われるとちょっと困るかも。絶対に言えない事情があるわけでは無いけれど、改まって言うことの程でもないから」

 そういうと詩織は少し困ったような顔をした。小さな顔に集約された顔の各パーツがその表情を微妙なバランスとともに作り上げていて、その表情はまさに芸術と言っても過言ではなかった。しかし、だからといって薫はその芸術性について詩織に話すわけにもいかないし、その芸術に心を許して本当の事を話すわけにもいかなかった。

「ところで」と薫は新たな口火を切る。「この前の病院の検査はどうだったの? 確か西区の精神科医だったよね」

「どうもこうも、いつもと同じだった。特に問題は無いように思われますが貴方が自由に外を歩けないようになったのは何らかの外的要因があるのかもしれない。定期的に通つめてください。二人でゆっくり解決していきましょう、って。そんなの分かり切ったことでしょ。脳外科に行った時もそうだった。うちはお母さんが忙しくて一緒に病院に行けるタイミングも限られてるから通い詰めることは難しいの。だからもう諦めようかなって。お母さんには迷惑がかかるけれど、このまま外に行けなくても別にいいかなって」

薫は「そう」とだけ言った。

それから話題はそれていき、昨日の晩御飯だとか最近読んだ本だとか取り留めもない話題に変わっていった。そんなことを話しているうちに、窓の外はすっかり瑠璃色に染まり、分厚くて薄暗い低い雲が浮かんでいた。

「もうそろそろ帰ろうか」

 結局その日は勉強という勉強をしなかった。たまにはそういう日もある。詩織も一回くらい勉強をさぼっても困ることはない。そもそも、詩織はテストも何もないのだから、焦る必要はなかった。

 そう言って薫たちは帰路についた。行きと同じように、帰りも詩織を家に送り届け、薫は電車に乗って帰った。


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