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彼女がおかしくなったのは誕生日からだ。
俺達が出会ってから、ちょうど三ヶ月目が彼女の誕生日だった。
その日俺達は、ギリシャ神話の魔女から名をとったというレストランで食事をしていた。
グラスワイン一杯で、ほんのりと色づいた彼女の白い頬を見ているうちに、俺はとうとう我慢ができなくなった。
足元のビジネスバッグを引き寄せる。中からきれいにラッピングされた、小さな箱を取り出し、彼女の前に差し出した。
「誕生日おめでとう」
食後のコーヒーを飲んでいた彼女の口が、「え」のまま動きを止めた。
「今日、君の誕生日だろ。プレゼント」
「どうして……」
「俺が君の誕生日を知っているか、ってこと?」
彼女が小刻みに頷きを繰り返す。
俺は少しだけ口元を引き締めて、背筋を伸ばした。
「君の事は何でも知っておきたい。そう思っていれば、誕生日のことぐらいすぐにわかる」
さすがに、少し気障だったか。俺は照れを隠すために、「ほら、とって」と少し強引に箱を彼女に押し付けた。
「あ、ありがとうございます」
彼女の白く華奢な手が、赤いラッピングの上に添えられた。
「でも、本当によろしいのですか?」
申し訳なさそうに、上目遣いに俺を見る。
彼女は、俺にとってほぼ完璧な女性だ。ただ唯一の欠点はこういうところ。いつまでも、他人行儀を直そうとはしない。でも、それも含めて、俺は彼女に惚れているのかも知れない。
「いいに決まってる」
少しだけ、ぞんざいに言う。
「ありがとうございます。あの、開けてもいいですか」
俺は鷹揚に頷き、コーヒーカップを手にした。
丁寧に包装を解き、彼女が箱の蓋を開けた。
どのような反応をしてくれるのか? 少し緊張して彼女を見つめる。
「これは……」
そして彼女は、そのアーモンドのような大きな瞳を俺に向けた。
「君に似合えばいいけれど。店員さんに相談したら、それを選んでくれた」
少しだけ嘘が入っている。相談したのは事実だが、最終的に選んだのは俺自身だ。
コーヒーカップに目を落とし再び彼女に視線を戻した時も、彼女の双眸は俺に固定されたままだった。
その瞳は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
※
その日は、レストランを出たところで、彼女とは別れた。どうしても帰宅しなければならない用事があると、申し訳なさそうに俺に何度も頭を下げて、彼女は地下鉄の階段を降りていった。
スプリングコートを羽織ったいつもより少しだけ足早の小さな後ろ姿が、不安定に左右に揺れて……愛おしさが益々募った。
だがその日を境に、彼女の態度が突然変わった。
直接会って話をしていても、どこか会話は事務的で決して俺の目を見ようとはしない。
会えない時間を埋めるための電話には全く出なくなった。メールを送っても梨の礫。
食事の誘いも、何かと理由をつけ婉曲に断られるようになった。
――どうした? 彼女に何があった?
「何が君を悩ませている?」
そう訊く暇すら、俺には与えられなかった。
俺の頭の中で、着地点を見出せない疑問が際限なく膨らんでいった。そして、その膨張した疑問の先端は、とうとう彼女に対する疑いにまで到達してしまった。
――誰か好きな人ができたのでは?
考えたくはなかったが。
一度喚起された疑いは、真夏の入道雲のように堆く積み重なり、仕事中でも俺の思考を妨げるようになった。
既に誰もいなくなった夜中のオフィスで、引き出しの中の書類やメモ用紙を机の上に広げながら、俺の想いは彼女の上にあった。
――なぜ彼女は、おかしくなってしまったのだろう?
突然ドアが開き杉内が現れた。まだ入社三年目のひよっこだ。
営業のイロハもわかっていないくせに、何かと俺の仕事の仕方に疑問を投げかけてくる生意気な奴だ。
そして、杉内の後ろには何故か新入社員の美鈴が続いていた。色白の顔がほんのりと赤く上気しているようにも見える。
杉内は俺に気付くと少し慌てたようだったが、逆に俺に対し、訝しげな視線を投げかけてきた。
「あれ、神林さん。……何を?」
「ああ、ちょっと」
俺は曖昧に返事をし、机の上を片付け席を立った。
「お先」
心の疲れに支配された俺の声に対する返事はなかった。
杉内も美鈴も、ただ俺を黙って見つめていた。
――そうか、今の俺は、奴らの目にも、それほどまでに憔悴し切っているように映るのか。
オフィスのドアが、妙に重たく感じられた。
※
おれの焦燥は極限にまで高まっていた。
そして俺は、今更ながらに臍を噛んでいた。
――彼女について俺は、ほとんど何も知らなかった。
知っているのは、出身地、家族構成、卒業校、生年月日、そして現住所。ただそれだけだ。
好きな歌も、花も、季節も、星座も、色も香水も……何一つ知らない。
俺はいったいこの三ヶ月の間何をしてきたのだろう?
彼女のことを本当に知ろうとしたか?
その想いに近づこうとしたか?
彼女の無言のサインを読み取ろうとしたか?
そのサインを見過ごすことで、彼女がどれだけ苦しむかを考えたか?
その結果、俺以外の誰かに縋りつかざるを得ない彼女の心痛を想ったか?
スコッチのロックグラスを傾けながら、俺はバーカウンターの上で拳を握った。
胸が震えた。
それが携帯メールの着信を報せる振動であることに、暫く俺は気付かなかった。
――誰だ今頃?
時刻は既に一時を回っている。
スーツの胸ポケットから取り出した携帯の着信画面を見た俺の目が瞬間凍結した。
彼女からだ。彼女からの初めてのメールだった。
震える視線で文字を追う。
<凄く困っています。明日、お会いできませんか>
その短い文章を読み終える前に、俺はスツールから立ち上がっていた。
彼女が一人暮らしをしているマンションには行ったことはない。しかし、住所はしっかりと記憶している。
三階建ての、小さいが瀟洒なマンションの前でタクシーは止まった。
オートロックのため、エントランスの自動ドアは閉鎖されている。
203 それが彼女のルームナンバーだ。
俺は迷うことなく、パネルで彼女の部屋番号を押した。
数秒後に小さな声の応答があった。
「神林です。君のことが心配で」
一瞬、パネルの向こうで息を飲む気配がした。だが、それきり音声は途絶えた。
――どうした。彼女に何があった?
パニック寸前だった。
それから俺は何度も203を押し続けた。
パネルを叩き続けた。しかし再びパネルの向こう側の声が蘇ることはなかった。
ふと俺の目が、エントランスサイドに設えてある小さな花壇に吸い寄せられた。花壇の上に無造作に置かれた赤いレンガに。
約十五分後。マンションの前に一台の車が静かに止まった。
助手席から降りてきた制服姿の男を確認した俺は、砕けそうになった下半身を、ドア枠に凭れることで漸く支えることができた。
「警察です」
その声がどこか遠くから聞こえてきた。
※
「もう一度確認しますけど、神林は、あなたの職場の直属の上司ということですね」
「はい、今年に入ってすぐ、三ヶ月前に私が異動して、神林課長の下で働くことになりました。それからは、ほぼ毎日二人で営業回りをしています」
「それで、彼がセクハラ紛いのことを始めたのが、約二週間前だと」
「それまでも、得意先から社に戻らずに、夕食に誘われることが頻繁にあったのですが……私が断ると課長、物凄く、何ていうか……落ち込む表情をされるので、なかなかお断りすることもできず……でも『おかしいな』とはっきりと感じたのは二週間前、私の誕生日でした」
「もしよろしければ、何をされたのか、具体的にお話頂けますか」
「はい……あの、その日も二人で夕食を食べました。そして食事の後、課長が私に誕生プレゼントを下さったのです。でもそれが……」
「それが?」
「……下着、つまりブラとショーツで。しかも何と言うか、その」
「際どいタイプのやつだったのですね」
「あ、はい。それで、私凄く怖くなって。課長が何を考えていらっしゃるのか。あの眼鏡の奥の目で、私のことをどのように見ているのか。……涙を堪えるのが精一杯で」
「当然ですね。神林は四十一歳で独身らしいですね。まあ、あなたのような若くて美しい女性を前に、舞い上がる気持ちもわからなくもないですが、部下に突然下着を贈るのは、やはり普通ではありませんな」
「はい。なので、その日以降、できるだけ課長とは仕事以外のお付き合いはしないように、会話も仕事のことだけをするように努めていたのですが、……それがよくなかったようで。毎日何十件も携帯電話やメールにメッセージが入るようになって」
「どのような」
「君のことがとても心配だ……みたいな」
「なぜあなたのことが心配だと?」
「わかりません。でも一度でも返信すると、また課長に変なことをされそうな気がして、私、怖くて何も返せなくて……でもそれで、あんなことに」
「昨晩のことですね」
「はい。課長、会社で私のデスクの引き出しを開けて、中のものを勝手に覗いていたらしいんです」
「それをあなたが知ったのは?」
「たまたま、私の同期の男性社員が、その現場を目撃して、私に電話をくれたんです。それで、彼に相談したら、課長にはっきりと、私の気持ちを伝えるべきだと」
「だからメールをしたんですね、神林に」
「はい。困っています。だから明日お会いしたい、って」
「なるほど」
「会社以外の所でお会いして、はっきりと『迷惑です』と伝えるつもりでした」
「わかりました」
「あの、課長は、どうなるのでしょうか」
「マンションのオーナーが告訴をすると言っています。レンガで新築マンションのドアを叩き割られたら、そりゃ怒りますよ。まあ、その告訴を取り下げない限りは、神林は何らかの刑事罰を受けることになるでしょう。いずれにしても、御社には警察から連絡を致します。」
※
ワイングラスを合わせる音が、丸天井の店内に静かに響いた。
「それにしても、こんなに上手くいくとはな。お前の計画凄いわ。ツンデレならぬ、デレツン作戦。デレッとした後のツンは、確実にオタクを殺す」
杉内は薄く笑って、ワイングラスに口をつけた。
「まあね、私も少しばかり驚いた。想像以上の課長の単純さに」
白く華奢な右手で掴んだグラスの中の赤が、間接照明の暖色の灯りを吸収して、艶めかしく膨らむ。
「でもお前、よくあんなコカマキリみたいな気持ち悪い奴と、何度もデートしたな」
「そのうち食い付くから、暫く我慢して付き合えって、発破をかけたのはあなたじゃない」
ハイヒールの先で、ズボンの上から杉内の引き締まったふくらはぎを、ゆっくりとなぞる。
「でも、単に『きもい』っていう理由だけで、四十過ぎの男を無職にしちゃったのは、ちょっとだけ後悔」
『後悔』の言葉尻が上がっている。つまりは、後ろめたさなど全く感じていないということだ。
「はっは、バカ。この時代『きもい』は『うざい』『さむい』に並ぶ、立派な異分子排除要因なんだよ。それに神林は俺にとっては、その三要因を全て含んでいた。パージされるのは当然だ」
「それもそうね」
「それにしてもこの店、お前の誕生日に、神林と来た店だろ。こんなおしゃれな店、よくあいつ知ってたな」
「私があの日、ここを選んだの。課長が私の誕生日を見逃すはずはない、ここできっと動いてくる、と思っていたから」
そしてグラスに口をつける。たちまち、女の透けるように白く細い頸に、微かな朱が点る。だが杉内の目には、ワインがそのまま女の首筋を伝わり流れているようにも見えた。
まるで生き血のように。
「最後に救いの手を差し伸べてあげたの。課長はそれを掴み損なったけれど」
女の声色が変わる。低く静謐な響きに。
「救いの手って……どういうこと?」
「このお店の名前ね『メディア』っていうの。ギリシャ神話に出てくる魔女の名前」
「……それが?」
「メディアはね、恋のために父親から逃れ、弟を刺し殺した裏切り女の象徴なの」
「……裏切り女の象徴」
「そう、でも課長はせっかくの私のサインに気付きもしなかった。私を従順な女だと信じて疑わなかった。きっと今でもね。――でもね、それだけじゃないのよ」
女はメンソールの煙草に火をつけると、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。
「メディアはね。父を裏切ってまで結ばれた男に去られると、その男の愛人ばかりか、男と自分との間に出来た子供までも殺してしまったの。男に復讐するために」
「…………」
そして、女は妖艶な笑みを杉内に向けた。
「あなた、あの日、美鈴ちゃんと何をしていたの?」
< 了 >