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16. ノックスの来訪

庭が作られ始めてから十数年。

庭師が設計した庭は素人の私の手入れでもなんとかバランスを維持しており、季節ごとに小さな植え替えを試みている。


その日は屋敷から少し歩いた小高い丘の斜面の林の中で見かけた植物を調べたくて、何冊もの専門書を図書室の床に広げていた。


門の警備の騎士が来客を告げたのは、そんな調べ物をしていた日の午後だった。


「ノックス様がお見えです。お通ししても宜しいでしょうか」


「ノックスが……!?ええ、ええ、もちろん!」


* * *


別れた時には3歳だった息子は、もう15歳の青年に育っていた。


年に数回の面会は果たされていたものの、ブレイドの横で言葉少ないままにお茶を飲んで帰る、その繰り返し。

自分から話しかけてくることもなかったあの子が、まさか一人でこのお屋敷を訪ねてくれるとは思いもしなかった。


「ノックス……!」


エントランスホールに向かうと、ブレイドにそっくりな、でも少しだけ幼さを残した淡い金の髪と青い瞳の青年が立っていた。


「先触れも出さず、急にお伺いを致しまして申し訳ありません」


青年は静かに挨拶をした。


「いいえ、いいえ、そんなこと!」

お湯を沸かし、紅茶を淹れる。

昨日焼いていたブレイドが好きなケーキを切ると、ノックスの前に置いた。


「……これは、リリー様が焼かれたのですか?」


この子は私のことを「リリー様」と呼ぶ。


「ええ。お父様がお好きなので……」

「そうですか……いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


ノックスは美しい仕草で、丁寧にケーキにフォークを入れた。


侯爵家の料理人が作るお菓子とは比べものにならないのは分かっている。

でも私に今できる精一杯のもてなしで、訪ねてくれた喜びを伝えたい。

少しでも美味しいと思ってくれていると良いけれど。


そう思いながら見つめるうちにお皿は空になり、「美味しかったです」と小さく言ってくれた。

「良かった」と微笑んでいると、しばらく沈黙している。


今日はどういった用件で訪ねてきたのだろう。

何か話があるのだろうか。

それとも……もしかして、私に会いたいと思ってくれたりしたのだろうか……。



「......屋敷の中を見せていただいても良いですか?」

「ええ、もちろん」


普段は食堂や談話室でお茶を飲むのでその辺りは知っているだろうけれど、2階にはノックスは最初の面会以来足を踏み入れていない。

恐らく記憶には残っていないだろう。


エントランスホールから正面の大階段の下に立って見上げると、手すりを確認するように撫で、時折周りを見回しながらゆっくりと上っていく。


その青年の後ろ姿を見ると、小さい男の子が一人で上ろうと挑む姿がうっすらと浮かんでくる……。


『ノックス、危ないからママとお手々をつなぎましょう』

『いや!スゥ、ひとりでのぼる!』


あの時あんなにおぼつかない足取りだったあの子は、今はこんなにも大きくなった。

涙がこぼれそうになるのは、共に過ごせなかった悔しさからなのか、それとも成長が嬉しいのか。



「2階はプライベートなスペースなんですね」

「そうね。こちらが寝室。そして、こちらが……」


私は寝室の扉は開けずに説明すると、もう一つの扉を指した。


「こちらが、子供部屋よ」


その扉を開けると、淡い色調でまとめられた部屋が、ガラス越しの柔らかい光の中に現れる。


ノックスが去ったその日から、この部屋にあったものは何1つ処分していない。

おもちゃの位置を動かさないように注意しながら掃除を続け、この部屋はあの日のまま時を止めていた。


かつてのこの部屋の主はその部屋に入るとぐるりと見渡し、目につくおもちゃを手に取ってはそっと手の中で動かしている。


「僕は……」

ポツリと口にしたので目を向ける。


「…………僕は、ここで育ったのですね?」

「……ええ。」


ブレイドが私のことを『ママだよ』とノックスに紹介することは、ノックスの反応がなく私の顔がこわばるため最初の数回で途切れていた。


「リリー様」と呼ぶノックスが私のことをどのように聞いているのか、私はこの10数年、ブレイドにもノックスにも尋ねたことはない。


年に何度か自分だけが連れてこられる別邸。

そこに住む、貴族の令息である自分に親しげに話しかけてくる平民の女。


それを単に父親が囲っている愛人と思っているのか、それとも自分にも関係がある人物と捉えているのか。

何も知らないから打ち解けてくれないのか、知っているからこそ壁を作られるのか。


怖くて確認できなかった。


──でも。この子は知っていたのだ。



「……お父様に聞いたの?」

「いいえ。でも色々なことを囁いてくる者はおりますから」

「そう……」



「……僕は、どんな子供でしたか?」


その質問に胸が詰まりそうになる。


「とても可愛い子だったわ。元気で、賢くて、明るくて。そして……甘えん坊で。とてもとても、可愛かった」


私の、宝物だった。


涙を浮かべて微笑む私を、ノックスはその青い瞳でじっと見ていた。


そして、一度目をギュッとつぶった後に、その目をゆっくりと開く。


ああ、ブレイドにそっくりだ──そんなことを思いながらその動作を眺める。

言いづらいことを口にする時に、ブレイドがする仕草。


きっとこの後、私はつらい言葉を聞くことになる……。



「今日おうかがいしたのは……もうお会いすることはできないという、ご挨拶のためです。」



自分の、息を飲む音が部屋に響いた。


「あなたが僕を産んでくださったことは、随分前から知っていました。……父や祖父が、あなたを騙すようにして僕を引き離したことも」


「でも。…………申し訳ありません、僕にとっての母親は、育ててくれた今の母なのです。」


息が、できない。


「父と母は政略的な結婚で結ばれました。それでも領地を守り繁栄させるために2人で努力し協力して、もう十数年になります。家族として見れば2人は仲が良いと思います。」


「でも父の心の中には、いつもあなたがいる。そのことが母を傷つけているのです。」


「あなたは不貞を働いたわけではありません。何も知らないあなたを騙し、理不尽な扱いを侯爵家が行ったことを僕は知っています。」


「それでも、父があなたを愛し続けることで母が傷ついているのに、僕まであなたに会い続けることは母を更に傷つける。僕はもうこれ以上母を傷つけたくないのです。──だから。僕はもう、あなたに会うことはできません」



申し訳ありません──そう言って、ノックスはその淡い金色の頭を深く下げた。



何も言えず胸の前で握った手を震わせ涙を流す私を、目を細めて痛ましそうに見つめて。


ひと息つくと、


「どうか、お元気で」


静かに告げて、私を残し子供部屋を出ていく。



──待って。

お願い、待って。

行かないで。

私が産んだの。

私がお母さんなの。

ずっとずっと、愛しているの。



私は子供部屋を飛び出した。



待って、待って………!



ノックスはまだ外に出てはいなかった。

外へ出る扉に手をかけたまま動かないその後ろ姿を、大階段の上から手すりに(すが)るようにして見下ろす。


ノックスがこちらを振り返る。


…………すぐ、そこなのに。

今そこに下りて行けば、この手に抱きしめられるのに。


でも明かり取りの窓からの光がホールに明るく降り注ぎ、その奥に立つあの子の顔をはっきりと見せてくれない。


全てを知った上で私を捨てていこうとしているあの子が、今どんな表情をしているのか、私にはもう見ることができない。


私達はもうこんなにも隔てられている──。


どれほどの時が経ったのか分からない。

もう一度、ノックスは深く頭を下げる。


重い扉が開き、そして閉まる音が響いた。



そうして。

誰よりも愛した大切な息子は、今度こそ本当に私の元から去っていったのだった。





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