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天に桜、地に蓮 Hoa sen đất, Anh đào trời

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/08/01

大和歴代国公


李聖平(Lý Thành Bình) -6 - 34 - 41

黎文開(Lê Văn Khai) -2 - 41 62

阮勇(Nguyễn Dụng) 20 - 62 - 95

阮明雄(Nguyễn Minh Hùng) 46- 95 - 108

阮淳(Nguyễn Thuần) 95- 117 -142

阮朗(Nguyễn Lanh) 95 - 117 - 142

李民宗(Lý Dân Tôn) 101 - 142 - 166

李明漢(Lý Minh Hán)


――


 これは、今からやや離れた未来のことになるが、かといってそう遠くもない時代をおおざっぱに記した覚書。



○Bắt đầu Hỗn loạn 前夜


 人間の科学技術は、これまでないほどに衰退していた。

 文明のグレートリセットが起きた。それまでだましだましで持っていた世界秩序が、いよいよ崩壊する時が来たのだ。

 インフラが崩壊し、それを管理する人間が払底した結果、最先端の科学技術を誇る大国が、その先進性ゆえに真っ先に解体していった。

 今や安定した地域は南半球のオーストラリアやミクロネシアなどの限られた所にしか存在しなかった。

 インドシナ半島では政治的利害が絡んだ結果大規模な内乱が起きた。

 未来化へ遅れをとっていたためにかえって再起不能な事態を免れたのが日本だった。その日本の一縷の望みをかけ、東南アジア諸国から次々と流民が移住していった。


 人口減少は西日本において顕著だった。

 過疎化によってそこにある社会は摩耗し薄れ、そこがかつて同じ国家に属していたという意識も消え去っていった。早い時期からすでに人口の東への流出があった。管理を放棄した土地からは急速に西の政府が把握しえない人間が増えだし、無数の排他的な共同体が生まれた。人々は、かつてあった国家の概念を捨て去りかねない状況にあったのである。

 自由や民主主義といった理念は、国家が危機に瀕している状態においては無意味だった。

 こうして徹底的な改革が行われ、監視社会を前提とする独裁体制へと政治体制は変貌していく。自衛隊は軍に改組され、総理が直接軍を率いて外敵に対処することが求められた。

『戦う総理大臣』という標語をかかげた。

 防衛上の理由から、国土は四分割された。

 日本は、改革の元、防衛のために国土を東西に分け、さらにそれぞれに正総理と副総理が置かれる分治体制をとった。東では、東京から群馬に首都が置かれた。

 北海道は東正総理の直轄地となった。 

 日本政府は、これ以上の諸外国の退役軍人や傭兵を防衛のために辺境に雇い入れるという方針をとったが、これは国家を内部に作り出す可能性をもたらす諸刃の剣だった。

 その中で頭角を現したのが傭兵としてやって来た李聖平りせいへい(Lý Thánh Bình)である。

 聖平は大戦以前からのベトナム人居住者の協力をとりつけ、地位を上げていく。

 しかし彼の台頭は日本人に猜疑心を起こさせた。

 待遇に不満を持ち、また命の危険を感じた聖平は、クーデターを起こし、政権幹部を粛清する。

 一回の貧民の出身である聖平は、日本の歴史に関する知識も、日本国家への尊重も欠いていたが、とにもかくにも秩序を打ち立て、民衆を導かねばならないという使命感は人一倍強かった。

 彼は西日本の正総理に就任して間もなく、国公(Quốc công)という称号を名乗った。前代未聞の事態に、彼自身も含め誰もが右往左往していた。

 東副総理津田つだ靖有やすありはただちに軍を率い、北陸方面に出兵する。こうして九頭竜川以北を失うが、聖平は九州にまで遠征をおこない、西日本のほとんどを掌握する。

 聖平の目論見は、外敵という脅威からの防衛を通して両民族を共犯とすることだった。日本人にとってこのような協力は不本意なものであったが、国家の生存のためにはそれしか方法はなかった。

 太平洋ベルトに位置する都市は、以前から過疎化が進んでいたが、おりしも起きていた大地震や戦災によって徹底的に破壊され、無人の大地と化しつつあった。聖平はそこに移民を入植させたのである。まだ使える資源がないか人々は必死で漁った。


 34年。日本人による爆破テロにより聖平は命を落とす。内紛が起こるかに見えたが、そこで窮地を救ったのが彼の部下、黎文開れいぶんかい(Lê Văn Khai)という男だった。

 彼は旧日本国の復興という名目をかかげ、穏健な政治を心掛ける。しかし、聖平の基本的な政策についてはおおむね踏襲した。

 決して伝統的な日本社会を脅かすものではないと主張していたが、もはや日本とは別の、何かに変容しつつあるのは誰もが認めることだった。


 朝鮮半島では、もっと事態は混沌を極めていた。30年代から、韓国では極端な人口減少が社会を溶解させており、これに乗じた北朝鮮が南への植民を開始したこともあって、たちまち中国大陸や日本に向けて逃亡する人々が相次いだ。絶望から来る人々の攻撃性は猖獗を極めた。ドローンに乗り込み、西日本のほぼ全域に跳梁跋扈したのである。空賊の頭目、趙泰慎(조태신)は、カリスマ性をもって難民の集団を率い、45年から46年にかけて九州や四国の都市を襲撃する。泰慎は説得に応じ、撤退していった。

 空賊はしばらく慶尚道に割拠し、時折中国大陸にも来寇したが、60年代前半に南下してきた北朝鮮によって滅ぼされた。69年、北朝鮮は空洞化した旧韓国地域の完全に掌握し、半島の統一と朝鮮戦争の正式な終結を宣言。これもまた、多民族を前提とする西日本に団結をうながした。

を宣言する。

急速な開発は、朝鮮の体制を揺るがしかねないものでもあった。

89年、鄭源奎は金正榛と金正瀷父子を絞殺し、自らが新しい指導者となる。彼は皇帝を名乗った。大韓帝国の国名も復活させた。

鄭源奎は間島への征服を計画していたが、事前に病没。

 韓国軍人の一部が西日本に逃れ、軍事顧問として兵士の調練にあたったという記録もある。

 その中でも名高いのが朴祖炫ぼくそげん(박조현 Phác Tổ Huyễn)という人物である。


○Chiến tranh Hòa-Nhật 祖国統一戦争


 やがて、彼に大きな試練が立ちはだかる。49年東日本の有田ありた義吉よしきち総理が、祖国統一を掲げ西日本への侵攻を開始したのだ。最初は破竹の勢いであった。

 しかし、あわやというところで戦争は一時中断した。

 まず、先述したように朝鮮半島からの空賊。

 一方で、はるか東にも、また別の荒波が海を隔てて押し寄せた。

 人口流出が急速に進む一方でもはや不法移民を抑え込むことができず、アメリカ政府は棄民政策をとった。定職につかず、麻薬を売って歩いていると目した者をかたっぱしから船に詰め込み、出航させたのだ。俗に言う『大移民軍』(Đại quân Di dân)である。

 東日本軍は彼らを東夷と呼んで蔑み、関東地方において両軍は激突。そのため一時統一戦争は中断された。腹心の名将竹下たけしたウーセインに討伐されるが、一部は現地社会に溶け込み、また一部は北陸や東北へと落ち延びた。

 外患が一時おさまった49年、統一戦争は再開。

 東日本軍は稀代の名将宮田みやた文嗣ふみつぐの指揮のもと一時岡山まで迫ったが、この際有田はそのカリスマ性や支持を恐れ、彼を更迭。ウーセインを西に向かわせるが、この際のごたごたで再び西日本軍は京都まで押し返すことに成功した 西日本側にも、鈴木すずき策造さくぞうなどの名将がいた。要するにこの戦争は民族を超えたものだった。

 東日本が占領地で行った収奪はすべて群馬での記念施設建造に使われ市民の生活を潤すことはなく、西日本は東日本に対する憎しみをかきたてただけで、この戦争は無意味な破壊と殺戮をもたらしただけで終わった。ますますかつてあった日本からは遠ざかっていった。そして義吉自身も日々の食事に事欠くほどであったが、決して彼は願いをあきらめなかった。

 50年代後半、再びアメリカからの不法移民の移送が噂される中、大和は山陰方面でも敵の補給路を断つことでさらに東日本軍を弱体化させた。

 58年三月五日、大和は一時滋賀県・瀬田川以東の奪還地域から撤収する。すべては、敵を誘い込むためだった。

 三月十一日、ついに両軍は瀬田川において最終決戦を行う。大和軍は敵を渡河させてから瀬田大橋を爆破し、退路を断つことで殲滅する。この戦いで東日本の一個師団が壊滅し、もはや東日本に大規模な攻勢を出る力は消え失せたのだった。

 十九日、義吉は祖国の統一を見ることなく病死。側近のキム誠泰ソンテがすぐにその後を継ぐ。

 もはや両国に継戦能力がないことを知っていた彼はすぐさま戦争を終結するための手続きを開始した。そして三月二十三日、金総理は大和を正式に国家として承認し、終戦のための協議を進めた。こうして58年四月八日、正式に終戦。ここに二国の両立が確定する。


 戦後、文開は国号を大和ダイホア(Đại Hòa)とあらため、旧体制からの決別を明らかにする。東日本と大和の国境線は、戦前の状態を回復した。

 すでに本来あった社会秩序のありようを見失い、自己理解を欠いていた土着の日本人にとっては、むしろこの民族的混沌を受容する他なかったのである。こうして内外の様々な利害が入り組んだ結果として、混血が進んでいった。

 統一戦争は最終的に社会のさらなる分断を加速させた。

 東日本では民族的少数派が内乱分子やスパイとしてみなされ迫害されるようになり、西日本へと移住せねばならなくなった。同じく西日本でも富裕層の日本人が敵との内通を疑われ、相次いで東へと逃亡した。こうした移住の中でも大規模で組織的なものが67年、戦時中から反大和運動を継続していた平井ひらい之夫ゆきおが四万人以上の郎党を引き連れて東日本の福島に渡った運動である。


 こうした人間の移動は、元あった社会を解体させ、異質な世界にしていった。かつての統一された列島という版図は溶解していった。

 この時点で大和の実効支配領域は関東以西であった。また彼らの力では徹底的に併合することなど不可能であり、服属させるのがやっとだった。

 それでもさらにインドシナや大陸から多くの移住者が大挙して日本に向かい、言語や文化面においての非日本化が進んだ。

 それでもなお、住民のほとんどは日本人であることに限りなかった。彼らをいかに体制にとりこむかが喫緊の課題だった。

 そこで九州に多くいた日本語話者を、隼人民族として、日本人とは別の民族であるというプロパガンダにより、東日本から離れさせる試みをとった。

 強権的独裁国家としての東日本に対して、緩やかな、しかし連邦国家としての体裁を整えた。


 

 祖国統一戦争がもたらした破壊は、社会の旧弊を一掃する結果にもつながった。

 大和では、住民の離散によって土地の管理や利権のまつわる問題がのきなみ消失されたので、政府による上意下達の開発が容易になった。

 東日本は西の国際情勢の対処を大和に放任できたために国内の復興と北方への再開発に集中できた。


○北陸・東北の戦争 Chiến tranh Đông Bắc và Bắc Lục


 当初西正総理領に属していた新潟とその周辺は聖平のクーデター後東日本に征服されたが、その後ごたごたによって無政府状態と化した。75年、大和は、東夷や朝鮮人の混在していた北陸を征伐する。ここにはかつてアメリカから棄民として流れ着き、東日本からも追われて逃げて来た白人もいたが、彼らはアジア人よりさらに異質な他者であった。

 大和国公の命令を受け、北陸を征伐したのは阮義信げんぎしん(Nguyễn Nghĩa Tin)という人物である。出自は不詳。新潟で東夷軍に勝利した。しかし義信は、必ずしも大和に対して従順ではなく、第三勢力として立ちまわった。

 そこは社会からあぶれた者たちがしばし逃れるアジールとして機能した。 統一戦争ではさまざまな血生臭い暴力が荒れ狂ったが、この地ではそれを上回る凄惨な蛮行が繰り広げられた。また東日本も介入し、北陸から東北にかけては暴力の応酬が起きた。東日本の防衛大臣は「悪しき隣人は良き防壁」と評し、黙認した。

 中でも新潟戦争は70年から86年まで断続的続いた。これは山形

 最終的に大和軍が佐渡島のサン・クリストバル要塞(Fortaleza de San Cristobal)を陥落させ、元甲げんこう要塞(Pháo đài Nguyẹn Giáp)と改称し、90年に撤兵するまで現地の支配をつづけた。

 その中で、東夷と越南人が直接往来する汽水域が形成され、大和から罪人が逃れたり、逆に東夷が大和に逃れ、立身出世するために移住することもあった。その代表的な例がヘスス・ロメロ(Jesús Romero 47-105)という人物である。

 彼は大和に下り、彼は阮龍鉞りゅうえつ(Nguyễn Long Việt)と名乗るに至る。鉞という字は、大和を守るという意味合いが強く込められていた。


 祖国統一戦争の休戦期間中、東夷征服において辣腕を振るったのが東副総理小畑こばた魁道かいどう

 かつて総理と同じく自ら戦線にでて戦い、ついた仇名は『猛獣総理』。

 自らが下したエルナン・オルティス・グティエレス(Ernan Ortiz Gutierrez)を青森県および秋田県の知事に任命する。グティエレスは一万四千人の郎党と共に仙台に赴き、秋田自治領(Estado Autónomo de Aquita)の始まりである。

 一方イグナシオ・サンチェス・ヒメネス(Ignacio Sánchez Jiménez)――スペイン人でありながらアメリカに移住した直後に日本へ移送させられたという数奇な過去を持つ――は大和と東日本に挟撃される中辛勝し、山形へ逃げ込み、山形自治領(Estado Autónomo de Yamagata)を創始する。知事職もこの時代、選挙ではなく中央政府によって任命されるものとなっていた。

 こうして東日本の臣下となった東夷は、北の再開発に従事した。

 かつては単なる異質な他者でしかなかった東夷は、人々にただ同化するだけでは終わらなかった。

 かつて東北地方においてキリスト教信仰は激しく弾圧され、九州とは異なり形跡を残さず断絶してしまった。だが今や東夷を通して再びこの地にキリスト教が入り込んだ。だがそれは神道や仏教とまじりあい、もはやアメリカ大陸で信仰されたキリスト教とも異なる何かへと変容した。仏や神が、カトリックの聖人に重ねて解釈されたのである。

だが、超越的な存在に対する帰依や憧憬から来る熱狂は、この荒涼とした大地において人々を沸かせた。北への開拓はさらに進んだ。

 東日本にあっては、彼らは戦士であり、一方で不穏分子でもあった。それ以外にも、日本人をはじめとする様々な出自の人間による小規模な蜂起は何回か起きていた。

 もはや社会は安定と引き換えに自由を失い、異質な他者を許容する余裕などもはやなかった。反乱はほどなく鎮圧された。

 それは、日越以外の民族少数派が次第に淘汰されていく過程でもあった。

 88年、長野県で地震があった時、大和から救助隊が派遣された。国境を越えて人々が同じ目的で活動し、理解を深めた。この様子は新聞やラジオでも報道され、長らく没交渉であった大和の内情についてある程度知ることができた。だがその内容を通して、東日本国民は大和人が同じ人間であると同時に、もはやかつて存在した統一日本国家がほとんど霧散したことを理解せざるを得なかった。

 94年、最後の東副総理、黒木倫太郎が領土を東正総理に返上すると宣言。こうして名実ともに四総理の分治体制は終焉を迎える。

 民族同士の意図せぬ融合の結果、奈良時代以降の民族意識に巨大な変容が現れていた。日本人その物の変容だった。それは宗教にもはなはだ影響を与えずにはおかないものだった。

 西日本では陳興道や李常傑など越南の英雄を祭る神社が建立され始めた。彼らの利益にあやかることが人々においては大いに魅力であった。


○Nội Chiến Đải Hòa 大和内乱


 79年、文開の死後、大和は三国に別れ内紛を始める。東日本は大和をさらに分裂させるため、この政争に介入し、暗躍した。

 近畿を支配した范常武(Phạm Thường Vũ)、中国地方には陳文展(Trân Văn Triển)が覇を競う中、九州に割拠したのは日本人の木島きじま修平しゅうへいであり、東日本は彼に目を付けた。

 陳文展は統一戦争に功績があったが、戦後冷遇され一時東日本に身を寄せていたこともある。

 范常武は聖平と共に来日した傭兵を先祖に持ち、統一戦争を生き抜いた歴戦の勇士だった。


 最終的に内紛を終わらせたのは、越南人の父親と日本人の母親から生まれた阮勇げんゆう(Nguyễn Dụng)であった。阮勇は修平の配下であったが、その後修平の息子を廃嫡した後自らが指導者となり、自らが最高権力者となったのである。片腕は糸井いとい香織かおり、ベトナム名は阮世香げんせいこう(Nguyễn Thế Hương)といった。陳文展が阮勇に対して有効な手立てを打てないまま部下に暗殺されると、彼の所領を併合した後、さらに常武を討伐した。

 阮勇は国際情勢に合わせ、大和を各地の有力者の連合体としてではなく。一人の君主による中央集権国家に改造せねばならないと思い立った。

 戦後、阮勇は功のあった阮世香を粛清し、息子の明雄(Mình Hùng)に国公を継がせる。これは時代の転換点であった。

 日本人の血を引く阮勇には、有田義吉と同じくありし日の日本国への懐旧の念が強かった。この時代にもなると、西日本でも、国家の存在理由について議論する風潮が強まった。

 何より戦闘のプロであった大和の支配層も前例を重ね、しばらくするとその支配に正当性を与えるため、自分たちこそが日本の継承者であるという思想があった。東日本はもはや国土を回復しようとする意欲は持たず、一方で西日本は本来の日本国家揺籃の地であるからだ。

 まだ移民たちが日本の歴史に対する知識や敬意が薄かった時期には、より急進的な意見もあった。黎文開の時代からすでに皇帝を名乗る案もあったが、これは日本人からの反対が根強く実現しなかった。


 東日本でも変化はゆるやかに進んだ。

 東夷の入植や開発によって次第に東副総理領は行政単位としての実態を失っていく。国制に実態を反映させねばならないという意見が内外から沸き上がった。

 94年、最後の東副総理、黒木くろき倫太郎りんたろうが領土を東正総理に返上すると宣言。こうして名実ともに分治体制は終焉を迎える。越南人と違って東夷はうまく独自の社会機構を適応させながら維持し続けるよりは、現地社会に溶け込むことを選んだ。


○日本海戦争 Chiến tranh biển Nhật Bản


 内乱を収集した後、大和は順調に発展していったが、社会の矛盾は顕在化していった。


 101年、三重県において胡全傑こぜんけつ(Hồ Toàn Kiết)の反乱が勃発する。彼は上流階級の出身であったが、貧民の困窮に憤り、反旗を翻した。これには朝鮮が糸を引いていると噂された。全傑自身は戦死したが、これは社会の構造が固定化し、格差が生まれつつある証拠だった。大和も、安定と引き換えに搾取の体制を構築せざるを得なくなったのである。ほかにも前後して、和歌山でも、島根におけるタガログ系山賊マハリアとウェンディの反乱は徴姉妹をほうふつとさせた。


 東北でも別の波乱があった。山形公国のヒメネスの孫イグナシオの子、サンチョは大和へ亡命。この後継者争いは再び東西に火種を投げかけるに見えたが、そんなことに誰も関わってはいられなかった。

 104年、朝鮮軍が中国の支援を受けて大和と日本の両国に戦いを挑む。日本海戦争の始まりである。

 朝鮮軍による九州への上陸を許してしまったが、巨済島を奇襲し、補給路を断って以降、形勢は逆転。

 東日本軍も秋田や小樽において朝鮮軍と交戦。男鹿半島のヌエバ・グアダラハラ城塞での戦闘は四時間わたって続いた。さらに東日本軍は彼らの本拠地がある樺太にわたり、泊居において戦う。この際大和の義勇兵がいくつか東日本軍に加わっていた。

 かつては敵同士だったが両国が、力を合わせて戦ったのだ。

 戦後、大和は松江を朝鮮の租借地として引き渡さざるを得なかった。

 東日本も、このまま大和に対し他人行儀な態度を貫くかどうかを迷い始めた。両国ともかつて引きずった遺恨を清算せねばならなかった。


○その後


 116年京都にて、大和と東日本との間に、和平式典が催される。

 この式典においては黎文開の孫娘黎春れいしゅん(Lê Xuân)と有田義吉の子の有田慎作しんさくが出席して戦没者を悼み、かつての戦争を本当の意味で終わらせる誓いを立てた。

 妥協ではあったが、とにもかくにも両国にとって大きな前進だった。

 大和を新たなる同胞とみなす一方で、東日本は内在する他者を排斥にかかった。長い間高度な自治権を認められていた二公国の併合である。

 最後の山形公ゴンサロは、公位を奪わないように嘆願したが、聞き入れられなかった。154年、山形公国は知事職を政府に返上するという形で滅亡する。ゴンサロは群馬にも居場所を持つことができず大和に移住し、その後は出家して住職となった。

 一方で使者を横暴にも追い返した秋田公国は159年、南北から挟撃され滅ぼされた。グティエレスの子孫は群馬に護送され、裕福な生活を許されたが政治的な地位は皆無に等しかった。


 一方大和では、阮勇の息子阮淳げんじゅん(Nguyễn Thuần)が急死したこともあり、直系ではない阮朗(Nguyễn Lanh)が国公に選ばれた。彼の治世は前途多難であった。

彼には李民宗りみんそう(Lý Dân Tôn)という友人がいた。彼は李聖平の親族を先祖として持っており、幼い時に親を亡くしたこともあって阮朗と共に育てられた。

 阮朗は功を焦った。128年、軍隊を招集して松江の奪還に挑むが失敗した。

 東日本で内紛が勃発して以降は亡命者である議員島田しまだ空斗くうとと語らい、混乱が終わった後で空斗を総理大臣にすることを約束する。しかし、彼は帰国する直前事故死してしまった。一方で李民宗は各地の治安維持と軍の綱紀粛正につとめ、順調に出世していた。彼は一貫して兄貴分の忠臣として行動していたが、かつては無条件にかわいがっていた弟分を、もはや阮朗は純粋に称賛することはできなかった。ひそかに、阮朗は李民宗を呼び、自邸に招いて酒をふるまう。しかし、李民宗は阮朗の後ろめたい様子から毒殺を恐れ、用を足すことを名目に退室。

 こうして、二人は相手に対しを心を閉じてしまった。

 142年、民宗は九州に駐屯していたが、東日本や朝鮮での聞きつけると突如として東へ進軍。

 こうして両軍は激突し、結果は李民宗軍の勝利に終わった。李民宗は兄貴分を殺すことにしのびず、阮朗を見逃した。数か月後、阮朗は死去。暗殺説もある。阮勇の一族はここで歴史から姿を消す。

 民宗は国公に代わる新たな称号として関白(Quan Bạch)を名乗った。民宗は、専制君主的でありまた中韓への外征を行った豊臣秀吉に対する意識があった。

 146年、大和軍は松江を奪還し、阮恵げんけい(Nguyễn Huệ)と改称。これ以降、列島における大規模な戦乱は一時終了する。


 沖田おきたれんが軍のクーデターにより辞任させられた136年から東日本では短命な政権が乱立する。144年に民宗は皇族を群馬での騒乱から救い出し、京都に招いたうえ149年に娘を天皇に嫁がせる。。大和が名実ともに日本国家の継承者となりつつあった。

 150年代以降、ようやく秩序を取りもどした東日本では議会制民主主義が形骸化し、政党ももはや意味を失った結果、伝統ある家系の有力者が議論を行って総理大臣を擁立する慣習が成立する。


 154年、越南から大和に友誼を求める使者がやってきた。当時の大統領が文化や言語的な共通性の高さから、彼らに深い関心を示したのである。列島においてこの南国の雄は、朝鮮や中国に対抗するための頼もしい味方だった。


 166李民宗の死後、息子の李明漢(Lý Minh Hán)が関白を継ぐ。

 松江奪還にも従軍した、すでに老齢の莫広ばくこう(Mạc Quảng)がその補佐をつとめた。


 160年、朝鮮軍は中国における皇位継承戦に介入し、鴨緑江を越えた。今回は大和は朝鮮と組み、遼東半島において中国の皇太子の率いる敵軍と激闘を繰り広げた。

 この際、東日本は中国の要請でひそかに樺太を通って東北部に工作員を送っており、インフラを破壊して大和の進軍を妨害していた。このことは当初大和には秘匿されていたが、のちに大きな禍根となる。 


 この頃になると、いかにして国家を連合させるか、ということに人々の関心があった。もとより大和は簒奪したことから成り立っており、いかにそれまでの歴史を接続するか、という議論を建国当初から徹底していた。

 大和も、東日本も、自らが旧来の日本国家の正当な継承者であることを譲らなかった。


 そこで、160年、両者の意見を合致させるべく京都において両国首脳の民族会議を行う。

 民族の統合には、新たな建国神話の創出が必要だった。

 そしてそれは人間の時代よりさらにさかのぼり、越南民族の始祖たる雒鴻と天照大神とのつながりを求める試みもあったが、これは両社からの反対にあい実現しなかった。

 また今日まで至る分断をもたらした李聖平が東日本においては簒奪者であり、大和においては英雄であることをどう説明すればよいのかという問題があった。大和には建国を正当化する歴史議論の蓄積があったが、一方で皇室を失った東日本は、国家の存在理由をほとんど持ちえなかった。このことはのちに


 167年から170年にかけて、東夷の血を引く高橋ガルシアが東日本の過酷な措置に反抗し反乱を起こす。この戦争のさなかに東日本軍の手によって多くの東北の教会が破壊された。東日本としては、国内にもはや民族的に異質な地域が存在することを許容できなかったのである。ガルシアは死に際に、和燕戦争時、日中の間で結ばれていた密約を暴露した。このことは大和と東日本の関係を急速に悪化させた。東日本をかつての盟友としてはみなせなくなった大和は、政治工作を通じて東日本に経済的混乱を引き起こし、負債を補填するために合同を持ち掛けた。


 そして、大和と東日本は連合国家となった。名目上対等の地位での合同であったが、実際には大和が東日本を併合したと言っても良かった。こうして関白の権限は東日本の領域にまで拡張されることとなった。とはいえ、東日本の国民が大和領内を自由に往来できるようになった結果、東日本の経済的影響力はむしろ強化された。


 闘争と破壊を伴う試行錯誤の末に、かつてこの列島を覆っていた様々な民族は淘汰され、社会の均質化がようやく始まろうとしている。

 文化は融合し、人々はかつての姿を忘れてしまった。

 そして両国を待ち受ける命運はいまだ明らかではない。

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