9. 俺の名は
「リリー……」
貴族の装束に身を包んだ夫が呟く。
ブレイド、そのお洋服はどうしたの?
いつも着ている、ポケットの沢山ついたズボンは?
汚れが目立たない色合いのシャツは?
重いものを落としても怪我をしないように足先に分厚い板が入った靴はどうしたの?
そんな服を着ていたら何も運べないし、商店のお客様は身構えてしまうでしょう?
「リリー……」
硬直して見つめる私の頬にゆっくりと手が伸ばされる。
触れてこようとするその指先がかさついていないことに、今更ながら気付く。
いつから、この手はこんなに皮が薄くなっていた?
重いものを運ぶ手はもっと皮が分厚いはずなのに。
「──っ」
頬に触ろうとする指を避け、後ろへ下がる。
「リリー、逃げないでくれ……」
この人は、だれ?
一歩、一歩と後ろへ下がるけれど、ここは狭い部屋。
すぐに壁に背中がついてしまう。
見上げるその顔が知らない男のようで、私はガタガタと震えだした。
「リリー……話がしたい……話を、聞いてくれ……」
怖くて、どこに逃げたら良いのか分からなくてズルズルと座り込む。
そこへ
「ブレイド様、ご用意ができました」
という声が入り込んできた。
「裏に馬車を回しておけ」
ブレイドによく似た声。
でもとても冷たい、命じることに慣れた声。
座り込む私の前に膝をついて、ブレイドが顔を覗き込んでくる。
「リリー。……君が見たがっていたものを用意した。屋敷に戻ろう。そこで、話をしよう」
屋敷?
私を閉じ込めるあのお屋敷に?
首を横に振る。
いや、あそこは嫌よ。
あそこに閉じこもっていたから、私は自分の周りで起きていた事を何も知ることができていないのに。
「リリー…………ノックスに」
静かな声が聞こえた。
思わず顔を上げると、ブレイドが眉を寄せながらこちらを覗きこんでいる。
その口を微かに震えさせながら、噛みしめるように続きを口にした。
「ノックスに、これからも、会いたいのなら。屋敷に戻ってくれ」
ノックスに……会いたい……。
差し出された手を震えながら取り立ち上がるけれど、ふらついてしまう。
そんな私をブレイドが抱き上げて、一度ギュッと抱きしめられた。
そのまま抱えられて部屋を出る。
部屋のすぐ横に階段があったようで、誰ともすれ違わないまま外に出たようだ。
場所は役所の裏口なのだろう。
ブレイドの腕の中から見ると、立派な馬車がつけられていた。
キラキラした装飾が沢山付けられたその馬車に描かれた、薔薇の紋章──私のような平民ですら知っている、わが領地の領主様であるラナドニア侯爵家の紋章。
御者と思われる人に扉を開かれ、そこに無言で乗り込んでいくブレイド。
ああ、この人はラナドニア侯爵家に縁のあるお方なのだ──。
馬車は走り出す。
今まで乗ったことがないほどに乗り心地が良い馬車の中、ブレイドは私を膝の上に横抱きにしたままだ。
腕の中でうつむく私は身体をギュッと丸め、力を抜くことができない。
そんな私の頭をブレイドは無言で抱え込み、髪を撫で続けていた。
馬車が止まる。
抱きかかえられて降りた私の耳に、門が閉まる音がする。
──また、閉じ込められる......。
「おかえりなさいませ、旦那様」
出迎えた使用人さん達に旦那様と呼ばれたブレイドは、無言のまま前を通り過ぎる。
いつもは「ただいま戻りました」と答えていたのに。
私を抱えたまま階段を上がり、寝室の扉を開けさせると
「呼ぶまで誰も近づくな」
と冷たい声で命じると寝室に入った。
──私達の寝室。
穏やかな日の光が入る、その素朴に見える内装の部屋はそれだけ見るとなんと暖かい家庭的な雰囲気であることか。
ブレイドは少し迷ったあと、長椅子に私を降ろした。
そしてそのまま床に膝をつき、下から見上げてくる。
「リリー……身体は痛くないか?」
恐る恐るという声で尋ねられる。
「何か、飲むか?」
ローテーブルの上には紅茶や果実水や軽食が用意されていた。
俯き何も答えない私を見上げながら、ブレイドはしばし躊躇ったあと、
「話を、聞いてほしい……」
と震える声で言ってきた。
──聞くしかないのは分かっている。
このまま何も聞かずに明日から普通に過ごせるわけがない。
でも。
怖かった。
今日のこの数時間で目の前に飛び込んできた情報は、私にとって良くない事実が明らかになるだろうことを示している。
怖い、怖いのだ……。
「リリー、リリー……手を握っても良いか?」
そう言って、私の手にブレイドの大きな手が重なる。
いつの間にか荒れることがなくなっていたその手は震えていた。
目の前の淡い金色の髪をぼんやりと見つめる。
床に跪いたまま、ブレイドはゆっくりと話し始めた。
「俺の名はブレイド・オブ・ラナドニア。領主ラナドニア侯爵の次男として生まれて、今は後継者の立場にある」




