風のエルフィー
エルフィーは、元気いっぱい、いたずら好きの風の精霊の子供です。
木の側を駆け抜けて枝を大きく揺らしたり、道を歩くお姉さんのスカートのすそをはためかせて驚かせたり。毎日、そんなことをして遊んでいます。
ある日のこと。赤く色づいたケヤキの木がエルフィーの目に止まりました。
(今日は、あのケヤキの葉っぱを落としてやろう)
エルフィーは勢いをつけてケヤキの木をぐるりと一周しました。ザワッと葉擦れの音がして、赤い葉がヒラヒラと舞い落ちます。
「わああ。葉っぱが降ってきたあ」
小さな子供の声がしました。エルフィーが小首を傾げて木の下を覗くと、小さな男の子が両手上げて全身で葉を受けていました。その表情はとてもキラキラしていました。きっとこの家の子供でしょう。
「もっと、もっと」
もちろん、エルフィーが起こした風が原因で葉が落ちたことなど知っているはずはありません。しかし、男の子がケヤキの葉が降ってくる様子を楽しんでいることは明らかっだたので、エルフィーは楽しくなって二度、三度とケヤキの周りを飛びました。そのたび男の子ははしゃぎまわりました。
調子に乗ったエルフィーのせいで、ケヤキの葉は一気にその数を減らしてしまいました。
次の日、エルフィーは、またあのケヤキの木のある家にきていました。ケヤキは前の日と比べるとずいぶん寂しくなっています。さすがにやりすぎたかな、と思い、今日はそっと枝に降りました。それでも2、3枚の葉がひらりと落ちました。
今日、その葉の下にいたのは子供ではなく大人の女の人でした。あの子供のお母さんです。
お母さんは手のひらで葉を受け止めると、何か憎らしいもののように、ぐしゃりと握りつぶしました。
「何で…」
小さな、小さな声でした。エルフィーはよく聞こえなくて耳に手をかざします。
「何であんなこといってしまったのかしら…!」
それは、とても悲しそうな声でした。少し怒ったようにも聞こえます。
「この木の葉がみんな落ちたら、お父さんが帰ってくるだなんて…。そんな可能性どこにもないのに…ッ」
一瞬、ドキン、と胸が鳴りました。何か自分がとんでもないことをしたような気分になって、エルフィーはケヤキの枝を蹴って空へ飛び立ちました。
それからエルフィーは仲良くしている雀のチュチュンを捜しました。チュチュンはこのあたりのことをよく知っています。エルフィーが知りたいと思っていることを教えてくれるに違いないと思ったのです。
でも、今日に限って姿が見えません。どうしよう、と唇をきゅっとかみしめたとき。
「いたずらぼうずじゃないか。どうした、こんなところで」
「あ、ノワールさん!」
カラスのノワールでした。ノワールはチュチュンより広い範囲で行動しており、ずっと頭もいいのです。何より、とても長生きです。
エルフィーはノワールにケヤキの木の家のことを尋ねてみました。ノワールは近くの電線に止まると、くちばしでちょいと合図しました。エルフィーがノワールの横に座ると、彼は教えてくれました。
ケヤキの家のお父さんが交通事故に遭って頭を強く打ってしまったこと。
もう2ヶ月以上も目を覚ましていないこと。
子供にお父さんはいつ帰ってくるのかと泣きつかれて、お母さんは、つい、ケヤキの木の葉が全部落ちたら帰ってくるなどと気休めをいったこと。
ノワールの話が終わるころには、膝の上に置かれた小さな拳は手のひらに爪が食い込むくらいかたく握りこまれていました。お母さんは、きっと、ケヤキの葉が落ちるまでにこの状況を何とかしようと考えていたに違いありません。しかし、急激に葉が落ちていくのを見て、いってしまった言葉を後悔することくらいしかできない自分に絶望的な気分になってしまったのでしょう。
エルフィーは、遊び半分で、お母さんの大事な大事な時間を奪ってしまったことに気づいたのでした。
「兄さま! 兄さま、どこ?」
雲の上の風の神殿に戻ったエルフィーは兄のカッツェを捜しました。エルフィーは風の国の王様の10人いる王子や姫の一番末っ子でした。カッツェは一番上の王子です。
小さなつむじ風とともに兄のカッツェが現れました。エルフィーはカッツェの体に飛びついてしがみつくとワンワン泣き出してしまいました。
ちょっとびっくりしましたが、カッツェは優しくエルフィーの体を引きはがすと膝をついて目線の高さを合わせ、尋ねました。
「どうした? 何があったんだい?」
「あのね。兄さま、あのね…」
エルフィーは自分の犯してしまった過ちを話し、何とかしてほしいとお願いしました。カッツェは大人の風の精に混ざっていろんなお仕事をしていたから、何か方法があるかもしれないと考えたのです。
しかし、カッツェは静かに首を横に振りました。
「いいかい、エルフィー。落ちてしまった葉は元には戻らない。その人間のお父さんのことも風の僕たちには何もしてあげられない」
「どうしても…? 兄さまでも無理なの…?」
カッツェは、自分どころか、王である父でも、できることはないときっぱり告げました。エルフィーの瞳から新しい涙がぽろぽろとこぼれます。カッツェはその涙をそっと唇で吸い取ると弟の小さな体を抱き締めました。
「つらい思いをしたね。これにこりたらあまりいたずらするのではないよ」
エルフィーはただ小さく頷くことしかできませんでした。
エルフィーはそれから毎日ケヤキを見にいきました。エルフィーが近づかなくても葉は確実にその数を減らしていきます。
「ケヤキのおじさん」
「やあ。ちびっこ。今日もきたのかい?」
毎日訪れる風の精霊に、ケヤキは明るい声でいいました。エルフィーがケヤキに自分がしたことを謝ってからは、こうやってちょくちょく話をするようになっていました。
ケヤキはエルフィーのことを叱ったりはしませんでした。エルフィーが葉を落とさなくても、冬を乗り切るためにどうしても葉は落ちるのです。それはケヤキがいくら頑張ったところでどうしようもないことだったのです。
ケヤキもお母さんに考える時間をあげるために、できることなら少しでも長く葉を残しておきたいと考えてはいました。しかし、風の精霊たちと同様に自分の役割を超える行動は取れないのです。
ケヤキは、この家のお父さんが生まれた朝に、お父さんのお父さんがここに植えたものでした。それからずっと一緒に大きくなっていったのだと話してくれました。
「もう絶対に目を覚ますことはないのかな」
「お医者の先生に奇跡を待つしかないっていわれたそうだよ」
「奇跡…。起きると思う?」
「信じて待つさ」
信じて待つ。そしてその奇跡の端っこでもいいから自分も関わりたいとケヤキはいいました。
それから数日後、エルフィーがきたときには、ケヤキの葉は残り1枚になっていました。エルフィーはその1枚を飛ばしてしまわないよう遠回りして枝に足をつけました。
ふと家の方を見ると窓ガラス越しにお母さんの姿がありました。たった1枚残った葉をじっと見ていました。
エルフィーは、今日はずっとここにいようと考えました。この1枚が落ちるのを見届けようと思ったのです。夜になって暗くなっても神殿には戻らないつもりでした。しかし、それほど待つ必要はありませんでした。
何の前触れもなく最後の葉は枝から離れ、くるくると回りながら落ちていきました。地面につくまでの間がとてもとても長く感じられました。エルフィーはお母さんに視線を向けました。
お母さんは泣きそうな顔で落ちた葉を見つめています。そして、ぎゅっと目を閉じました。多分、お父さんは帰ってこないのだということをどうやって子供に説明しようか考えているのでしょう。
「ちびっこ」
「なあに? おじさん」
「ちょっと、離れた方がいい」
「え? どういうこと?」
下の方でピシッと小さな音がしました。そして、また。
「おじさん!」
「あぶないからさがりなさい」
「でも…!」
ひときわ大きく乾いた音が響きました。その音はケヤキの木の根元から発生したものでした。そして、そこからビキッと亀裂が入ると、ケヤキはゆっくりと倒れていきました。家を傷つけないように、他の草木を傷つけないように、そしてエルフィーに当らないようにゆっくりゆっくりと倒れていったのです。
「おじさん!」
「お別れだよ、ちびっこ。元気でな」
「どうして? なんで? おじさん!」
ケヤキは何十年、何百年と生きる木です。30年やそこらで倒れてしまう木ではありません。
お母さんもびっくりして身動きできずにその光景を眺めていましたが、はっとしたように窓を開け、ケヤキのそばにこようとしました。そのとき、家の中の電話が鳴りました。お母さんはちょっとためらったようにケヤキにちらりと目をやりましたが電話の方を選びました。
ほどなくお母さんの大きな声が聞こえてきました。
「本当ですか? 本当に主人が目を覚ましたんですか? 行きます! すぐに行きます!」
奇跡が起きたのです。もう目を覚まさないと思っていたお父さんの意識が回復したと病院から連絡があったのです。
喜ばしいことなのに、今のエルフィーには何がどうなったのか理解できません。倒れてしまったケヤキにそっと触れました。
「おじさん…。おじさん…」
何度も何度もケヤキを呼びましたが、ついに返事はありませんでした。
泣きはらした瞳で神殿に帰ってきたエルフィーを待っていたのはカッツェでした。両手を差し出した兄はそのままエルフィーを軽々と抱き上げると歩き出しました。
「どこへ行くの?」
「おじい様がエルフィーに話があるって」
おじい様とは先代の風の王様です。一番奥のお部屋で静かに過ごしていました。
大きな扉を押し開けて、ふたりはおじい様のお部屋に入りました。
「おお。エルフィー、こちらへおいで」
おじい様はしわの刻み込まれた優しい顔でエルフィーに手招きしました。このおじい様は、孫の中で一番小さなエルフィーが大のお気に入りだったのです。もちろん、エルフィーもおじい様のことが大好きでした。
「おじい様。お話ってなあに?」
「ケヤキのおじさんのことじゃよ。エルフィーが悲しんでいるのではと思ってな」
おじい様はすべてお見通しのようでした。実はカッツェが話していたのです。何もしてあげられないといいながらも、エルフィーがかわいそうでおじい様に相談したのでした。
おじい様はかわいいエルフィーのために古いお友達、命を司る双子の王たちにお願いしてくれたのです。生を担当する始まりの王には、人間のお父さんが目覚めるための生命エネルギーを少し余分に送り込むことなどたやすい話でした。しかし、その余分なエネルギーをどこからか調整しなくてはいけません。そこで死を司る終わりの王が使い魔を出し、そのエネルギーを提供してくれるものを捜しだしました。
そう。ケヤキの木です。ケヤキが自分のエネルギーを使ってほしいと願い出たのです。
え? 人間を助けるのに木のエネルギーで大丈夫なのかって? もちろんですとも! どの命も同じ命なのですから。
そうして、ケヤキは倒れ、お父さんは目を覚ましたのです。
エルフィーはまた泣きました。でも、今度の涙は喜びも交じっていました。だって、ケヤキはいっていたじゃありませんか。もし奇跡が起こるなら自分も端っこでいいから関わりたいと。端っこどころか奇跡の中心そのものです。おじさんがいなくなってしまったことは悲しい出来事ではありましたが、悲しみだけで心をいっぱいにするのは間違っているような気がしました。
「おじい様! ありがとう!」
エルフィーはおじい様の首に腕を巻きつけて感謝の意を表しました。おじい様は小さな背中をポンポンと叩いて満足げに頷いています。
しかし、エルフィーが可愛いからといって甘やかすだけではありませんでした。
おじい様は、エルフィーのいたずらをたしなめました。そして、大人たちやカッツェにはそれぞれ分担があり必要に応じて必要な分だけ風を起こしているのだと説明しました。だから、いたずらして大きな風を起こしたりしてはいけないと注意しました。
エルフィーは素直に頷き、右手を顔の横に挙げておじい様にもう二度といたずらしないことを誓いました。
おじい様は目を細めてエルフィーの頭をなでてくれました。
その夜は、カッツェが一緒に眠ってくれました。しっかりと手を握ってくれていたおかげで、悲しい夢は見ませんでした。
窓の向こうでは、3つの笑顔がはちきれんばかりに輝いていました。元気になったお父さんが家に戻ってきていたのです。エルフィーはそんな様子をもともとケヤキが立っていた位置から見ていました。
倒れたケヤキはすっかり片づけられぽっかりと空間がありました。土もきれいにならされています。そのならされた土の上に細い木が飛び出していました。よくよく見るとケヤキではありませんか。
エルフィーは知る由もありませんでしたが、終わりの王がエネルギーを少し残してくれていたのです。そこからケヤキはまた根付きだしていたのでした。何年もかかるだろうけれど、ケヤキは元の姿に戻ることができるのです。
(おじさん。よかった…!)
エルフィーは嬉しくて自分が出せる最速で飛んで回りたい気分になりましたが、おじい様との約束をちゃんと覚えていたので、そーっと、そーっと、その場を離れました。
そして、少し高い場所までくると、影響を与えるものが何もないことを確認し、くるくると踊るように青い澄み切った空を舞い上がっていきました。