この作品はフィクションです。
某文豪作品のオマージュです。久方ぶりに筆をとったので、練習がてら書きました。
私は、恥のない人生を送っていたつもりでした。
文武両道に、品行方正。誰に対しても慈悲の心を持ち、家族や友人からも信頼厚く、もちろん異性からもすこぶる人気があった。非の打ちどころがないとは、まさに私のための言葉だと、心の底から信じていました。
決して驕らず、謙虚な心を持ち、人から恨まれることなんて天地がひっくり返ることでもない限りありえない。子どもの頃からそう言われて生きてきました。大袈裟なことは何もないのです。それは単なる事実であり、私がこれまで積み重ねてきたことの証左でしかない。過大も過小もない、正当な評価だと自負していました。そんなだから、周りからは常に頼られ、集団でいれば必ずと言っていいほどまとめ役に担ぎ出された。そこでもちゃんと期待以上の結果を残すから、周りは余計に私を頼って寄ってくる。私の人生はその繰り返しだった。個人としての能力も高く、周りからの人望も厚い。そうやって、私は順風満帆な道を、常に歩き続けていました。
かつて一度だけ、ある男から、じりじりと灼けつくような視線を向けられたことはありました。でも、それは男のちょっとした誤解が生んだ産物でしかなく、私の人生において、とりわけ大きなことにはなりませんでした。むしろ、今では互いに近況報告をして酒を交わすほどの仲になりました。その男は田中という名前で、目立った特徴もないが、害もない、いわゆる世間によくいる人間。そんな男がなぜ私にそんなものを向けてきたのか、今となっては酒の笑い話になっている。
「あの頃は未熟だったんだよ、僕も」
「ああ、そうだな。お互いにね」
田中は、酒が入らないと口が回らない。というより、酒が入った途端、性格のスイッチが切り替わったかのように、よく喋る。弁護士顔負けの言葉の強さで、あれやこれやと喋り倒す。素面の田中との落差があまりにも激しいので、余計に周りは混乱するらしい。正直な話、最初は私も面食らったが、慣れてしまえばどうということはない。寡黙な男から、愉快なおしゃべり男に印象が変わっただけ。その程度で、私たちの仲が変容することはありませんでした。
「人生が終わるときって、一体何を考えているんだろうな?」
ある酒の席で、田中はウヰスキーのグラスを傾けながら、私に問いかけました。私も田中も程よく酔いが回っていたのでしょう。古の哲学者よろしく、ちょっと悦に浸った学者のように、朗々と語りたい夜だったのかもしれません。
「田中くん。その答えは二つに分断されると私は考えるよ」
「ほう。君はたった二つにしか分かれない、そう考えているのかい?」
「そうではない。細かく考えるなら人の数だけ答えはあるさ。大まかに分ければ、の話だよ」
「ふうん。まあ、聞こうじゃないか。君の考えを」
「ふふ。そう構えずとも、私の考えは至ってシンプルさ。一つは何も考えていない人たち。もう一つは生への執着。要は後悔だよ」
私たちは、時間も場所も忘れて、延々と語り続けていました。強めのウヰスキーが脳によく効いて、この上なく気分も高揚していました。高架下の錆びついたバーで、電車の音を聴きながらくるくる回る思考に酔いしれる。あんな濃密な快楽に溺れることは、後にも先にもあの夜以外にはないでしょう。あの日の私たちは、相手のすべてを受け入れ、そして自らのすべてを曝け出しました。
そして、今もあの日の景色が脳内で鮮明に上映される。どろりと指を這う真っ赤な液体を、点滅する蛍光灯の下で恍惚と見つめる彼の姿。
「ああ、やっと理解したよ。君が、ずっと探していたものを」
わたしは、恥の多い人生を送ってきました。
真面目を取り繕い、時には道化を演じ、集団の輪から外れないように、レールの上を慎重に歩いてきました。相手の意図を汲み取り、相手の欲しい言動や行動をとることは、わたしの得意分野でした。だから、皆から信頼され、まとめ役をかって出る。そうやって「人気者」の立ち位置を、「優等生」の仮面をひたすら守り続け、他人の期待に必ず応える「順風満帆」な人生を築き上げていったのです。
でも、それは一体誰のための「順風満帆」なのでしょう?
満ちることのないからっぽな心を抱えたまま、毎日晩酌しても許される年齢まで生きてしまった。幸いにも懐は温かかったので、毎日どこかで飲み明かしても金銭で困ることはなかった。酒に溺れても、果物ナイフを心の中心に向けても、わたしの本当の気持ちは、一切明るみに出ることはありませんでした。友人は愚か、肉親ですら、このガラス細工のような側面を認識することができなかったのです。
そのような日々の中で、わたしはある男に出会った。天におわす八百万の神様たちは、わたしをまだ見捨ててはいませんでした。
彼は集団から少し離れたところから、たまにじっとこちらを見つめている、ちょっと世俗から離れた雰囲気のある人でした。その双眸は怒りとも悲しみとも言えない、でも確かにわたしへの敵意を含んでいました。当時のわたしは人気者の仮面をずっとかぶっていましたし、誰かから因縁をつけられるなんて、それこそ今目の前に人語を介す猫が現れるくらいありえなかった。だからわたしは困惑しました。声をかけようとしたときに限って姿は見えないし、視線がかち合うとすぐに逸らされてしまう。それでいて、色情の匂いは一切しない。そんな人間に、今まで出会ったことがなかったのです。
しかし、わたしは人気者で優等生。非の打ちどころがない人間ということになっていました。その男の意味不明な行動で、わたしが積み重ねてきた実績を崩したくはなかった。その自負が、ある日のわたしを動かしたのです。
「すみません。あの、いつもあなたの視線が気になるんですが、私に何かご用ですか?」
帰路が重なった偶然に託けて、その背中に声をかけた。その男はぴたりと動きを止め、しばらく無音のまま棒立ちになっていました。きっと個人の感情と世間体に挟まれ、少し逡巡していたのでしょう。ようやくその双眸を拝めたと思えば、どこか呆れたような、どうしようもない人間に対する諦念の色が滲んでいたのです。
「自意識過剰なのですね、君は」
「何をそんなに恐れているのですか?」
その言葉を浴びて、わたしは息が詰まりました。四肢の動きが止まり、顔も硬直して、うまく表情をつくることができなかった。目の前の男が、途端に得体のしれない化け物か何かに思えてなりませんでした。
「まさか。何にも恐れてなどいない。いきなり何を言うのさ」
「へえ。本来はそういう口調なのですね。その方が自然じゃないですか」
突然降り出した雹の如く、男は無遠慮な言葉を投げてくる。日頃から口数の少ない人間ほど、その放つ強さは人並み以上であることが多い。男も例外なくそれに当てはまっていました。しかし、どんなに鋭利なもので刺されようと、「私」が簡単に崩れることはありません。ただ、わたしに長年かけられていたベールが根こそぎ剥がされる心地がして、不快で気味が悪かったです。
「別にいつも君を見ているわけではありません。その奥にある絵を眺めていただけです。僕は遠くを見ると目つきが悪くなるから、視線を感じたのはそのせいでしょう。君が想像するような、特にこれといった理由も意味もありません」
淡々と話す男に向かって、わたしは曖昧な相槌しか打てませんでした。結局その日はどうやって自宅の扉をくぐったのか、あまり記憶に残っていません。でもその日から、帰路がよく重なるようになり、話す頻度が格段に高くなっていったように思います。何重にも折りたたんだ心で恐れを抱きながら、外側に積み上げてきた心で弁舌を交わす。何とも滑稽な姿だなと自嘲してしまうのは許してほしい。
でもようやくでした。これでようやく、わたしは私を終わらせることができる。何とも感慨深い瞬間だっただろう。もうやめていいのだと、神様から啓示を受けた気がして、自ずと視界がぼやけて溶けていきました。
そして、朗々と語り合ったあの夜。私はその男と一緒に終わりを迎えるつもりでした。
でも現実は、そんな世間から捻れた「わたし」の願いを許容するほど、甘くはつくられていなかったようです。
小さな格子の隙間から、今宵は煌々とした光が差し込んでいる。今のわたしは、底のない真っ暗な穴の中で、もがくことも、差し込んできた光に縋ることもありません。もはやどちらが本当なのか、理解する術もない。あの夜のことは、この身が朽ちるまで、何人にも語ることはないと思っていましたが、月が主役のこんな夜だからでしょうか。いつもより少しだけ、口の結び目が緩んだのかもしれません。
ただ一つ、愛した友の冥福を祈って。私は、フィクションの中で瞼を閉じた。




