黒幕の囁きと秘めたる誓い
王都へと連れ戻されたリリアを待っていたのは、豪華絢爛な監獄だった。部屋は広いが、窓には厳重な鉄格子がはめられ、外の光は届かない。壁は冷たい石で、かすかに湿った空気が鼻腔をくすぐる。豪華な絨毯も、精巧な調度品も、彼女にとってはただの飾りに過ぎなかった。部屋の隅に置かれた水差しからは、鉄分の多い硬水特有の、わずかに錆びたような匂いがした。彼女の心は、聖域で知った真実によって深く傷ついていた。星の神々が人間を支配し、巫女が生け贄として捧げられてきたという、残酷な事実。そして、自分もまた、その運命から逃れられない「道具」に過ぎないのだと。
「リリア様、朝食でございます」
侍女の声が、扉の向こうから聞こえる。王宮での侍女たちは、皆一様に無表情で、まるで感情を持たない人形のようだった。王の命令を忠実にこなすだけの存在。それは、かつてのカイルのようでもあった。しかし、カイルは違った。彼は彼女を助けようとしてくれた。あの時、カイルの温かい手が、彼女を闇から引き上げようとしてくれた。その記憶が、リリアの胸の奥で、小さな炎のように揺らめいていた。口の中に広がる、鉄の味が、あの時のカイルの血の匂いと重なる。彼の命を危険に晒してまで、彼女を守ろうとした理由。それは、彼女が「道具」ではないと、彼が信じてくれた証だった。
「私は……諦めない」
リリアは、自らの掌を強く握りしめた。たとえ、この体が「生け贄」として定められたとしても。たとえ、王や神官たちが彼女を道具として扱おうとも。彼女には、守るべきものがある。久留米で待つエマ。そして、自分を救おうとしてくれたカイル。この二人のためにも、彼女は立ち上がらなければならない。その決意が、冷たい監獄の空気をわずかに震わせた。
その夜、リリアの部屋に、漆黒のローブを纏った人影が忍び込んだ。ローブの下から覗く顔は、仮面で覆われ、その素性は不明だった。しかし、その体からは、微かに焦げ付いたような、独特の匂いがした。それは、聖域で感じた「星を喰らう神」アズラーの、あの異界の匂いに似ていた。
「巫女よ。お前は、この世界の真実を知ったな」
低く、しかし耳にまとわりつくような声が、部屋に響く。リリアの心臓が、「ドクン」と跳ね上がった。恐怖が全身を駆け巡る。
「貴方は……誰?」
「私は、お前を救う者。お前を、この世界の偽りから解き放つ者だ」
仮面の人物は、ゆったりとリリアに近づく。彼の言葉は、まるで甘い毒のように、リリアの心に染み入った。救う。偽りから解き放つ。それは、彼女が心の奥底で求めていた言葉だった。
「お前は、星の神々に囚われている。彼らは、お前の力を利用し、この世界を支配してきた。アズラーは、悪ではない。真の星神とは、自由を求める魂を導く存在だ」
仮面の人物は、さらに言葉を続ける。彼の言葉は、リリアが聖域で知った真実と重なり、彼女の心の奥深くに根を張る疑念を、さらに肥大させた。星の神々が人間を支配していたという真実が、彼女の中で確固たるものになっていく。彼らの目的は、巫女を解放し、星の神々の支配を終わらせることだという。それは、リリアにとって、あまりにも甘美な誘惑だった。しかし、同時に、彼女は深い疑念も抱いた。なぜ、彼らは自分を救おうとするのか? その背後に、別の思惑が隠されているのではないか? 仮面の人物が持つ、焦げ付いたような匂いが、彼女の警戒心を刺激した。
カイルは、王宮の地下牢で目を覚ました。体中の節々が痛み、全身が鉛のように重い。土の匂いと、冷たい石の壁の感触が、彼の置かれた状況を明確に伝えてくる。彼は、命令に背き、巫女を逃がそうとした「裏切り者」として捕らえられたのだ。彼の心は、怒りと、そして何よりもリリアを守れなかった後悔で、深く沈んでいた。
「目覚めたか、カイル・ヴァルト」
牢の扉が開き、そこに立っていたのは、近衛騎士団の副団長、ガゼルだった。ガゼルは、カイルとは旧知の仲であり、同じ北部出身の騎士だった。彼の瞳は、カイルを見るなり、複雑な感情に揺れていた。怒り、悲しみ、そして、かすかな理解。
「なぜ、そのような真似を……」
ガゼルが、絞り出すように言った。彼の顔には、苦悩の色が深く刻まれている。ガゼルは、騎士としての忠誠心が厚く、王国の秩序を何よりも重んじる男だった。しかし、彼の故郷もまた、戦火によって荒廃し、その中で家族を失った経験を持つ。カイルと同じ、あるいはそれ以上の喪失感を抱えていた。彼もまた、過去の経験から「強大な力」への不信感を抱いていた。だからこそ、彼は「巫女」という存在を、ある種の危険因子と捉えていたのだ。
「巫女は、生け贄ではない。道具でもない」
カイルは、痛む体で起き上がり、ガゼルを睨みつけた。彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っている。
「彼女は、救われるべき人間だ」
ガゼルの表情が、一層苦悩に満ちたものになった。
「だが、王の命令は絶対だ。世界の均衡は、巫女の犠牲によって保たれている。お前も、そのために剣を振るってきたはずだ」
ガゼルの言葉は、カイルの胸に突き刺さる。そうだ、彼はそのために生きてきた。しかし、リリアと出会い、彼女のひたむきな努力と、孤独な心を目の当たりにしたことで、彼の信念は揺らいでいた。
「偽りだ。全ては、星の神々が人間を支配するための、偽りの均衡だ」
カイルは、聖域で知った真実をガゼルにぶつけた。ガゼルの目が、わずかに見開かれた。彼もまた、神官たちの間で囁かれる「古の伝承」の一部を知っていたが、そこまで深くは考えていなかった。
「そんな、馬鹿な……」
ガゼルは、信じられないというように呟いた。彼の心中には、騎士としての忠誠心と、故郷の民を救えなかった無力感、そして今明かされた世界の真実との間で、激しい葛藤が生じていた。彼もまた、カイルと同じように、偽りの秩序の中で生きてきたのかもしれない。
「我々は、王の命令に従うしかない。それが、騎士としての務めだ」
ガゼルは、力なくそう言った。しかし、彼の声には、以前のような揺るぎない響きはなかった。カイルは、ガゼルの揺らぎを見抜いた。彼の胸に、かすかな希望の光が灯る。ガゼルもまた、この世界の歪みに気づき始めている。
「ガゼル。お前は、本当にそれでいいのか?」
カイルの言葉が、ガゼルの心に重く響いた。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。牢獄の奥から、冷たい風が「ヒュー」と音を立てて吹き抜けていく。
レイナ神官長は、王宮の一室で、リリアとの面会を求めていた。彼女の心は、激しく揺れ動いていた。リリアが聖域で真実を知ったことは、レイナの密かな期待でもあった。この子が、この世界の「理」を打ち破るきっかけとなるかもしれない。しかし、同時に、彼女自身の使命と、神官長としての責任が、重くのしかかっていた。
「巫女様は、お目覚めになられました」
侍女が、恭しく告げる。部屋の中には、独特の甘い香りが漂っていた。それは、レイナ自身が纏うジャスミンの香りとは違い、甘ったるく、どこか不自然な香りに感じられた。王族や貴族たちが好む、贅沢な香油の香りだ。
レイナが部屋に入ると、リリアは窓辺に立っていた。その瞳は、以前のような絶望の色ではなく、深い思索の光を宿していた。そして、かすかに焦げ付いたような、奇妙な匂いが、リリアの体にまとわりついているのを、レイナは察知した。それは、彼女が最も警戒すべき、あの存在の気配だった。
「巫女よ。あの者と、接触したな」
レイナは、直接的に尋ねた。リリアの体が、わずかに硬直する。
「……何のことでしょうか」
リリアは、とぼけたように答えた。しかし、レイナは巫女としての直感で、彼女が嘘をついていることを見抜いていた。
「『星を喰らう神』アズラーの眷属だ。彼らは、お前を唆し、世界の秩序を乱そうとしている」
レイナの声には、わずかな焦りが混じっていた。アズラーの眷属が、ここまでリリアに接近しているとは。それは、彼女の予想を上回る事態だった。
「世界の秩序? それは、巫女の命を犠牲にして保たれる、偽りの秩序のことですか?」
リリアの言葉は、まるで鋭い刃のように、レイナの心臓を貫いた。かつて、自分自身が抱いた疑問。それを、今、リリアが口にした。レイナの脳裏には、過去の巫女としての儀式の記憶が鮮明に蘇る。あの時、彼女は絶望の中で、ただ運命を受け入れた。しかし、リリアは違う。彼女の瞳の奥には、確かな反抗の光が宿っている。
「彼らの言葉に、耳を傾けてはならぬ。彼らは、お前を破壊へと導くだけだ」
レイナは、必死に訴えた。彼女の言葉は、神官長としての義務だけでなく、一人の巫女として、同じ運命を辿るリリアへの警告でもあった。しかし、リリアは、レイナの言葉に耳を傾けようとはしなかった。
「真実を知ってしまった以上、もう後戻りはできない。私は、もう誰かの道具にはならない」
リリアの瞳は、真っ直ぐにレイナを見据えていた。その視線は、かつてのレイナ自身が持っていた、無力な巫女のそれとは、全く異なっていた。レイナは、リリアの決意を感じ取った。彼女は、この少女が、単なる生け贄ではないことを、改めて確信した。
レイナの心に、ある秘めたる誓いがよぎった。それは、神官長としての使命と、巫女としての共感が交錯する、禁忌にも近い誓いだった。もし、この少女が、本当に世界の「理」を打ち破ることができるのならば。その時、自分は、どちらの道を選ぶべきなのか。彼女は、リリアの部屋を後にした。残されたのは、リリアの体にまとわりつく焦げ付いた匂いと、レイナ自身の胸に燻る、秘めたる決意の炎だった。王都の夜空には、重い雲が垂れ込め、星の輝きを隠していた。