15. 変わるあなた と白い馬車
年に数回のノックスとの面会を支えに屋敷で暮らす年月は過ぎていく。
門は開かれてはいても、私は散歩以外には屋敷の外にほとんど出ない生活を送っていた。
もし町で昔の知り合いに会ったとしても、どのような顔をすれば良いのか分からない。
そもそも町に出るには騎士を通して侯爵邸に馬車の手配を頼まねばならず、私の気配を自分からあちらに知らせるのは躊躇われた。
ブレイドが、自分がいない時に私が屋敷の外に出ることを嫌がったせいもある。
とは言えその気になれば外に出られると分かっていると気持ちは楽にはなるもので、私は静かに屋敷で暮らしていた。
必要な世間の情報は、毎日訪ねてくれる商店から届く地元の新聞紙や雑誌から得る。
ただし地元新聞はたまに……結構な頻度で届けられないことがあったけれど。
最初は単に積み忘れかと思ったのだ。
けれども、ある日届けられた新聞を読んでその理由が分かった。
──そこには侯爵家の様子が報じられていた。
『侯爵家のご令嬢が、誕生日を迎えられた』
大きく載せられた侯爵一族の幸せそうな写真。
ひと組の男女の間には可愛らしい女の子と少年になったノックスが笑顔で写っていた。
──こういう話題を見せたくなくて、日によっては新聞を配達しないように指示していたのね。
………ええ、そうね。見たくない。
それ以降もたまにミスで配達されてしまうことがあったけれど、私は商店にもブレイドにも言わずにそっと処分を続けた。
どうか配慮をしてくれなんて、あまりにも惨めで言えなかったのだ。
そんなある日。
まだ寝ているブレイドをベッドに残して、私は商店からの荷物を勝手口で受け入れていた。
そしてまたも誤って配達されてしまった新聞を目にする。
『侯爵家ご令息ブレイド様、大雨の被害地域を視察。復興への指揮を直接執られる』
『奥方様は避難所をご訪問。被害にあった領民に心を寄せられる』
『次代を担うご夫婦の力強い献身に領民からは感謝の声』
新聞にはこの屋敷では見せない厳しい表情のブレイドと、そして、以前に新聞で見た女性の笑顔の写真が載っていた。
こういう仕事もしているのね。
奥様と2人で………夫婦で一緒に仕事をしているのね。
その写真を見つめていたら、急に後ろから乱暴なまでの勢いで新聞を奪われた。
振り返るとそこには起きたばかりのブレイドの姿が。
その目は私が今まで見たことがないほどにギラついていた。
そしてその場で新聞を破り丸めて投げ捨てる。
「あ………ご令息、様……」
屋敷から出るゴミを持ち出そうとしていた商店の店員が、しまった、という顔をした。
「──なぜ、これが届けられている」
静かな、でも不穏を隠さない地を這うような低い声。
「あ……手違いで………申し訳ありません……」
店員がヘラリと笑って誤魔化そうとしたその瞬間。
ゴキッという聞いたこともないような固い音と共に、店員の体が地面に叩きつけられた。
「あ……、あがっ………、う、あ……っ」
顎を殴られたのか、口元を押さえた店員が床をのた打ち回る。
「……ブレイド……っ!?」
人が殴られる姿を初めて見た私は驚きに立ちすくんだ。
「大丈夫だ、リリー。何も気にすることはない。君はあっちへ行っていてくれ」
ブレイドは更に店員を蹴りつけながら私に語りかける。
「あ、うぁ………!」
「……言いつけ1つ守れない、愚か者め……!」
「うがっ……!」
「ブレイド、やめて……!」
「なん、だよ……っ」
店員が血を吐きながら私を睨んだ。
「こんな、女の、ために!平民のくせに、お貴族様に囲われていい気になりやがって……!なんで、汚らわしい愛人なんかのために、俺が、こんな目に……!」
急にこちらに向けられた悪意に驚いて立ちすくむ。
「脚を開いてりゃうまい飯食えて、なんでも手に入るなんてふざけてるよなあ!なんで売女なんかのために俺が殴られ………うがああぁっ!!!」
店員の叫びが終わる前に、ブレイドがその顔を全力で蹴り上げた。
そしてその髪を掴むと石の床にガンガンと何度も頭を叩きつける。
「………貴様!……俺の、妻への侮辱……!許さん!許さんぞ………!!!」
「ブレイド!やめて!お願い、やめて!……死んでしまう!!!」
泣き叫ぶ私の声を聞きつけて、騎士達が駆けつけてくる。
騎士に引き離されたブレイドは息を荒くしながら、動かない店員を睨みつけていた。
「………その者の舌を抜き、指を全て切り落とせ。罪人の焼印を額に押して領地から追放しろ。家族も共に!」
冷たい声で騎士達に命じる。
「ブレイド!?」
何を言っているの?
「ブレイド、私はそんなことまで望まな「リリー!」」
私の言葉にかぶせるように私の名を呼び黙らせると、ブレイドは騎士の一人に
「彼女を中に連れて行け。絶対に触るなよ」
そう命じた。
「リリー様。中へ入りましょう」
その場から動けずにいる私の扱いに騎士が困っているのを見て、震えながら談話室に向かう。
舌を抜くと言っていた。指も落とすとも……。
そんなことをしたら死んでしまうのではないの?
死なないとしても、生活がとても大変になる。
それに額に焼き印を押すとも言っていた。
そんなものが額にあったら、どこに行っても蔑みの目で見られてしまうのに……。
「リリー」
ブレイドの言葉を反芻し沈んでいると、私を呼ぶ声がする。
目を上げると、お茶のセットや果物をワゴンに載せ運んでくるブレイドが入ってくるところだった。
驚いたような目で見つめる騎士を手で払い下がらせると、
「びっくりしただろう。茶でも飲もう」
と微笑みながら言う。
「ブレイド、あの……」
話しかけるが、こちらを向かずにティーポットやカップを並べ始める。
「……ブレイド!さっきの人は……」
尋ねようとした途端にこちらへ向かってくると、私の頬を優しく包むと顔を上向かせた。
「君は何も気にしなくて良い。何も心配ない。」
そう言って頭を撫でる。
「でもブレイド……あんな、罰は……」
あなたは、人の過ちにも感情的にならずに諭す人だったじゃない……。
「大丈夫だ。君を、誰にも傷つけさせない。誰にも貶めさせなどしない。」
「ねえ、話を聞いて……どうしたの。昔、ミスをした人にはあなたは……」
そう言った途端にきつく抱きしめられる。
「リリー。もう忘れろ。今日のことは忘れるんだ」
硬い声。
ブレイドが私に命令をしたことなど、今までに一度もなかったのに。
でもその傲慢とも取れる口調とは裏腹に、私を抱きしめる腕も身体も震えていた。
そして私は、不意に気付く。
この人が忘れてほしいのは、今日見せてしまった自分の姿だ──。
自分の気に入らない者に暴力を振るい、残忍な処罰を下す姿。
その暴力を誰にも咎められず、望みを易易と通す力を行使する姿。
アパートで平民として暮らしていた頃からはかけ離れた、変わってしまった自分の姿。
たとえいくら平民の服を着ようと、いくら2人で以前のように暮らそうとも、この人の内面はもう貴族になっている。
この人は、もうかつて私の夫だった頃のブレイドからは変わってしまっている。
──その事実を私の前では隠し通したいのだ……。
「……さあ、あちらで茶でも飲もう。いくつか果物も持ってきた。好きなものを剥くから」
私の髪を撫でながら、まるで何もなかったかのように優しく微笑むその姿に何も言えず。
私はテーブルに着いて、ブレイドが甲斐甲斐しく動く姿を息を詰めて見つめていた。
* * *
昨日の商店との騒動は後を引き、予定を変更したブレイドが屋敷を出発したのは午後になってからのことだった。
「リリー、ごめん、3日くらいはこちらに来られない」と謝りながら、繰り返し「愛してる」と囁いて屋敷を出ていった。
日が明けた翌日の今日は、一転して静かな日を迎えている。
私は気分転換のために、今日は正面玄関前の庭に出ていた。
屋敷正面の庭は、侯爵家の紋章のモチーフにもなっている薔薇が今を盛りと咲いている。
その中央に立つと大輪の花に囲まれて、むせ返るような香りと共に圧倒されるほどだ。
そのまま放置しておくと萎れた姿を見せ見苦しいことになるため、私は開いてもう幾ばくか経つ花からハサミを入れていた。
パチン、パチンと切りながら、昨日の商店との騒動を思い返す。
昨日はブレイドの怒りに気をとられたけれど、今日の私の耳の奥には昨日店員から投げつけられた言葉が繰り返し響いていた。
『愛人』『売女』
あの店員はもう10年以上もこの屋敷に通ってくれていた人だった。
挨拶も穏やかに交わす仲だったのに、内心ではあんな風に思われていた。
私がブレイドの妻であった日はもう遥か昔のことだ。
──あれが、世間から見た、今の私……。
覚悟していたはずなのに、もう受け入れたはずなのに、ハサミを持つ腕がぶれて、まだ切らなくても良い薔薇の花びらまで傷つける。
その時、馬車の近付いてくる音がした。
通り過ぎるかと思ったその車輪の音は、この屋敷の門のすぐ外で停まる。
……ブレイド?
3日は来れないと言っていたのに。
目を上げると、ちょうど門に横付けするような角度で馬車が停まっている。
紋章は見えないけれど、繊細な細工が施されていることが分かる、白く美しい馬車。
その馬車のカーテンが少しだけ動いた。
中からこちらを覗いているだろう人のほっそりとした白い指が見える。
その指の可憐な細さに、そして動きの美しさに、その指の持ち主が誰か私には分かってしまった。
白く美しい馬車に乗る、侯爵家の後継者夫人──ブレイドの、奥様。
わずかな隙間から痛いほどの視線を感じて、私は頭を下げる。
──だって、私は愛人なのだ。
むせ返るほどの薔薇の香りに包まれて、永遠のように感じる時が過ぎるのを頭を下げて待つ。
馬車が動き出す音がして顔を上げた時、そこには何もいなかった。
警備の騎士が強張った顔で私を見つめている。
さきほどのことは相当望ましくない事態だっただろう。
きっとすぐにブレイドに報告がいくはずだ。
……もしかしたら。
昨日の商店とブレイドとの諍いも、密かに奥様に報告されていたのかもしれない……ブレイドが口走った言葉も。
騎士から目を逸らし、高い塀に切り取られたくすんだ空を見上げる。
今日はブレイドはこちらへは訪れない。
奥様のいる侯爵邸へ帰るということだ。
こんな不安定な気持ちを抱えたまま、私は1人で夜を過ごすのね──。
ひっそりと笑うと、また薔薇を切るためにゆっくりとハサミを入れ始めた。
──1人で夜を過ごすのだと、そう思っていたのに。
その日の深夜。
ブレイドはこちらの屋敷へ訪ねてきた。
玄関の重い扉を開けた私は何も言わず、目の前の男を見つめる。
彼も無言で私を見つめたまま、強引には入ってこようとしない。
──店員に叫んだ『俺の妻』という言葉が耳の奥に蘇る。
妻であった日は遥か昔のはずなのに。
妻であったはずの私を裏切ったのに。
あなたには今、妻と呼ばれる人が他にいるのに。
私を捨てたのは、あなたなのに。
それなのに、変わってしまったはずのこの男は、いつまで私のことを『俺の妻』と言うのか。
ずるい男だと思う。
自分のずるさを自覚しながらもどうすれば良いか分からなくて、愛してるという言葉で私を繋ぎ止めようとして。
でも『俺の妻』というその言葉を聞いて苛立つと同時に、唇が震え喉元が熱くなってしまうこの感情を私はなんと呼べば良いのだろう──。
扉を塞いでいた身体を横にずらし、中へと通す。
彼も無言のまま入ってきた。
そして私の両手の指先をそっと手に取ると、身を屈めて私の肩にその額を押し付ける。
その背中に腕を回し頭を抱いてやることは、私にはできない。
でもその重みを押しのけて外させることもできない。
自分の唇の震えがどうかこの男に悟られませんようにと願いながら、私はブレイドが頭を上げるその時を待ち続けた。




