プロローグ
言葉の重みを、私は忘れてしまった。
便箋に込めた想いを表しているのは言葉だ。
人に愛を伝えるのも、言葉だ。
確かにそれはありとあらゆる物の媒体として、私たちの生活において欠かせない重要なものとして機能している。
でも、それが何だというのだ。言葉というものは真実を伝えることができるけど、偽りを真実のように語ることも出来る。本当の愛が偽りの愛に侵されることだってあり得るのだ。そんなリスクの塊のようなものを、私は信じることが出来ない。たとえ、それが唯一の人間のコミュニケーションの手段だとしても。私は言葉の重みを受け入れることが出来ない。
下らない。下らない人間なのだ、私は。一から十までが人間に許されている領域だとすれば一から三までしか選ばない。狭い、空気の薄い暗がりの中で私は息づいている。苦しくて、怖いから、温もりが愛おしくなる。でも、結局は恐れている。
心の中の、無意識という名の牢屋で光を求めている。いつか、誰かが手を差し伸べてくれる日がくるまで。
〇
昼の終わりを象徴する橙色の夕焼け。
夜の始まりを形象する紺色の暗闇。
それら二色の配合は見事で、綺麗だった。
夕闇の裏側に潜む影を見つめる。そこには混沌とした暗黒があり、僕たちがあずかり知らない世界が眠っている。いや、あるいは僕たちを嘲笑っているのかもしれない。しかし、結局のところその景色は正体不明のベールを纏い、不気味なくらい奥行きを欠き、僕たちの視界から姿を隠していた。
海岸線に沿って並ぶテトラポットは無機質な性質をもってしてそこに存在している。
水面が反射する夕陽の輝きはその上にある混沌と違って、たしかな温もりを含んでいる。
僕はテトラポットの傍にある堤防に腰を掛けてその景色を眺め、過去の記憶を思い出す。
その昔、あるところに寡黙な少女が居た。寡黙な少女はいつだって寡黙だった。僕は見たことがなかったけれど、きっと転んで怪我をした時も何も声をあげなかったに違いない。少女の声を、僕はもちろん、他の誰も知らなかった。もしかしたら、彼女の声はどこかの誰かによって奪われてしまったのかもしれない。それくらい物静かな少女だった。
だが、その話はあくまで昔の話であって、僕と彼女は日に日に言葉を紡ぐ回数が増えていき、気づけば僕たちはいつでも話すようになっていた。
少女は三つ編みの髪を揺らしながら歩いていた。自慢の髪と言うにはいささか少女の自負心が足りなかったがその美しさは十分そう言うに値していた。そして、その綺麗な三つ編みの髪が僕と少女を突然結び付けたのだった。
髪だけではない。少女の顔が彩る表情は淡白で、少しも隙を見せない素振りがあったがそれがかえってクールビューティーといった類の美しさのパラメーターを上昇させていた。
彼女の名前は――胸の奥深くに刻み込まれていたはずなのに――思い出せない。怪我をしたところから出た血を根こそぎ吸い取り、なるだけ目立たなくしたみたいに、ありとあらゆる消去可能な記憶が頭の中から抜け落ちていた。
ある日、僕が「ねえ」と声を掛けると、
少女は「なあに?」と言った。
蒸し暑い、梅雨入りの季節。
僕と少女は下らない神社の石段に座って下らない話をしていた。
「僕は、これから先どのような未来が訪れるのか言い当てることが出来る。もし君が、僕の能力で見る未来について一つだけ質問出来るとしたら、どんな未来について質問するだろう?」と僕は言った。
もちろん、その話は嘘でしかない。
僕と少女の会話の殆どは嘘によって始まり、嘘によって帰結される。
それはこの世界に存在する宇宙についての仮説みたいに非現実的であり、逆にある一定の視点から見ればとても自然な正論のやり取りのようでもあったし、それを美しいことだとさえ思っていた。
「そんなこと簡単だわ。決まっているじゃない」と少女は自信満々に言った。「私は、未来でも私のままで生きて居られているのか聞くわ」
「どうして?」
「大抵の人間は未来の自分はどんな自分になっているのか。結婚は? 職業は? 健康面は? 生活水準は? たくさん気になることがあるでしょう。でも、そんなこと、聞いても仕方がないじゃない。いずれ訪れることだもの。なるようになる。そうでしょ?」
「じゃあ、君が言う『未来でも私のままで生きて居られるのか』という質問は、どういう意図でそう考えられたのだろう?」
「それも簡単。私たちの細胞が毎日入れ替わっているのと同じように、私たちの未来に居る私たちも入れ替わり続けている。じゃあ、その未来の私たちは現在の延長線上に存在しているのか、それとも五分前の世界みたいに急に作られる別物に過ぎないのか。現在の私たちも、未来の私たちが作られる五分前に形成される夢のような幻、つまり単なる記憶に過ぎなくて、それは何の意味も持たないのかもしれない。それなら、現在を生きている私たちが未来に対して何かを想うことはとんだお門違いになるでしょう?」と少女は言った。
「分からない」
本当に分からなかった。彼女が発する言葉の意味が分からなかった。それはまるで、未来からの贈り物のように現実味を欠いた言葉だった。あるいは、彼女自身の言葉ではなく、紙に書かれた文章を読み上げるように抑揚のない言葉だった。
「いずれ分かるわよ」
「そうかな」
「そうよ。でも、貴方がこの問いかけをしたのには何か訳があるのでしょう?差し支えがなければその理由について聞かせてもらえないかしら」
「もちろん」僕は息を吸って、そして吐く。「未来というものは希望に満ち溢れている。だから、その最大限の可能性がどれくらいなのか、君と議論したかった」
「そう」と少女は言った。
僕と少女の会話の殆どは嘘によって始まり、嘘によって帰結される。
その時の会話もやはり、嘘によって始まり、嘘によって帰結された。
遠い、遠い記憶。どうしてこのことをいきなり思い出したのか、不思議で仕方がなかった。ため息を吐く。分からないことをいつまでも考えることほど、非効率的な事柄はない。答え合わせは、答えが分からない時にすぐ確かめた方が、効率がいい。でも、現実世界における模範解答はすぐそこにあるとは限らない。だから、答えが分かるまではそれを心の中に留めておく。きっと、いつかは分かることだ。だから、今はじっとして、ただ虚ろに、感傷に浸る。
「今だって、分からないよ」とひとりごちる。
どこにも吹かない風に曖昧な感情を乗せて。
誰にも知られたくない秘密を守るように、拳を握る。
目の前に広がる海が反射する夕焼けの光は、既に空を支配する漆黒によって完全な黒に染められていた。もうそろそろ帰らないといけない時間だ。
僕はゴツゴツとした堤防から腰を上げて、目の前の海――あまり綺麗と呼べる代物ではない――を少し眺めてから振り返り、歩き出す。そして思う。
何かが足りない気がする。