魔女と暮らせば
我は病弱な竜だ。
竜の種を統べる竜の長≪ド・ルベル≫、バハムートの嫡子でありながら、生来病弱で、単純な風邪から致死率の高い結核に至るまで、数多の病気を患った。
死線をかいくぐったことは一度や二度ではない。しかし、その度に我は生き延びた。
それが果たして、バハムートの血を引く我の生命力の高さ故か、幸か不幸か、天命に愛された結果なのかは分からぬ。
ただ、いずれにしろ我が病弱であることに変わりはなかった。
呼吸と同じ数だけ咳こめば、事あるごとに腹も下す。
息切れなぞは日常茶飯事。バハムートの血を引くことを示す、深碧の噴炎≪タルア・メギ≫でも噴けば、たちまち喀血して、一晩は寝込んでしまう。
噴炎の一吹きで山一つを消してしまうと言われる父と比べれば、聞いて呆れる体たらくだ。
そのため、我は幼い時分より他の竜の一族から見下され、親兄弟にも見切りをつけられた程。
自明の理である。
竜という種族は互いに縄張りを争い合い、戦い、そしてより多くの屍を築き上げた者が竜の長≪ド・ルベル≫として讃えられるのだから。
我のような病弱な竜は蔑まれる対象でしかない。
勇猛に戦い、華々しく散る訳でもなく、いずれ病で死ぬ運命。
これに勝る屈辱はあろうか。
真っ当な竜に生まれたのであれば、己の境遇を呪い、自ら“竜神の住まう谷”≪アルカ・ド・ゲルグ≫に身を投げ、自死するのも厭わないだろう。
一度は我もそこに身を投じようと決心したのだ。
しかし、我は生き延びた。
それはひとえに、――とある珍妙な魔女との出会いに拠るだろう。
――。
「…いつまで寝ているつもりなんだい? この軟弱な大トカゲは」
洞窟の入り口を覆うようにして掛けられた巨大な帳が開け放たれ、刺すような日の光が洞窟内を襲い、思わず、我は目を細めた。
そして、喉の奥から絞り出すように、低い唸りをあげる。
「…寝かせてくれ。病弱な我を少しでも気遣う気があるのならば」
「これでも気を遣ってあげている方なんだけどね。むしろ、ちょうどお昼ご飯の時間に起こしてあげたことに感謝してほしいくらいだ」
「…む」
言って、もうそんな刻か、と小さく呟く。
惰眠を貪るにしてはいささか、過ぎた頃合いではある。
「…かたじけぬな、ヒルデ」
「ふん…その言葉も、もう聞き飽きたよ」
相変わらず人間の女にしては、よく通る声だ。
地を鳴らすことで有名な竜の声にも劣らぬ。
「して、今日の献立は?」
若干の期待を込めて、我は半身を起こしつつ、ヒルデに尋ねた。
ヒルデは飾った声色で返す。
「キャタピラーの香草焼き〜マタンゴの食虫植物ソースを添えて〜」
しばしの間。
再び身を横たえて、我は寝返りを打った。
「…寝かせてくれ」
「させないよ」
「ぐおああああ!!」
ヒルデの掌から放たれた雷が我を貫いた。
「…我は香草は好かんというのに、何故いつも料理に入れるのだ?」
「あんたが嫌いでも、あたしは好きだ。もう百年近く共同生活しているんだから、いい加減慣れたらどうだい? あたしもあんたの地響きみたいないびきには慣れたよ」
「我のいびきなど知らん。誰が何といおうと我は香草が嫌いなのだ。不味いのだ」
「五月蠅い。黙って食べなさい」
ぴしゃりと言われ、我は身をすくませる。
そして目の前に置かれた岩石大のキャタピラーの香草焼きを見つめ、ため息をついた。
それとともに青い炎が口元から漏れる。
腹を括って、我はキャタピラーにかぶりついた。
(う…香草くさい)
対面に座り、フォークとナイフを器用に使ってキャタピラーの足を食しているのは魔女のヒルデ。
この世界で最も魔力を持ち、人族最強と恐れられている魔女である。
病弱といえど、バハムートの血を引く我ですら畏怖の念を抱くのだから尋常ではない。
それ故、様々な国や王族、傭兵団からの引く手は数多あり、同時に首を狙われる機会も多いらしい。
そんな煩わしい人間社会に疲れ、ヒルデはここ百年以上、人里離れた山奥でひっそりと暮らしている。
人族としては百歳を超えているとは思えないしなやかな身体と美貌を持っているが、それもまた、最強と呼ばれる魔女の成せる業らしい。
歳のことを聞くと強烈な雷を喰らうので、ヒルデの正確な齢は分からぬ。
ヒルデと我が出会ったのは、百年ほど前。
その日も我は己の病弱を呪いながら、洞窟の中で酷い咳と節々の痛みに耐えていた。
当時、我の齢はすでに百を越え、竜ならば自らの縄張りを持って子を成せる歳であった。
しかし、我は病弱故に肉と骨ばかりの身体で、縄張り争いなど到底叶わぬこと。
雌と番うことなど、夢のまた夢であった。
日に日に募る絶望感についに我は耐え兼ね、ついに≪竜神の住まう谷≫に我が身を投げん、と思い立ち、洞窟から顔を出した。
まさにその時だった。
目も眩むような閃光とともに、激しい痛みが我の身体を貫いたのだ。
それが我が最初に受けたヒルデの雷であった。
ヒルデはその時、洞窟の傍らで新たな魔法の開発をしていたらしく、偶々呼び寄せた雷に我は当たってしまったのだ。
当初、ヒルデは我に謝罪し、すぐさま我の病弱を見抜くと、雷を浴びせた詫びとして、我の身体の治療を買って出た。
畏れ多くも竜の言語で私に語りかけた魔女に我は
(魔女風情が何を言っている!)
と、思ったことは言うまでもない。
太古の昔から、人族と竜族が交流を持つことは両族の掟で厳しく禁じられている。
両種族が交わることで両種族とも破滅の道を辿る、という古くからの言い伝えがあるのだ。
その禁忌を犯すのも憚らない魔女の行為に我は呆れ果て、その神経を疑った。
しかし、当時の我もどうかしていた。
ヒルデが我をも凌ぐ力を持った魔女だと悟ると、幾分迷ってしまったのだ。
この女の手にかかれば、呪われた運命から抜け出せるかもしれぬ、と。
噴炎の代わりに放たれる咳、病弱な身体、拭っても拭いきれぬ羞恥心。
奇しくも、身を投げようと思い立ったその時、この魔女と出会ったのだ。
竜の名に恥じぬ屈強な身体を手に入れるには、魔女を頼る他ない――。
そんな考えに捉われ、我は言葉を選びながらヒルデに問うた。
「…病弱な我を癒せる、という保証はあるのか」
するとヒルデは余裕をたたえた笑みを浮かべて、こう答えたのだ。
「自慢じゃないけど、私は自分の魔法が世界で一番だと思っているよ。疑うんなら、“契約”を交わしたっていい」
“契約”は 魔女にとって決して破ってはならぬ契り。
契約を果たすまで、契約相手に自分の命を預ける、という意味を含む誓約である。
並の魔女ならば、見知らぬ相手、それも竜などと契約なぞ交わさぬもの。
しかし、ヒルデは、そんな契約を厭わぬほど、己の力に対する絶対的な自信を持っていたのだ。
そんな魔女の胆力と矜持に惹かれた我は、二つ返事で答えた。
「よかろう」
かくしてヒルデは我と“契約”を交わすことになる。
我を、他の竜と劣らぬ、健全な状態まで回復させる、という契約を。
しかし、この選択は今考えてみても、正しかった、とは到底言い難い。
確かにヒルデは腕の利く魔女だ。
我の病弱な身体を治す心得も十分にあった。
現に、百年もの歳月、我はヒルデの治療を受け、回復していくのを実感している。
これは大変喜ばしいことかもしれぬ。頑強な身体を手に入れる、という意味では、我の判断は正しかったと言っても過言ではないのかもしれぬ。
しかしながら、である。
ヒルデと出会い、ともに暮らすうちに、我の中で、何かが決定的に欠け落ちていくのを感じていた。
それは竜として生きる矜持か、あるいは歓び。
はたまた、生きる「意味」そのものかもしれぬ。
――。
「次はヒルデの番だぞ」
「…わかってる。今、考えている最中なんだよ」
「…全く。ヒルデはいつも手が遅い」
「悪いね。あんたと違って、すぐに五十手、百手と先を読めるわけじゃないんだ。竜とは頭のデキが違うのさ」
「む。それは違うぞ。…種族の違いではなく、単に我の頭脳が優れているだけだ」
「……」
我とヒルデは、テーブルに置かれた盤面を睨みつつ、向かい合って座っていた。
我々はよく、人間が興じるボードゲームを指しあう。
様々な種類と趣向に富んだボードゲームは、人間が考えたにしては中々どうして、奥深い。かれこれ五十年以上、ヒルデを相手に多様なボードゲームに興じてきた。
今、取り組んでいるのは、人間たちの軍隊に見立てた駒を使ったボードゲームである。
ゲームシステムは至って単純だが、騎馬や城壁を象った駒の精巧な造りは見事なものである。
何手か指しあった後、ヒルデがため息とともに、投了した。
「…チェックメイト、だね。あんたにはいつも負けっぱなしだよ」
「…ふん。これしきのこと、バハムートの末裔である我ならば、容易いことよ」
「バハムートの末裔ねえ…。まあ、好き嫌いの激しい竜じゃ、箔がつかないけどね」
「竜の世界では好き嫌いではなく、勝負の勝ち負けでその価値が決まるのだ」
「はいはい、その話ももう百回以上聞いたよ。さて、今日はこれぐらいにして、あんたの身体の具合を診ることにしようか」
ヒルデは手早く盤面を片付けると、傍らの天幕の中に姿を消した。
ここ百年の間、ヒルデは我の洞窟のすぐそばに天幕を張り、暮らしてきた。
天幕の中には、見たことも聞いたこともない数々の魔道具が詰まっており、我の身体に治療を施すにもそれらの魔道具なしには始まらぬ。
いつものように、ヒルデは調合薬を塗った湿布、魔石から削り出した鍼、そして愛用の杖と水晶を持って天幕から出てくる。
それに続いて我は地べたに寝そべった。
治療の過程はこの百年間、もはや日課となっていた。
まずヒルデは我の背中に一枚一枚、丁寧に湿布を張っていく。
毎度のことながら、この湿布のひんやりとした感覚が心地良い。
その後、魔法陣を描くようにして、背中や尻尾、首筋、という風に、的確な位置に鍼を刺していく。
湿布とはうって代わり、鍼の付け根からはじんわりと熱が広がっていく。
身体の芯からほぐれていく感覚に、我は思わずため息をついた。
仕上げにヒルデがぶつぶつと何かを呟くと、癒しの魔法が小一時間ばかり、我の身体を包み込む。
何より、この一時間が得も言えぬ極楽だ。
日々の疲れが、身体の端々から溶けて流れ出るような、そんな快感にただ身を任せる至福。
…まあ、日頃から食べては寝るだけの生活の我にとって、疲れなどとは無縁なのだが、それはこの際言うまい。
「毎日毎日、世話をかけるな、ヒルデ」
そんな労いの言葉をかけると、ヒルデは呆れた語調で答えた。
「大それた魔法でもないからね。私も良い暇つぶしになってるよ。それに、元はといえば、あんたに雷を浴びせたお詫びなワケだし、しっかり礼はしないとね」
「ふん。その割には、頻繁に雷を浴びせられているがな」
「そりゃあんたが我儘言うからさ」
「我儘ではない。主張だ」
「同じだよ」
そう言うと、ヒルデは寝そべる我の肩に腰を降ろした。
それからヒルデは、いつもならばとりとめのない昔話をし始めるのが常なのだが、その日は少々様子が違った。
「…今日は治療を始めてちょうど百年目だ。あんた、気づいていたかい?」
「何? まだ百年なのか。もう何百年もこうしている気がする。月日の流れとは遅いものだな」
「はは、さすが竜だね。私ら人間とは時間感覚が違うみたいだ。私からしたら、まだ十年かそこらしか経っていない気がするよ」
乾いた笑いとともに、ヒルデは落ち着いた声で我に語りかける。
「…あんたもいい加減、こんな辺鄙な洞窟で慰安してないで、竜の縄張り争いとやらに戻っていったらどうだい?」
自分を語るのはやぶさかではないヒルデであるが、ヒルデにしては珍しく、我の事情に言及してきた。
いくらか訝しく思いつつも、我はあくまで平静に答えた。
「…む。まだ本調子ではないからな。竜の世で名をあげるには、十分に精気を養わなければならぬ」
「そんなこと言って、ホントはここの生活が居心地良いだけなんだろ? 私が結界を張っているから他の竜に絡まれる心配もないし、回復魔法も気持ち良い。それにボードゲームも楽しいから言うこと無し。違うかい?」
「…賢い竜は無理をせぬものだ。それに契約はどうした。我を全快させるまで、治療に専念するのではなかったのか?」
我の言葉を受けて、ヒルデはしばし沈黙したが、やがて口を開いた。
「…でもね、いつまでもあんたの身体を診てやれるってわけでもないんだよ」
これまたヒルデには似つかわしくない、しおらしい言葉だった。
そんな言をあしらうかのように、我は鼻を鳴らした。
「…その気になれば永劫生きられると言っていたではないか。何を今更、弱気になっている」
「寿命の話じゃ無いんだ。つまり、私が命を狙われて、いつ死ぬかも分からないってことさ」
「ふん! 冗談も寝て言え。最強と謳われた伝説の魔女に敵う人間がこの世に現れた、とでも言うのか? まさかそんな話が…」
言いきらぬ内に、我の言葉は「静かに…!」というヒルデの声に制された。
ふと、ピリリとした緊張感が大気に満ちる。
ヒルデと暮らして百年あまり、一度も感じたことの無かった感覚。
我の鱗を震わせたそれは、ヒルデの魔の波動に限りなく近いが、決定的に異質なものだった。
ヒルデが“生”の魔性ならば、この魔性は“死”に由来する。
程なくして、ヒルデは険しい表情を浮かべると、静かに空を仰いだ。
「…グッドタイミングだね。そろそろやってくるとは思っていたけど、よりによって今日とは皮肉なもんだ。せっかくの記念日がこれじゃ台無しだよ」
言ってヒルデは立ち上がると、我の洞窟と真向いの方向へゆっくりと歩き出した。
訳の分からぬまま、そちらに視線を向ける。
すると、何たることか、ヒルデの結界に亀裂が走っているではないか。
先ほどの違和感は結界に干渉された影響らしい。
洞窟を中心に囲うようにして展開されたヒルデの結界は、よほどのことが無い限り、破ることはできぬ。
それこそ、ヒルデ自身か、あるいはヒルデに匹敵するほどの実力の持ち主でない限り、その堅牢な隔たりに干渉することはできないだろう。
事実、この百年間、一度も結界が破られたことはなかった。
しかし今、その結界の一部が歪められ、裂傷が生じている。
そして、黒ずんだ亀裂の前には若い人間の男が立っていた。
歩み寄るヒルデに対して、冷ややかな微笑を投げかけながら、男は言った。
「こんな辺境に身を隠しているなんて、お師匠様も物好きなお人だ。しかも、竜を子飼いにしているとは。さすが伝説の魔女はスケールが違う」
ヒルデの表情は一層強張り、我は不審に思いつつも、男の言葉に幾分か気分を害された。
(子飼い、だと? 我がヒルデに飼われているとでも!?)
我は口を開いたが、それも再びヒルデによって阻まれた。
「あの竜は訳あって一緒に暮らしているだけさ。あんたには関係ないだろう、イクサ」
イクサ、と呼ばれた男は口元を少し歪める。
「おや、私の名前を覚えていてもらえて光栄です。大魔導師ヒルデ様」
そうしてヒルデは男を睨みつけ、男の方も舐めるような目つきでヒルデを見た。
お師匠様、という呼称から、あの男とヒルデが師弟関係にあることは察せられるが、間を隔てる空気は穏やかでない。
と、突然。
男の方が両手をパンと合わせ、ヒルデに笑いかけた。
しかし、その瞳は微塵も喜色をたたえてはいなかった。
「こうして睨み合っていても仕方ありません。今日はお師匠様と争いに来たわけではありませんから、安心してください」
そして両の掌をヒルデに示し、敵意は無い、という人間流の挨拶をした。
ヒルデは警戒の色を解かぬまま、言った。
「…あんたはまた、大きな戦争を起こすつもりなんだろう。ちょくちょく国の動きは覗いていたけど、今度はただじゃ済まない規模だ。…よほど、私の力を借りたいと見える」
「…さすがお師匠様、察しが良い」
会話から察するに、人の世で大きな戦が起こるらしい。
男はさも嬉しそうに答えると、ヒルデは呆れた口調で言い放った。
「でもね、大昔に言ったハズだよ。私はもう人殺しのために魔法は使わない。それに私はあんたみたいに陰で国を操って、人間達が殺し合うさまを眺める趣味は無いんだ」
「ふふ、もちろんお師匠様の考えは重々承知しておりますとも」
大仰な素振りで語ると、男はこめかみに指を当てて言った。
「でもね、お師匠様。私もそろそろ次の段階に移行したいのです」
男は満面の笑みを浮かべたが、その目つきは冷ややかだった。
「お師匠様に協力いただけないのであれば、私の能力向上のために、お師匠様の心臓をいただきたいのです」
「……!」
魔術師の心臓は魔力の結晶と呼ばれ、魔術師たちは同業者たちの心臓を取り込むことでその魔力を高めることができる。
心臓を巡って、その手の市場で心臓が売買されることも少なくないし、魔法使いの暗殺や墓荒らしも少なくない。
互いの心臓をかけて、正式に“決闘”を執り行うこともある。
そして男の発言は、ヒルデに対する“決闘”の申し込みと同義であった。
恐らく、この世界で最高の魔力の結晶であろう、ヒルデの心臓をかけて。
ヒルデは何度もこうした決闘を受けてきたと聞く。
そしてそれを返り討ちにする度、魔術師たちの心臓を得て、強大な魔力を蓄えていったのだ。
この男も相当腕が立つようだが、魔力の質や、総量を鑑みても、ヒルデには及ばぬ。
我は両者の実力をそう推し量ったのだが、当のヒルデを見れば、額に脂汗を滲ませていた。
その表情は苦痛と困惑に満ち、決闘に対する尻込みがありありとうかがえた。
「…あんたというヤツは、どうしてそこまで…。私には理解できないよ…」
「…それは私とて同じことです。何故お師匠様はそれほどの力を持っていながら、下等な人間どもを野放しにしておくのか」
ヒルデの様子とはうって変わり、男は冷笑を浮かべつつ、余裕を以て語った。
そんな男の言動から、我は察した。
こやつはヒルデと己との力量の差を理解している。
ヒルデの力に、己の力は及ばぬ、と。
理解した上で、ヒルデに決闘を申し込んでいるのだ。
何故、己よりも各上の力を持つヒルデに決闘を申し込み、冷静でいられるのかは、甚だ疑問ではあるが。
…否、ヒルデの表情がその理由を物語っているかもしれぬ。
ヒルデにとって、あの男は“闘いたくない相手”らしい。
そんなヒルデの胸中を理解しているが故に、男は余裕を以て構えているのだ。
「…何があろうと、私はあんたには協力しないよ。けど、あんたと決闘もしたくない」
絞り出すようにヒルデは言うと、男の顔をじっと見つめた。
微動だにしない男の表情から何事か悟ると、ヒルデは肩を落として言葉を続けた。
「…決闘を断っても、どうせあんたは私を追って、無理にでも心臓を奪うつもりだろう」
「もちろん、そのつもりです」
きっぱりと答えた男に、ヒルデは諦めたように言った。
「…わかった。一月後、日が天頂に登る刻、アウラ渓谷の黒柳の下で待っている」
「…それは正式に決闘を受けてくださる、という解釈でよろしいですね」
「…ああ」
ヒルデの力ない返答に男は満足げな笑みを浮かべると、くるりと身を翻した。
そして、男の口元から洩れた言葉を我の耳はしかと拾った。
「これであなたの力は私のものとなる」
――。
「あんな若造、一捻りにしてやればよかろう」
あれから未だに迷いの色を浮かべているヒルデに向かって、我はそう言い放った。
「一捻りできるほど、あいつは弱くはないよ。あれでも私の一番弟子だからね」
疲れた声色で言うヒルデに我は鼻を鳴らした。
「ふん。あやつとお前とでは、力の差があることぐらい容易く見受けられる。何故、そこまで決闘を渋るのか、理解できぬわ」
我の言葉にヒルデは乾いた笑いで応えた。
「これには色々と、私にも事情があるんだよ」
そう言って、ため息をつくヒルデ。
それ以上語ろうとしないヒルデに我はしびれを切らして問うた。
「…先ほど、何者かに殺されるかもしれぬ、と話していたのは、あの男のことか」
「…そうだよ」
「…詳しく話せ」
言うと、ヒルデは、
「こんな話、辛気臭くて話したくなかったんだけど…」
と切り出してから、我の背中に貼ってあった湿布を代えつつ、まるでボードゲームの定石を語るように、淡々と話し始めた。
「あのイクサって男はね、私の親友の息子なのさ」
ヒルデにはその昔、家族同然に育った友がいたらしい。
親の無かった二人は、とある魔術師のもとに弟子入りし、魔女として自立する歳になるまで、共に学び、励まし合って過ごしたそうだ。
そして、魔女として自立する歳になると、互いに立派な魔女となることを誓い合って別れた。
それから十数年が経ち、ヒルデが魔女として名を挙げ始めた頃。
瀕死の友が、幼い息子を抱えてヒルデの元を訪ねた。
事情を聞けば、友は魔術師ではない人間の夫と杯を交わし、子どもをもうけた。
しかし、夫に裏切られ、“魔女狩り”に会ったという――魔術師の心臓を狙って、人間達が男女問わず、魔術師たちを謀り、殺すことを一般的に“魔女狩り”と呼ぶ。
ヒルデは友の傷を見て、もはや助からないことを悟り、友の遺言を聞き受けた。
「息子を守ってやってくれ」と。
それからヒルデはイクサを弟子として育て上げた。
しかし、イクサは常に人間に対する憎しみを燃やし続けたという。
ヒルデが何度諭そうとも、イクサは聞く耳を持たなかった。
ヒルデ自身も最初、仕方のないことだと思っていたらしい。
人間である父が魔女である母や魔女の血を引く自分を捨てたこと。
魔女狩りの凄惨さや人間達への不信感。
それらは決して簡単に拭い去ることができるものではない、と。
憎しみを解消できるのは時間だけだと、ヒルデは考えたのだ。
そしてヒルデは魔術師として十分生きていけるほどにイクサを育てると、魔術師の習わし通り、イクサを自立させた。
魔術師として生活するうちに、いずれその憎しみも風化するだろう、という考えのもとだったが、ヒルデの思う通りにはいかなかった。
イクサは身を削るような修練を積み、数々の魔術師との決闘の果てに、ヒルデに次ぐ程の力を得るまでに至った。
そして、権力を持つ人間たちに取り入り、己が魔性をもって彼らの心を操ると、国同士で謂れの無い戦争を起こすようになったのだ。
多数の人間が殺し合うのを眺めるために。
未だ消えぬ憎しみを晴らすために。
力をつけたイクサは、度々ヒルデの元を訪れるようになる。
専ら、より多くの殺し合いをもたらすために、ヒルデの力を借りたい、というのが訪問の目的だった。
ヒルデは無論、イクサの依頼を断り続けた。
「やってくる度に、私はイクサに諭したよ。人間をいたぶって何が楽しいのか。あんたがしていることは魔女狩りをしている奴らと変わらないよってね」
呆れた様子でヒルデは言うと、少し肩をすくめた。
「それでも、あいつは止めなかった。今思えば、あの時、私が本気で止めていれば、こんなことにはならなかったんだろうね」
ヒルデの忠告も虚しく、イクサは国を操り、次々と戦争を始めた。
それにつれて世の中は物騒になり、各方面からヒルデに力を貸してほしい、という声もかかった。
ヒルデは最強の魔女として名高かったが、生来、争いを好まない性質である。
降りかかる火の粉を払うように、同業者からの決闘は受けてはいたが、国や集落同士の戦争に参加することはほとんどなかった。ヒルデ自身、そういうものを毛嫌いしていたのだ。
そして、イクサがもたらした戦乱の世から逃げるように、ヒルデは山奥に身を隠すことを決めた。
「正直言ってね、私はイクサの生き方を否定したいわけじゃないんだよ。内心では、イクサの生きたいように生きれば良いと思っている。人間同士が争うのは知ったこっちゃないし、イクサが人間を憎むのは仕方のないことだ。でもね、私は他人と戦いたくない。戦争もしたくない。ホント、争い事は御免だった。…まあ、一番嫌だったのは、イクサと争うことだったんだけどね」
吐き出すように言ってから、ヒルデは微笑む。
「だから、私は逃げたんだ。イクサのことを放っておいて、誰にも知られない場所で、一人生きていこうとした。いずれ、こうしてイクサに見つかって、闘うことになるのを知っていながら、イクサとのケリを先延ばしにし続けたってワケさ」
眉を吊り上げて、ヒルデはそう自嘲気味に語った。
後悔と負い目に満ちた目色のヒルデをしばらく見据えた後、我は大きく鼻を鳴らした。
「…分からん。我には全く分からんな」
「…そうかい?」
「…何故、イクサを消さぬのか、分からぬ。お前の嫌う争い事から逃れるためには、あの男を殺すことこそ、最善の手であろうが」
「…ホント、あんたの言う通りなんだけどねえ」
空を仰ぎつつ、ヒルデはポツリと呟く。
「…イクサを守ってやるっていうあいつとの約束もあるし、私もイクサに情が無いってわけでもない。ボードゲームのようには動かないんだよ、人間って生き物はさ」
「…ふん。そういうものか」
それからヒルデは、意を決したかのように勢いよく立ちあがると、自らの杖を大きく一振りした。
次の瞬間、我の身体は今までに感じたことの無いほどの癒しの力に包まれ、手、足、翼、とみるみるうちに精気が溢れていった。
「…さて! 契約も今日で終わりだ。どんな病気にも負けない、丈夫な身体の出来上がりさ」
ヒルデの言葉を聞きながら、我は驚くほどに身体が軽くなるのを感じていた。
「ヒルデ…お前という奴は。…今まで魔法の手を抜いていたな?」
言うと、いたずらっぽい目つきでヒルデは笑う。
「私の魔法を舐めちゃいけないよ。その気になれば、十年で完治できたさ」
「…それがどうして、百年までもつれることになったのやら」
「ふふ、何でだろうね」
どこか楽し気にそう言うと、ヒルデは手際よく魔道具を片付け始めた。
見慣れた天幕やテーブル、ボードゲームの数々が、見る見るうちにヒルデの懐に収納されていく。
あんな細身の身体の懐に、一体どういう原理で収納しているのか知らぬが、概ね、空間を司る魔法でも操っているのだろう。
「…もう行くのか」
我が問うと、普段と変わらぬ調子でヒルデは頷く。
「決闘にも色々と準備が必要だからね。なまった身体も戻さなくちゃならないし」
そうしてテキパキと出立の準備を整えていくヒルデを前に、我はただ呆然と見ていることしかできなかった。
決闘はヒルデ自身の問題だ。
我がどうこう干渉できるものではない。
それに元来、竜族と人族は互いの営みに関与しないもの。
この百年が特異だったのだ。
人と竜が同じ食卓を囲み、ボードゲームに興じ、下らぬ話を交わすなど、あってはならぬこと。
百年の間、ヒルデの結界があったからこそ、我は「人」と共に過ごすことができた。
仮に人間と共生していることが竜の長にでも知れ渡れば、どうなることか。
一族から追放され、下手をすれば一族の誇りを穢したとして、屈辱的な刑に掛けられるかも分からん。
程なくして、ヒルデはすっかり準備を整えてしまった。
「ここの結界は、まだしばらく持つと思うよ。イクサに破かれたところも修復しておいたし、あとはあんたの好きな時に出れば良いさ」
そう言って、ヒルデはくたびれたマントを羽織ると、くるりと背を向けた。
見慣れた魔女の背中はいつもよりも、随分と小さく見えた。
「世話になったね」
去り際にそんな台詞を一言吐くと、ヒルデはゆっくりと歩き出した。
離れていくその後ろ姿を見つめながら、我は思わず声をかけてしまう。
「待て、ヒルデ」
「…何だい?」
と、足を止めるヒルデ。
何の考えも無しに呼びかけた所為で、我はそれ以上言葉を続けることができなかった。
しばらく黙った後、ようやく口を開いて出た言葉は、
「世話になったな」
という一言だった。
何と無味な言葉か。
それからヒルデは少し笑みを見せると、確かな足取りで森の中へと消えていった。
――。
(…おかしな奴だった。ヒルデという魔女は)
ヒルデが去ってからというもの、我は洞窟の中で一人、詮無きことを考えていた。
種族の違い、といえばそれまでだが、竜の我からすれば理解しがたいこと、この上ない。
争い、奪い、戦い、血を流す。
そうした、竜にとって誇り高き行為を、ヒルデは嫌う。
最強の力をもってしても、他を支配しようとは微塵にも思わぬのだ。
心底、理解しがたい。
まだ、イクサという男の方が理解できる。
己が欲のために、持てる力を存分に振るい、他者を蹂躙する。
己の力を証明するために。
己の理想を追求するために。
それこそ生きる者の性ではないのか。
強者として生まれた者の宿命ではないのか。
ヒルデのように底の見えぬ力を有り余らせ、隠者のように粛々と生きることは、もはや冒涜的ですらある。
かつて我が己の病弱を呪ったのは、己が秘めたる力を十分に振るえぬことの苛立ち故、だった。
あるいは、他の竜と同じように、他を圧倒し、支配することができぬ羞恥。
その点、ヒルデは力を持ちながら、あえてそれを振るおうとしなかった。
いわば、ヒルデは我と対極に位置する考え方の持主だった。
しかしながら、である。
そもそも、ヒルデは何かを欲していただろうか。
竜すら圧倒し得る力をもってしても、求めるものが無ければ、「力」など無益ではないか。
ふと、ヒルデのことを思い返す。
百年もの間、毎日欠かさず我の治療をしながら、とりとめのない昔話をして、何の役にも立たぬボードゲームに明け暮れていた。
思い返せば思い返すほど、ヒルデという人間が分からなくなる。
ヒルデには欲が無いように見えた。
まるで、全てが満ち足りているような、そんな表情をしていた…。
そこで考えが煮詰まると、我は眠気に襲われ、欠伸をかみ殺した
(…まあ、今となっては関係のないこと。考えたところで、もはや意味をなさぬ。我とヒルデが関わることは、もう二度とないのだから…)
そうして我は考えるのを止め、洞窟から出ると、翼を広げた。
百年の間、住処にしたその洞窟を後にしたのだ。
――。
それから半月あまり、晴れて健康体となった我は、並み居る竜達が抱える縄張りを荒らしに荒らした。
勝負を挑んだ名うての縄張りの長達は、半刻も経たぬうちに我の前にひれ伏した。
いずれの竜も我に傷一つつけることすら叶わず、縄張りを明け渡したのだ。
病弱ではあったが、バハムートの末裔として生を受け、己が力にある程度の信頼を置いていた我であったが、実際に戦い、牙を交えてみると、想像を遥かに上回る己が力に驚き、慄いた。
これが病弱を克服した、本来の我の力であったのか、はたまた、百年にわたるヒルデの治療に、何かしらの強壮作用があったのかは分からぬ。
いずれにしても我は、かつて我が最も望んでいた力を得ていたのだ。
即ち、圧倒的な力をもって、他の縄張りを蹂躙し、我が物とする力。
竜として、これ以上、誇らしく、名誉なことはない。
しかし、様々な竜を抑えつけ、我が下に組み敷く度、我の胸中に湧きあがる感情は、誇らしさでも、歓びでもなかった。
――それは、虚しさだった。
かつてはあれほど願って止まなかった、健全な身体。
今となっては手足の関節は露ほども痛まず、動悸も上がらぬ。
翼も思う通りに動き、噴炎を吐く際、酷い咳に悩まされることもない。
これ以上、文句のつけようのない身体を手にしながらも、心に穴が空いたような気になるのは何故だ。
そう自問自答する度に、脳裏に浮かんでくるのは、百年の間、ともに暮らした魔女の笑みだった。別れ際に見せた、あの寂し気な笑み。
それは、いつまでも我が心に張り付き、いくら振り払おうと試みても、一向に消すことのできない面影だった。
そして、我は己の感情に整理をつけられぬまま、かつて我を小馬鹿にしていた、バハムート族の同胞たちと牙を交えることになる。
――。
竜神の住む谷から南におよそ200里いったところに、この世の活火山の中で最も標高が高く、火山活動の激しいとされるグルド火山がそびえている。
ここグルド火山を中心に、≪竜の長≫たるバハムートが竜の縄張り全土を治めていた。
治めていた、というのも、どうやら我がヒルデと共に洞窟に篭ってすぐ、その栄華は途切れたらしい。
叩き伏せた水竜の長から聞いた話だが、最強と謳われた我が父、バハムートは皮肉にも“病”に倒れ、あっけなく逝ってしまったようだ。
病弱のために一族から蔑まれ、見切られた自分を差し置いて、一族の長である父、バハムートが先に病で死ぬとは。
水竜の長の話を聞きながら、我は運命の皮肉さを感じざるを得なかった。
そして、それから何十年もの間、バハムートの血族や傘下に入っていた竜の間で、次なる≪竜の長≫を決める争いがグルド火山付近で続いているという。
我はゲルド火山の付近にさしかかると、そんな噂話を思い返しながら、突然襲い掛かってきた竜の一撃をかわすと、地面に叩き伏せた。
心を覆う虚しさ故に、闘う目的を失ってしまった我は、何とは無しに生まれ故郷であるゲルド火山の麓を目指して飛んでいた。
(火山に近づくにつれ、竜の気性の荒さが増しているな…)
ほとんど流れ作業のように、竜たちをなぎ倒してきた我は、もはや己の縄張りや強さに対して無関心になっていた。
特に急ぐことも無く翼を動かし、目の前に立ちふさがる竜があれば、倒す。
最初のうちこそ、討ち取った竜が縄張りの長であるのかどうか気になりはしたが、すぐに興味を失った。
今もただ、≪竜の長≫の座を狙わんとする竜達を昏倒させ、黙らせるだけだ。
心に空いた虚を埋めるために、ひたすら蹂躙する。
その行為の先に何があるのか、皆目見当はつかなかったが、この身が赴くまま、流れに身を任せるしかなかった。
そして何体倒したか、分からぬほどに竜を叩き伏せた後、気づけばゲルド火山の麓まで達していた。
生まれてから十数年、幼年時代を過ごした岩屋を見つけると、入り口を覗き込み、遠い昔に思いを馳せた。
(…懐かしい…といっても、さしたる感傷も無い、がな)
この場所には、本当に碌な思い出が無い。
毎日毎日、兄弟からはからかわれ、母竜からは呆れられ、ひとり寂しく岩を這う火蜘蛛や土虫を食べていた。
なぜ自分だけ、こんな惨めな思いをしなければならないのだろう、と毒づきながら。
父の記憶は薄い。
いつだったか、ふらりと巨大な影が落ちたかと思えば、立派な巨体を誇る父が舞い降り、兄弟たちは元気な調子で父の元に駆けていった。
我のことなど目もくれず、元気な子どもたちを誇らしげに一瞥する父。
そういう時、我は、同じ親兄弟なのに、まるで一族の中で我だけがそこにいないかのような錯覚によく陥ったものだ。
思い返してみれば、滅多に姿を見せない父を見る時に、我は最も、己の病弱を恥じ、呪っていたのかもしれない――。
そんな下らぬ反芻に耽っていると、ふと背後に動く気配がした。
「…貴様が、このところ“東”を荒らし回っているという竜か。ついに、≪竜の長≫の座を狙いに、ゲルドの麓まで足を踏み入れたようだな」
我の声も相当に低いが、それに及ぶ重低音と威圧的な調子で語ったその声は、どこか聞き覚えのあるそれだった。
振り返ると、鋭く警戒の色を帯びた眼光が我を見据えていた。
我よりも少しばかり小柄であったが、並の竜よりは大きく、逞しい体つきのその竜の姿は、どこか昔の父を思わせる精悍さをたたえていた。
筋肉は見事に引き締まり、鱗は美しく、白銀に輝いている。
牙を交えれば一筋縄ではいかないことが、すぐに見て取れた。
そして、間をおかずして、その竜が我が弟イグニエルであると気づいた。
イグニエルは我と相対すると、目を見開き、後ずさった。
「…貴様は…いや、そんなはずはない…」
まるで何かに怯えるような表情に変わる弟を見て、我は首を傾げながらも、翼を逆向きにして広げ、竜の流儀にならった、敬意を示す仕草をした。
「久しいな、イグニエル。どうした? 時が経ち過ぎて、我の顔を忘れたか」
言うと、イグニエルはハッとしたように我の顔をしばし見つめた。
それからひとつ頭を振り、かつて我によくそうしていたように、蔑むように目を細めると、顎をしゃくりあげた。
「…ちっ…下らぬ勘違いをした。貴様か、ティアマト。“忌み子”のお前が、今更この地に戻ってくるとは、どういった了見だ」
“忌み子”とは、昔から親兄弟から呼ばれていた蔑称だ。
当時はそう言われるたびに、焼けるような羞恥に身をやつしていたものだが、今となっては懐かしんでしまう己がいた。
「…身体も良くなり、つい懐かしくなったので、立ち寄ってみたのだ。我がゲルドを出てしばらく経つが、ここも随分と変わったな」
「…ふん、病弱なお前のことだ、どこかの地で病に伏せ、くたばっていることだろうと思っていたが、抜け抜けと生きていたか。他の一族衆は皆、偉大なる父、バハムートの名の下、戦場の空を駆けていたというのに…」
イグニエルの言葉を受けて、我はふと、ここに来るまでの道中を思い返した。
そういえば、火山の麓に来るまで同胞とは一切牙を交えていなかった。
襲い掛かってくる竜がいくら烏合の衆といえど、白銀の身体を持つバハムートの一族は嫌でも目につくはずだ。
(ということは…)
「…バハムートの一族は≪竜の長≫の椅子取りから脱落してしまったのか?」
察しての言だったが、イグニエルは吐き捨てるように言い放った。
「…冗談も寝て言え。病弱が過ぎて、頭もおかしくなったのか? バハムートの一族が他の竜族に≪竜の長≫の座を明け渡すことなど、あってはならぬ」
らんらんと光らせた弟の眼が我を射抜くように見つめた。
「今では私が一族の頭として、ゲルドの麓から西方全域を支配している。東方の土臭い竜たちの抵抗もあるが、いずれ東の地も支配し、新たな≪竜の長≫イグニエルの名を世に轟かすつもりだ」
自負心に満ちたイグニエルの言葉から、なるほど、と我は合点がいった。
ヒルデと共に暮らした洞窟はゲルド火山の遥か東の地にある。
さらに東に行けば、人の地へと通じており、いわば人と竜の住む地を隔てる境界に洞窟は位置している。
我はそこを後にし、西へ西へと飛んできたわけだ。
道中、組み敷いてきた竜はどうやらイグニエルが語る「東方の土臭い竜」、すなわちバハムートの一族に対抗して≪竜の長≫の座を狙う竜達だったようだ。
イグニエルの話から、≪竜の長≫を巡った竜族の大まかな勢力図が見えてきた。
ゲルド火山の麓とその西方はバハムート一族が広域の縄張りを占め、東方は「東方の竜」たちが群雄割拠している、という構図だ。
今思い返してみれば、襲い掛かってきた竜達は皆、異様に血走った目で我を仕留めにきていた。
バハムートの末裔である我は、さしずめ、西方のバハムート一族から放たれた刺客か、と思われていたのかもしれぬ。
「…私の話は良い。それでお前は?」
つと、イグニエルが目を細めて我を見据えた。
「どこをどうほっつき歩いていたのか知らんが、今更、懐かしむだけにここを訪れたとは思えんな。よもや貴様、一族の頭である私に取り入って、兄弟の縁から甘い汁を啜ろう、などと思ってはいないだろうな」
脅すような口調でイグニエルは続ける。
久方ぶりに再開した弟からかけられた、思っても見なかった言葉に、我が答えられずにいると、イグニエルは侮蔑をこめた語調で言葉を継いだ。
「…父が亡くなる前、自発的に姿を消したお前に対して、我々一族が抱いた感情が何だったか、分かるか?」
唐突に、イグニエルの眼光が鋭く光り、我を憎々し気に見つめた。
「…安心、だよ。情けない兄が、息子がいなくなって、皆は心底ホッとしたのだ。バハムートの長兄として生まれながら、病弱で何もできず、洞窟の中で縮こまることしかできない“忌み子”がいなくなってくれて、皆は喜び、安心したのだ」
一息に喋ると、最後に、突き放すような冷淡さをたたえた声色で、イグニエルは言い放った。
「つまり、そういうことだ、ティアマト。我ら一族の中に、お前の居場所は無い。すぐにここを立ち去れ。兄弟のよしみとしてできるのは、殺さずにおいてやることだけだ」
(…相変わらず、よく喋る弟だ)
イグニエルの言葉を聞きながら、我は昔を思い返しながら苦笑する。
昔から父や母に対して、何でも話して聞かせようとする弟だった。
いかに自分が、他の兄弟よりも優れているか。
いかに自分が父の後継者として相応しいか。
そんな自己主張が強く、負けん気の一番強い弟が、今では一族の長になっている、という事は、ある意味で必然のように思われた。
「…イグニエル、我は何もまた一族の懐に戻ろうと思って、ここまで来たわけではないのだ。ゲルドを目指したのは本当に思い付きでしかなかった。そこは理解してくれ」
静かにそう言ってから、我はイグニエルを見据えた。
侮蔑的な表情の裏には、一族の長としての責任と矜持が垣間見え、イグニエルの背にかかる一族の責がうかがえた。
かつて父が背負っていたものを、今では弟が背負っている。
そう思うと不思議と笑みがこみ上げたが、我は表情を変えず、弟に言い渡した。
「…しかし、一族の長であるお前に、これだけは言っておかねばならぬ。お前の手を煩わせている東の竜たちは我が壊滅させた。そして、東の地の大部分は、我の縄張りだ」
すると、イグニエルは低く唸り、まさか、と言いたげな視線を投げかけてきた。
「…馬鹿な。東で跋扈している竜達は一筋縄ではいかぬ連中だ。貴様のような出来損ないがどうにかできるような相手ではない…」
イグニエルは困惑の色を浮かべつつも、何か、心当たりのある表情になって、疑わし気に我を見つめた。
その表情が意味するものを大まかに読み取り、我は低い声で言った。
「…お前も先ほど言っていたであろうが。東の縄張りを荒らす竜のことを。それは恐らく、我のことだ」
信じられん、と小さく呟くとイグニエルは目を見開いた。
しかし、目の前にした我の姿を顧みて、自分の兄がかつてのように病弱ではなく、竜としての計り知れぬ力量を秘めている、ということを見て取ると、鋭い牙をむき出しにして、我を睨んだ。
「…仮にそれが真実だとして、どうだというのだ。東の勢力を手にして、≪竜の長≫の座をかけて、我らと争う、とでも言うのか」
イグニエルの言葉を受けて、我はしばし沈黙した。
昔、一族からのけ者にされていた時は、我を見下していた同胞たちを叩き伏せ、次代の≪竜の長≫は己だということを骨の髄まで思い知らせてやりたい、と考えていた。
…しかし、今となってはどうだ。
あれほど憎んでいた弟を前にしても、かつての怨嗟や憎悪は露ほども湧いてこない。
バハムートの末裔であることの矜持や、≪竜の長≫の肩書など、どうでもよくなってしまっている己がいた。
健常な身体を手にして、同胞に対し己が力を見せつける絶好の機会だというのに、我の心は抜け殻のようだ。
(…もはや、すべてが虚しく思える)
イグニエルの問いに答えずにいると、イグニエルの口端がふっと歪み、それはみるみるうちに、どす黒い笑みへと変わった。
「…ふん。愚かな問いだったか。貴様が≪竜の長≫の座を狙っていようがいまいが、貴様が東の地の頭であるならば、我らの“敵”であることに変わりはない」
そして、鈍い咆哮をあげると、背後の岩陰に潜んでいた竜達が次々に姿を現した。
「…それに、何よりも私自身、納得がいかぬ。出来損ないのお前の力が、私たちに比肩する、など考えたくもない。逃がしてやるつもりだったが、気が変わった。お前はここで、殺しておく。そして、私が≪竜の長≫に相応しいことを証明してやる」
冷徹な声色で言い放つと、イグニエルは怒気に満ちた表情で我を見据え、我は静かに迎え撃つ姿勢をとった。
次の瞬間、白銀の同胞たちが次々と襲い掛かってきた。
――。
一族の長である弟と対峙し、我が東の地を占めていることを伝えた時点で、こうなることは分かっていた。
縄張りの頭同士が面と向かい、己の領分をかけて牙を交える。
竜として、これほど真っ当な、そして気持ちが昂る瞬間は無い。
しかし、我の心は氷のように冷え、ここに来るまでに幾度となく味わった虚しさに満ちていた。
相対する竜が、かつて憎んだ弟ならば、少しは気分も高まるか、とも思ったが、胸に広がる空虚さは一向に拭えなかった。
並み居る一族の攻撃を交わしながら、ある時は殴打し、ある時は噛みつき、我はイグニエルの率いる猛者たちを散らしていった。
バハムート一族ならではの俊敏に動く翼は幾度も我の身体を掠め、我の喉元に向かって爪牙が伸びたが、どれも我を捉えることはできなかった。
相当数の竜達を沈めると、しびれを切らしたイグニエルが先頭に出て、勇ましい雄たけびをあげた。
「それでもバハムートの血を引く戦士か! 私が手本を見せてやる…!」
途端にイグニエルは体中を震わせると、青白い光を身に宿し始めた。
すぐにそれが、≪深碧の噴炎≫の構えであると見て取ると、我は少し遅れつつも、噴炎を迎え撃つべく、意識を胆に集中した。
生まれてこの方、病弱故にまともに≪深碧の噴炎≫を放ったことはなかったが、自然と体が反応し、そのまま噴炎の構えに移行したのだ。
始めは弱光だったそれは、目も眩むような青い閃光へと変わり、我とイグニエルは竜の形をした眩い光と変化していく。
ふと、イグニエルの苛立たし気な声が響いた。
「…戦わず、逃げ隠れ、のうのうと生きながらえた、竜の風上にも置けぬ貴様が、私よりも優れているなど、あってはならぬ…そうでなくては、父に会わせる顔が無い!!」
その言葉の端々に秘められた、バハムートの末裔としての誇り、重責を感じながら、我は胸を刺すような、一抹の寂しさを覚えた。
そしてその時に初めて、我は己自身が決定的に、竜としての大事な一部分を失っていることを理解したのだ。
しばし呆然とした我の隙をつくかのように、イグニエルは溜めこんだ力の全てを、我に向けて吐き出した。
轟音と共に襲い来かった熱は、じりじりと我が鱗を焦がし、身の内の全てを溶かすかのようだった。
かつて父が誇っていた≪深碧の噴炎≫にも劣らぬ、その炎にうめきながら、我は身に溜めた力の行き場を失っていた。
(…ここで、弟を倒したとして、どうする?)
≪竜の長≫となり、竜達を治めるのか?
すべての竜の頂点に立ち、我は何ができる?
竜としての生き方も、バハムートの末裔としての誇りも忘れた我に、安寧は約束されぬのではないか…。
――我が最も望むことは何だ?
走馬燈のように思考が駆け、最後に瞼の裏に焼き付いたのは、長年連れ添った魔女の後ろ姿だった。
(…ヒルデの雷の方が、よっぽど痛かったな)
そんな、しょうもない思いが湧いて出た後、我は喉元に堰き止めていた全てを吐き出すかのように、噴炎を放った。
――。
気づけば、目の前は焦土と化していた。
その中に横たわる弟は、身体の端々がただれ、美しく輝いていた翼も、もはや見る影もない。
近づくと、怨嗟に満ちた眼をぎょろりと向け、我を睨みつけた。
その瞳に宿っていたのは恨みだけではなかった。
己の不甲斐なさややりきれなさ、そして、何よりも耐えがたい羞恥。
かつて、我が宿していたであろう、その感情が嫌というほどに伝わり、しばらく、我はかける言葉も見つからず、そこに立ち尽くしていたが、やがて、何かに導かれるように、口を開いた。
「…我の病弱な身体は、とある人間の、魔女の手によって快復した。この百年、我が姿を見せなかったのは、その魔女と過ごし、治療を受けていたからだ」
それから我は、倒れた弟に、我がどのように魔女と出会い、どのように過ごしていたのか、ごく簡単に語って聞かせた。
我自身も何故、このような話をしたのかは分からぬ。
しかし、もはや我の中に竜族と人族の禁忌を犯したことに対する罪悪感や負い目は微塵も残ってはいなかった。
ならば、と吹っ切れた思いが、このような独白になったのかもしれぬ。
ありのまま、自分の境遇を語り、一族と決別しよう。
そんな思いが、我の中にあったのかもしれぬ。
「…交わってはならぬ人間と、共に過ごすなど…貴様はどこまで…」
話を聞き終えると、イグニエルは額の鱗をぴくぴくと震わせた。
イグニエルが次の言葉を言いかける前に、我は弟に背を向け、翼を広げた。
「…一族の掟を犯した我は、もう二度と竜族のもとには戻らぬ。東の縄張りも放棄することになろう」
言って、飛び発とうとした時、我が背に痛切な叫びが投げかけられた。
「待て…! 最後に、聞かせろ…!」
その藁をも掴むような響きに、我はふと、足を止めてしまう。
「…ここを離れて、どうするつもりだ…貴様のような、力を持つ竜が、己の縄張りも持たず、どう生きていく、というのだ…」
イグニエルは振り絞るように、言葉を継いだ。
その語調は羞恥や怒りに加え、ある種の敬意も孕んでいた。
「…悔しいが、貴様を初めに見たとき、我が父バハムートと見間違えた…そして、牙を交えてみて、痛感してしまったのだ…貴様の方が≪竜の長≫に相応しい、と…」
イグニエルの問いにしばし沈黙してから、我は言った。
「…我は、お前の言うような≪竜の長≫に相応しい竜ではない」
それから、倒れた弟にちらと目をやり、静かに苦笑する。
「…というのも、お前と牙を交えている最中に気づいたのだが、どうやら我は未だに病に侵されているらしい」
我の言葉に、額の鱗を歪ませた弟の表情を後目に、我は舞い上がった。
とある偏屈な魔女とその弟子が決闘を執り行う、彼の渓谷に向けて。
――。
ヒルデとイクサが決闘を執り行うアウラ渓谷は、魑魅魍魎の蠢く魔物の巣窟である。
そして、その最奥部に立つ黒柳は、その禍々しさと面妖さから、気味の悪い渓谷の象徴たる大樹として知られている。
魔物の数も多く、凶暴性も高い、そのような地をヒルデが決闘場所に選んだのは、人の営為に被害を及ぼすことを憂慮したから、というだけではあるまい。
弟子のイクサが魔境に足を運ぶのを厭うか、あるいは魔物の妨害によって決闘が中断されるか、といった僅かな可能性にかけていた、というのもあるだろう。
しかし、ヒルデのささやかな希望も叶わなかったらしい。
我が渓谷の奥部に到達したときには、渓谷の其処此処にクレーターのような大穴が空き、周囲に魔物の気配など感じられなかった。
(急いできたものの、決闘の刻はとうに過ぎていたか…)
上空から渓谷を見渡していると、二人の魔術師の姿はすぐに目に留まった。
巨大な黒色の魔力の塊が、白色のそれを圧迫し、じりじりと距離をつめている。
白の魔力を宿しているのがヒルデで、黒が弟子のイクサのようだ。
魔術師同士の決闘は初めて目にするが、竜同士の争いにも劣らぬ緊迫感と迫力がある。
否、最強の魔術師同士による決闘であるならば、それも妥当か。
などと感嘆している間に、黒い魔力から炎の渦が迸り、白い魔力を飲み込んだ。
白い障壁が炎を遮るも、霧散した炎は蛇のような影へと姿を変え、ヒルデに向けて次々と襲い掛かった。
蛇の化身たちはヒルデの足を絡めとると、その体に食らいつき、ヒルデの魔力は目に見えて弱くなった。
途端、我の身体は自分でも驚くほどのスピードで動き、ヒルデに向かっていった。
群がる魔の化身どもを爪で散らすと、苦痛に歪んだ顔のヒルデを抱え、イクサから距離を取る。
咄嗟の出来事に唖然とするヒルデは、自分を抱える我を見上げ、目を見開いた。
「…あんた!…なんで、こんなとこに…」
ヒルデの問いには答えず、我は抱え込んだ魔女の衰弱した様子を見て取ると、内心舌打ちをした。
やはり予期していた通り、ヒルデは自ら攻めず、ひたすらイクサの攻撃に耐えていたようだ。
(…しかし、先ほどイクサがヒルデに向けて放った魔の化身は…)
あれは、魔力を吸い取る力を有していた。
恐らく、イクサの方もヒルデが攻勢に出ないと踏み、ああいった魔法を仕掛けてきたのだろう。
持久戦になることを見越した上で、状況を確実に有利にしていく戦術。
そんなイクサの策にヒルデは見事にはまり、劣勢に立たされているという訳だ。
下らぬ情などに流されず、ヒルデの方から攻めに行けば、このようなことにならずに済んだものを、本当に愚かな魔女だ、と心底呆れてしまう。
(…まあ、我も人のことは言えんがな)
我の心情を察したのか、ヒルデは自嘲気味に、弱々しく微笑んだ。
「…悪いね。チェックメイト寸前で助けられるなんて、情けないったらありゃしない」
「…ふん。貴様というヤツは、いつも詰めが甘いのだ」
イクサの方へ顔を向けると、突然の乱入者に驚いていた様子だったが、ふっと嘲笑を浮かべ、高らかに言い放った。
「これはこれは、いつかの飼い竜でしたか。ご主人のピンチに駆けつけるとは、何と忠実で、立派な竜でしょう。相容れぬ人と竜との絆…素晴らしい限りではありませんか」
長時間、ヒルデと戦っていたはずのイクサの表情に疲れの色は全く見えない。
しばし我はイクサを睨みつけていたが、すぐにその顔から笑みは消え、冷ややかな視線が我を射抜いた。
「…しかし、魔術師同士の神聖な決闘に無粋な横槍を入れるとは、少々躾がなっていないようですね」
すると掌をこちらに向け、巨大な魔の集積を放った。
それは強力な黒い業火となり、我の身体を包み込む。
咄嗟に、我は身を錐揉みのように捻り、空中へと回避した。
空に浮かぶ我を苦々し気に見つめるイクサを見下ろしながら、我は腕の中のヒルデに問う。
「…あの男、殺してしまっては不味いのか」
少々、意地の悪い質問ではあったが、一寸の沈黙の後、ヒルデはため息をついて、答えた。
「…好きなように、したらいいさ。…これはもう、あんたの戦いだろう」
そんな魔女の言いぐさに、我は苦笑してしまう。
相も変わらず、意固地な魔女だ、と。
同時に我は身の内に力を込め始める。
イグニエルとの一戦で要領を得た≪深碧の噴炎≫を、今再び放たんと身構えた。
光を帯びていく我の姿に、イクサは面食らいつつも、この光が意味することを察すると、魔力を解放し、強力な障壁を展開し始めた。
収束する我の覇気とイクサの魔力によって地鳴りが起き、静かに、辺りを震わせた。
と、息を詰めた瞬間。
我は咆哮と共に、胆に込めた熱を吐き出した。
それはイクサの展開した黒の障壁にぶつかると、眩むような閃光を迸らせ、即座に貫いた。
イクサの悲鳴が響き渡り、瞬く間に鈍い衝撃と噴煙が周囲に広がった。
「…あんた…いつの間に、そんな馬鹿げた力を…」
「…何度も言っていたであろうが。我は≪竜の長≫として竜を束ねた、バハムートの嫡子だと」
絶句するヒルデをよそに、我は静かに大地へ降り立った。
噴煙が吹き荒れる中、我の腕の中で、ヒルデは息を呑むように眼前を見据えている。
辺りが静まり返り、煙が引くと、更地になった中心に襤褸切れのようになったイクサの身体が横たわっていた。
近づき、身体を仰向けにさせると、そこかしこから血を流し、ぴくぴくと痙攣しているが、息はしている。
それを見て心なしかホッとした様子のヒルデを横目に見遣る。
噴炎の威力はイクサを即死させぬ程度に調節した。
不器用な魔女への、我なりの心遣いのつもりだったが、それは功を奏したようだ。
やれやれと思いつつ、我はイクサの意識を戻すため、ヒルデに水を呼ぶ魔術を頼んだ。
間もなく、空から水がしたたり落ち、イクサの顔を覆うと、息を吹き返したようにイクサは咳き込んだ。
悶えるイクサを見下ろしながら、我は大仰に言い放った。
「…貴様がヒルデの心臓を狙うのは勝手だが、ヒルデの脇には我がいることを、ゆめゆめ忘れぬことだ」
呆然とするイクサに威嚇するような重低音で唸ると、びくっと身をすくませた。
先ほどまで優越に浸っていた表情はいまや血の気が引き、目前に迫っている死の恐怖に満ちていた。
そんな委縮したイクサの顔を一瞥すると、我は身を翻し、翼を広げた。
そして、最後の一押しとばかりに、横目でイクサを睨みつける。
「次に相見えたときは、先ほどの十倍の威力をお見舞いしてやるぞ。…まあ、我らに追いつくことができたら、の話だがな」
腕の中の魔女をしっかりと抱え、翼を大きく振るうと、我は勢いよくその場を飛び発った。
それから力の限り翼を動かし、ひたすら飛び続けた。
≪竜神の住まう谷≫を越えた先、誰も踏み入れたことのない、人と竜の世から断絶した、最果ての地を目指して。
――。
「…一体、何だって私のことを…あれほど執着してた縄張り争いは、どうなったんだい?」
陽が落ちかけ、紅色に染まる空を飛んでいると、ヒルデが問うてきた。
「…全て片をつけてきた。自慢ではないが、実質、我は竜族の縄張り全土を手中にしたのだぞ」
「…へえ。…といっても、その凄さもよく分からないんだけどね」
「…ふん。貴様のような魔女風情には分からぬだろうよ」
「…はは」
乾いた笑いをたてると、落ち着いた声でヒルデは言った。
「…あいつを殺さないでいてくれて、ありがとう」
腕の中、その顔を見て取ることはできないが、恐らくこの百年、かつて見たことの無いほど、穏やかな表情をしているであろう魔女を思いつつ、皮肉な調子で言い返す。
「…貴様には引き続き、我の治療してもらわなければならぬからな。…より一層、働いてもらうことになるぞ」
「…治療? 何を言ってんだい。あんたの身体はすっかり治って、契約ももう…」
「…身体のことではない。契約は続行だ。嫌とは言わせんぞ」
「…は? そいつは一体、どういう…」
ヒルデの言葉に我は苦笑する。
しかし、我はそれ以上は何も言わずに、ただ翼を動かした。
訝し気に首を捻るヒルデを腕に感じながら、我は北へ北へ、誰にも邪魔されぬ地を目指して、飛んだ。
さすがに、言えぬか。
我の心に巣食ったこの「病」は、ヒルデにしか癒せぬ、とは。