『グレート・ギャツビー』を読んで『華麗なるギャツビー』を観て
『グレート・ギャツビー』という本の存在を知ったのは、村上春樹でだったか、はたまた内田樹の村上論でだったか、今となっては覚えていない。けれども、アメリカ文学なんてヘミングウェイの『老人と海』くらいしか読んだことのなかった私にとってこの本は、さほど興味をそそられる本ではなかった。ただ、内田樹にはまっていた私は、その後いくどとなく『グレート・ギャツビー』という書名を目にして、「なんだかよく目につくし、引っかかるから読んでおいたほうがいいかな~」くらいの気持ちで、新潮文庫の野崎孝訳を気乗りしないまま読んだのである。
そして、読み終わってみたら、全然この本の良さがわからなかった。どの登場人物も魅力的に感じることができなかったし、誰にも感情移入できなかった。物語が、壁一枚を隔てた向こう側で展開しているようにしか感じられなかったのだ。
デイジーはなんだか頭が空っぽで蓮っ葉だったし、ギャツビーがどうしてそこまでデイジーを好いているのかさっぱりわからなかった。傍観者みたいにただ眺めていただけの主人公・ニックが、ギャツビーの死に際していきなりギャツビー寄りになっているのにも「おまえ、今まで黙って見てただけじゃねえか」と思ったりした。
自分がこの物語を全然読めていなかったと知ったのはディカプリオ版の『華麗なるギャツビー』を見てからだった。この映像化は、とても親切だった。所々で、主人公・ニックのモノローグが入るので、私みたいに「傍観者としてのニックの見たもの」と「ニック自身の所感」をごっちゃにして読んで混乱していた人にとって、わかりやすい演出がなされていたと思う。
それから、デイジーは文句なく美しかった。頭は良くなかったかもしれないけれど、自分のできる限りのことを考えて悩んでいる姿が健気で可愛く見えた。そう見えると、ギャツビーがデイジーを何年も想って、半ば神聖化しちゃってるんじゃないの、ってくらいになるのも何となく想像がついた。このギャツビーの一途さ、デイジーに対する無垢さがわかればわかるほど、彼の最期が痛々しい。
ニックについては、パーティでギャツビーと最初にコンタクトを取り始めるところで、傍観者としてではないニック自身の彼への興味を感じた。そしてデイジーをお茶に誘って、ギャツビーと引き合わせる日には、ギャツビーの極度の緊張ぶりと小心ぶりから、素のギャツビーに対して誠実な親切心を見せていることがわかった。ニックはここで、完全にギャツビーに味方していたと思う。
今までわからなかった部分が、ぴたっとつながってくるとクライマックスまではもう間違えようはない。見終えた後は「なるほど~。こういう話だったのか~」と唸るほどだった。
ちなみにその後ロバート・レッドフォード版の『華麗なるギャツビー』も見たけれど、こちらは原作を読んだときの印象に近かった。
ディカプリオ版はギャツビーのプールでの死が非常に印象に残っているけれど、ロバート・レッドフォード版はデイジーとその夫・トムのクズっぷりが最後の印象として強い。これがけっこうイラっとするので、個人的にはディカプリオ版のほうが好みだ。
読んだのも観たのも最近じゃないので、もしかしたら色々間違っているかもしれませんが、印象はこんな感じでした。