星を喰う神の目覚め
リリアは、湿った空気が鼻腔をくすぐるのを感じた。森の奥深く、苔むした岩壁が連なる先に、ひっそりと隠された古の聖域。そこは、巨木が天を覆い、地面には燐光を放つキノコが「ふわふわ」と浮かんでいた 。微かな風が「サラサラ」と葉を揺らし、その音は、まるで囁くような古の歌に聞こえた。聖域全体を包む空気は、外の世界とは明らかに異なり、時間の流れすら歪んでいるような錯覚に陥る。
「ここが、古の聖域……」
カイルが呟いた。彼の声も、この神秘的な空間では、どこか響きが違って聞こえる。リリアの心臓は、「ドクン、ドクン」と不規則なリズムを刻んでいた。ここに来るまでの道中、二人は幾度となく危機を乗り越えてきた。追い来る追手、時には魔物との遭遇もあった。しかし、カイルが常に彼女を守ってくれた。彼の背中、彼の温もりが、彼女の唯一の希望だった。
聖域の中心には、巨大な石碑が鎮座していた。その表面には、複雑な紋様と、古の文字が刻まれている。リリアは、覚えたてのこの世界の言葉と、自身の内なる光の導きに従い、碑文を読み解き始めた。彼女の指先が、石碑の冷たい表面をなぞる。ひんやりとした感触が、指先から脳へと伝わる。
「これは……星の神々が、かつて人間を支配していた、と……?」
彼女の声が震えた。碑文は、衝撃的な真実を語っていた。遠い昔、星の神々は、自らの力を絶対とし、人間を単なる「被造物」として扱っていたという。星々の均衡は、神々によって恣意的に保たれ、人間は自由を奪われていた。そして、巫女とは、その神々の力を鎮めるための「生け贄」として、代々捧げられてきた存在だというのだ。彼女が知らされていた「星を喰らう神アズラーを封じるための巫女」という役割が、実はもっと深く、世界の根源的な歪みに繋がっていることを知った。口の中に広がる、嫌な渋みが、真実の重さを物語っていた。
「そんな……まさか」
リリアの膝がガクンと崩れ落ちた。絶望が、冷たい水のように全身に広がる。今まで信じてきた「世界の平和」という大義が、実は神々の支配のための偽りだった。そして、自分はそのための道具に過ぎなかった。エマとの平穏な暮らしを奪われ、この世界に召喚された意味が、あまりにも残酷な形で突きつけられる。彼女の目に、熱いものがこみ上げた。星の輝きが、かつては希望の象徴だったが、今は、自分を縛る鎖のように見えた。
その時、聖域の入り口から、足音が聞こえた。「ザッ、ザッ」と、複数の靴音が地面を擦る音が、静寂を破る。神官たちだった。彼らは、リリアを捕らえるために、執拗に追ってきていたのだ。
「巫女様、王都へお戻りいただきます」
神官長レイナの声が、冷ややかに響く。彼女の瞳は、まるで感情のない水晶のように澄み切っていた。リリアは、カイルの背中に隠れるように身を寄せた。彼の腕が、彼女を包み込むように動く。その温もりが、唯一の救いだった。
カイルの心は、激しく波立っていた。古の聖域で知った真実。「星の神々」による人間の支配、そして巫女が生け贄であるという残酷な事実。彼の胸に、深い憤りがこみ上げてきた。戦乱の地で、権力者たちの都合で民が苦しむ姿を見てきた彼にとって、神々の支配は、まさにその延長線上にある「偽り」だった。
「巫女様、王都へお戻りいただきます」
レイナ神官長の冷たい声が響く。カイルは、瞬時に剣を抜いた。剣の「シャキン」という鋭い音が、聖域に響き渡る。
「手を出すな!」
彼の声は、怒りに震えていた。リリアは、彼の背後で、まるで嵐に怯える小鳥のように震えている。彼女を、再びあの王宮の檻に戻すなど、できるはずがない。彼の脳裏には、リリアのひたむきな努力、そして夜中に一人で星霊術の練習をする孤独な姿が、走馬灯のように蘇る 。彼女を「道具」にはさせない。その決意が、彼の心を支配していた。
だが、神官たちの数は多く、彼らもまた、聖霊術の使い手だった。複数の詠唱が重なり、「ヒュン、ヒュン」と風を切る魔法の音が響く。カイルは、剣を振るい、迫りくる魔法を弾き返す。肉を断つ「ザシュッ」という音と、石が砕ける「ガリッ」という音が混じり合う。しかし、数に圧倒され、彼の動きは徐々に鈍っていった。全身から汗が噴き出し、口の中に広がる鉄の味が、彼の疲労を訴える。
「カイル殿……もう、いいから……」
リリアのか細い声が、彼の耳に届いた。彼女は、彼の無謀な抵抗が、彼の命を奪うことになると感じ取っていた。その言葉に、カイルは一瞬、動きを止めた。その隙を、神官たちは見逃さなかった。複数の術が同時に放たれ、カイルは意識を失った。体が地面に叩きつけられる衝撃と、遠のく意識の中で、彼が見たのは、神官たちに連行されるリリアの、絶望に満ちた横顔だった。彼の胸に、再びあの無力感が襲いかかった。あの時、家族を守れなかった。そして今、またしても……。彼は、握りしめた拳の中で、土の感触を強く感じていた。それは、彼の無念と、リリアへの誓いを象徴するようだった。
レイナ神官長は、王都へ連れ戻されるリリアの姿を、冷徹な視線で見つめていた。聖域での出来事は、全て彼女の想定内だった。巫女が真実を知ることは、避けられない道。そして、その後に来る反発も。
「これで、よろしいのですか、神官長」
若い神官が、不安げに尋ねる。レイナは、何も答えなかった。彼女の心の中には、リリアを連行する痛みと、しかし、避けられない使命への理解が混在していた。巫女が生け贄となることは、世界の秩序を保つための「理」。しかし、その「理」が、本当に絶対なのか? レイナ自身、過去に同じ疑問を抱いた。あの時、彼女は運命を受け入れた。しかし、その決断の先に、消えない喪失感と、巫女の命を犠牲にする「偽りの平和」があることを、誰よりも知っていた。
彼女は、聖域の石碑に残された古の文字を思い出す。星の神々が人間を支配していたという真実。それは、神官長として、決して公にできない秘密だった。しかし、その秘密を知ったリリアの瞳の奥には、絶望と共に、かすかな「反抗」の光が宿っていた。
「この子なら、もしかしたら……」
レイナの胸に、密かな期待が膨らんでいた。それは、星神の教えに背く、禁忌にも近い願いだ。リリアが知った真実。それが、この世界の歪んだ「均衡」を打ち破るきっかけとなるかもしれない。彼女は、リリアを連行する馬車の影が、遠ざかっていくのを見届けた。そして、静かに目を閉じる。その瞳の裏には、彼女自身の過去の苦悩と、未来への密かな希望が交錯していた。彼女は、王都に戻ったリリアが、自らの運命にどう向き合うのか、見守る覚悟を決めていた。それは、巫女を「道具」としてではなく、一人の人間として、その選択を尊重しようとする、彼女なりの「慈悲」だった。その慈悲は、星神リュカオンへの祈りとは違う、彼女自身の心の奥底から湧き上がる、新たな希望の光だった。