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婚約破棄された令嬢の専属侍女ですが、辞職願を出したら王宮が回らなくなったそうです

掲載日:2026/06/16

 辞職願というものは、人生で何度も書くものではない。だからわたくしは、便箋を選ぶところから始めた。王宮御用達の上質紙。にじまない墨。教本通りの書式。


『一身上の都合により、退職いたしたく――』


 一身上の都合。便利な言葉である。その中身が「仕えるお嬢様が王子殿下に婚約破棄されたので、隣国までお供するため」であっても、紙の上では六文字で済む。


 わたくし、マーサ・リンデン。平民出身、三十二歳。グランフェル公爵令嬢エリーゼ様の専属侍女として王宮に出入りして十年。


 その十年の終わりは、三日前の夜会だった。


 ◇


「エリーゼ・グランフェル! 貴様との婚約を破棄する!」


 大広間にレオナルド王子殿下の声が響いたとき、わたくしは壁際の侍女待機位置で、お嬢様の上着を抱えて立っていた。


「私は真実の愛を見つけた! ソレイユこそ、飾らない、ありのままの女性だ! 貴様のように完璧ぶった退屈な女とは違う!」


 殿下の隣で、男爵令嬢ソレイユ様がはにかんでおられた。


 会場がざわめく。皆がお嬢様の反応を待つ。泣くか、叫ぶか、卒倒するか。


 お嬢様は、扇を一度だけ閉じて、こう仰った。


「承知いたしました。婚約解消の手続きは、両家の代理人を通じて行います。――マーサ、帰りますよ。明日は早いの」


 それだけだった。十年お仕えして、わたくしはこの瞬間のお嬢様がいちばん公爵令嬢らしいと思った。


 帰りの馬車で、お嬢様はぽつりと仰った。


「マーサ。わたくし、隣国のおば様のところへ行きます。あちらで仕事を探すわ。……あなたは王宮勤めを続けなさい。あなたほどの人を、わたくしの都合で連れて行くわけには」


「お嬢様」


 わたくしは、抱えていた上着のしわを伸ばしながら申し上げた。


「わたくしの雇用主はグランフェル家であって、王宮ではございません。それに――完璧ぶった退屈な女には、完璧ぶった退屈な侍女がちょうど釣り合いますわ」


 お嬢様は、婚約破棄の場でも見せなかった涙を、少しだけ見せられた。


 ◇


 さて、誤解のないように申し上げておくが、わたくしは復讐などしていない。神に誓って、何も。


 わたくしがしたのは、二つだけ。

 辞職願を出したこと。

 そして、引き継ぎ書を「きちんと」書いたことである。


 三百二十頁。式典の手順、物品の管理、洗濯場と厨房の連絡系統。書けることはすべて書いた。後任の方が困らないように、心を込めて。


 ただ――紙に書けるのは、手順だけなのだ。


 たとえば、夜会の席次。手順書には「序列に従い配置」とある。正しい。だが、ベルモント侯爵夫人とロズリーヌ伯爵夫人を同じ卓に置いてはならないことは、どの帳面にも載っていない。二十年前の舞踏会で、亡き先代侯爵が伯爵夫人に求婚して断られた件があるからだ。これは記録ではなく、記憶である。


 たとえば、王妃陛下の偏頭痛。発作の前日、陛下は決まって柑橘の香りを嫌われる。給仕の手順書に「香りの強い花を避ける」とは書ける。だが「陛下が橙のジャムを残された朝は、午後の謁見を短く組み直すよう侍従に耳打ちする」とは、書けない。書けば不敬になる。だから、しない。するのではなく、気づくのだ。


 たとえば、貸し借り。社交界は貸し借りでできている。誰がいつ誰の娘の縁談に口を利き、誰がどの醜聞を握りつぶしてもらったか。夫人方はそれをご自分では決して口にされない。代わりに、侍女に「それとなく」言わせる。その「それとなく」の宛先と順番と言い回しが、王宮の血流だった。


 わたくしは十年、その血流の交差点に立っていた。立とうと思って立ったのではない。お嬢様が次期王妃でいらしたから、すべてがわたくしを通っただけのこと。


 退職の挨拶回りで、侍女頭が笑って仰った。


「マーサがいなくなるのは痛いけれど、まあ、侍女が一人辞めるだけですものね」


「ええ」わたくしは深くお辞儀をした。「侍女が一人、辞めるだけでございます」


 本心からそう申し上げた。わたくしの代わりなど、いくらでもいる。

 ――ただし、育てるのに十年かかるだけで。


 ◇


 隣国での暮らしは、拍子抜けするほど順調に始まった。


 お嬢様のおば様、先代国王の妹君でいらっしゃるマルグリット大公妃殿下は、お嬢様の顔を見るなり「いい目をしているわ。泣き腫らした目じゃなく、帳簿を睨んできた目ね」と仰って、王立学院の運営改革をぽんとお任せになった。


 お嬢様は水を得た魚だった。三月で学院の経理の穴を三つ塞ぎ、半年で平民向け奨学金の制度を作られた。「婚約者教育で覚えたことが、ぜんぶ役に立つのよ。皮肉なものね」と笑うお嬢様は、王宮にいた頃より十も若く見えた。


 わたくしはといえば、相変わらず侍女である。ただ、大公妃殿下の茶会の席次を一度組み直して差し上げてから、なぜか妃殿下のお茶会の相談が毎週来るようになった。職業病というものは、国境を越えても治らない。


 そして秋口から、故国の元同僚――洗濯場のころからの友人で、いまは侍女頭付きをしているアンナの手紙が、届くようになった。


 ◇


『親愛なるマーサへ。


 大変。先週の建国記念夜会で、ベルモント侯爵夫人とロズリーヌ伯爵夫人が同じ卓になったの。手順書通りの序列なのに、どうして侯爵夫人があんなにお怒りになったのか、誰にもわからない。侯爵家は次の王家主催の狩猟会を欠席するそうよ。あなた、何か知っていた?』


『親愛なるマーサへ。


 今月だけで、夜会の招待状の宛名間違いが三件、席次の苦情が七件。侍女頭は「手順書通りにやっている」と言うばかり。ねえ、手順書のどこを見ても「ファルネ子爵夫人は未亡人になられて三年だから、夫君連名の様式を使わない」なんて書いてないのよ。あなたの頭の中には書いてあったの?』


『親愛なるマーサへ。


 王妃陛下が御前会議の最中に偏頭痛で倒れられたわ。侍従長は「予兆がなかった」と。……あなたが前に「橙のジャム」って言っていたこと、私、今ごろ思い出した。あれ、そういうことだったのね。


 それからソレイユ様のことだけど。社交界で、その、うまくいっていないの。お茶会を開いても、三回続けてどなたもいらっしゃらなかった。殿下は「貴族どもの嫌がらせだ」とお怒りだけど、私の見たところ、嫌がらせですらないのよ。どの夫人に最初に声をかけるべきか、誰を介して招待すべきか、それを教えて差し上げる人が、誰もいないだけ。


 誰も意地悪なんてしていないの。ただ、誰も助けないだけ。これって、怖いことね』


『親愛なるマーサへ。


 とうとう外交の場でやらかしたわ。東方使節の歓迎茶会で、給仕が先方の喪中の慣習を知らずに白い花を卓に飾ったの。会談は延期。宰相閣下が「なぜ誰も気づかない」と执務室で怒鳴られたそうだけど、ねえマーサ、正直に教えて。ああいうことって、今まで誰が気づいていたの?


 ……返事はいいわ。書きながら、わかってしまったから』


 ◇


 わたくしはアンナへの返事に、知っていることを書けるだけ書いた。侯爵夫人の件のいきさつも、子爵夫人の様式も、東方の弔花の色も。今さら隠す理由もない。


 ただ、最後にこう書き添えた。


『アンナへ。


 わたくしが意地悪で黙って辞めたのだと、どうか思わないでちょうだい。わたくしは引き継ぎ書を三百二十頁書きました。あれがわたくしの限界でした。


 二十年分の貸し借りも、橙のジャムも、紙に書けば醜聞か不敬になるものばかり。ああいうものは、引き継ぐのではなく、隣に立って十年かけて移すものなの。わたくしの隣には、この十年、誰も立たされなかった。「侍女が一人辞めるだけ」と、皆が思っていたから。


 組織というものは、誰かを失った瞬間ではなく、失った人の大きさを測り間違えた瞬間に、傾くのだと思います』


 ◇


 手紙の往復が一年続いたころ、故国から正式な書状が届いた。王宮侍従局の印章入り。


 要約すれば、こうである。「王宮社交儀礼顧問として、厚遇をもって再雇用したい」。提示された俸給は、侍女時代の八倍だった。


 わたくしがその書状をお嬢様にお見せすると、お嬢様は紅茶を吹き出しかけて、それから真顔になられた。


「行きたいなら、止めないわ。あなたの値打ちを、やっとあちらが数字にしたのだもの」


「お嬢様。わたくしの雇用主は」


「グランフェル家、でしょう。でもマーサ、わたくしはもう公爵家を出た身よ。あなたを縛る紐は、本当はもうないの」


「あら」


 わたくしは、お断りの返書の便箋を選びながら申し上げた。


「紐ならございますわ。十年分の、紙に書けないやつが」


 ◇


 ところで、この一年、わたくしの周りにも紙に書けないことが一つ、積み上がっていた。


 大公妃殿下の甥御で、この国の若き宰相、ユーグ・ラフォレ閣下のことである。


 閣下は妃殿下の茶会のたびに、なぜか開始半刻前にいらしては、席次表を覗き込んで「今日の配置の意図を伺っても?」とお尋ねになる。わたくしが「東の窓際は午後の光で宝石が映えますので、新調の首飾りを披露なさりたいデュモン夫人を」などとお答えすると、閣下は手帳に何やら書きつけて、満足そうに帰っていかれる。


 それが一年続いた、ある日の夕方。


「マーサ殿。本日は席次の話ではなく、人事の話を」


「学院の侍女の補充でしたら、リストを」


「私の隣の席が、一つ空いている」


 わたくしは、持っていた席次表を見直した。閣下の隣は大公妃殿下の席である。空いていない。


「……閣下。席次表の上では」


「席次表に載らない席だ。あなたの言葉を借りれば――紙に書けば醜聞になるので、こうして口頭で申し入れている。マーサ殿。あなたは一年間、私の質問に一度も『わかりません』と答えなかった。私は宰相として、わからないことだらけの男だ。隣で気づいてくれる人を、生涯分、雇いたい。俸給は払えないが、私のすべてなら払える」


 わたくしは三十二年の人生で初めて、返す言葉の様式を持ち合わせていなかった。


「……平民でございますよ、わたくし」


「この国の法では、宰相の婚姻に身分要件はない。調べてある」


「お嬢様のお側を離れる気は」


「存じている。だから昨日、エリーゼ嬢に許可を頂きに行った。『マーサを泣かせたら、隣国仕込みの帳簿術であなたの不正を百件見つけてやる』と脅された。不正はないが、震え上がった」


 まあ。お嬢様ったら。


 わたくしは笑ってしまい、笑ったらなぜか少し泣けてきて、それで答えの代わりになってしまった。


 ◇


 後日談を二つ。


 一つ。故国の王宮は、結局わたくしの「顧問就任」を諦め、代わりに新制度を作ったそうだ。その名も「儀礼伝承官」。経験豊かな侍女や侍従の隣に必ず若手を一人つけて、紙に書けないものを十年がかりで移していく役職だという。アンナが初代に任命された。手紙の最後の一行が良かった。『あなたの抜けた穴は埋まらなかったから、穴の掘り方を変えることにしたみたい』。


 それでいいのだと思う。本当に。


 二つ。わたくしの婚礼の席次は、わたくしが組んだ。主賓席にはお嬢様。その隣には、学院改革で知り合われたという、誠実そうな伯爵様が座られた。お二人の馴れ初めはまた別のお話だが――席を隣にしたのがわたくしであることだけは、ここに小さく記録しておく。


 侍女の仕事は、紙に残らない。

 けれど、ちゃんと実を結ぶのである。

お読みいただきありがとうございました。


「ざまぁ」を書こうとしたはずが、書き終えてみると「引き継ぎと人材育成の話」になっていました。どの職場にも、いなくなって初めて大きさのわかる人がいるものです。心当たりのある方は、月曜日にその方へお茶でも差し入れてあげてください。


マーサとお嬢様、それぞれの結婚後のお話も、ご要望があれば書くかもしれません。


楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価★で応援いただけると大変励みになります。感想もお待ちしております。

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皮肉なものね」と笑うお嬢様は、王宮にいた頃より十も若く見えた。 …お嬢様って何歳なんでしょう…
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