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偽りの英雄と夜の逃亡

 リリアは、謁見の間で、まるで舞台上の人形のように立たされていた。豪華絢爛なシャンデリアの光が、彼女の銀色の髪を冷たく照らす。王は、威厳に満ちた声で、彼女の「功績」を称え、そして、とある強国の王子との政略結婚を命じた。それは、言葉巧みに紡がれた「世界のため」「平和のため」という美辞麗句に包まれた、ただの取引だった。彼女の心臓は、王の言葉を聞くたびに、鉛のように重く沈んでいく。

「巫女様は、まさにこの国の光。その輝きは、諸外国をも魅了するでしょう」

 隣に立つ宰相が、にこやかに微笑んだ。その笑顔の裏に潜む打算が、リリアには痛いほど分かった。まるで、生きた道具のように扱われる感覚。久留米の孤児院で、エマのために小さな存在として生きていた日々が、遠い幻のように思える。あの頃は、誰かの期待に応えることが、自分の価値だった。だが、今は違う。「私は、世界のための道具じゃない」。その言葉が、彼女の心の奥底で、小さな炎のように揺らめいていた。口の中に広がる、鉛のような苦い味が、この状況の全てを物語っていた。

 政略結婚の話が持ち上がってから、リリアの周りの空気は一変した。貴族の娘たちは、もはや陰湿な嫌がらせすらしてこない。代わりに、彼女たちの視線は、まるで獲物を狙う猛禽類のように、ギラギラとした欲望に満ちていた。それは、ルシアの冷たい視線とはまた違う、本能的な嫌悪感をリリアに抱かせた。

 その日の夜、自室に戻ったリリアは、ドレスの裾を強く握りしめた。絹の冷たい感触が、手のひらにじっとりと残る。窓の外は、王都の煌びやかな灯りが瞬いている。しかし、その輝きは、彼女にはひどく虚ろに見えた。誰かに、この胸の苦しみを打ち明けたい。しかし、誰もいない。皆、彼女を「巫女」としてしか見ていない。その孤独が、胸の奥で深く、重く沈んでいく。もし、エマがここにいたら、どんな言葉をかけてくれただろう。遠い故郷への郷愁が、鼻の奥をツンと刺激する。


 カイルは、密室の中で、王の言葉を反芻していた。「巫女を、政略の駒とせよ」。王の言葉は、まるで冷たい鋼のように、彼の胸に突き刺さった。彼の使命は、巫女の護衛。しかし、その護衛が、彼女を「生け贄」として、そして今度は「政略の道具」として差し出すことを意味するのなら、それは果たして「忠義」と呼べるのだろうか。彼の心は、凍り付いた湖面に、小さな石が投げ込まれたかのように、さざ波を立てていた。

 彼は、無意識のうちに腰の剣に手をかけた。剣の冷たい感触が、彼の心に迷いを呼ぶ。この剣は、王に忠誠を誓うためにある。しかし、この剣で、彼女の自由を奪うことにもなるのか。戦乱の地で、彼が見てきたのは、権力者の都合で弄ばれる人々の姿だった。あの時の無力感が、再び彼の胸を締め付ける。あの時、彼は何もできなかった。しかし、今度は違う。彼の灰色の瞳に、かすかな炎が宿った。

 その夜、王宮の一室で、他国の使者による暗殺未遂事件が起こった。標的は、リリアだった。カイルは、瞬時に反応した。訓練場で磨き上げた剣技が、闇の中で閃く。ナイフが空気を切り裂く音、「シュッ」という風切り音が、耳元を掠める。肉を断つ「ザシュッ」という鈍い音。襲撃者たちの血の匂いが、鼻腔を刺激する。カイルの剣は、迷いなく敵を貫いた。しかし、その瞳の奥には、命令に背くことへの迷いではなく、リリアを守ることへの確固たる意志が宿っていた。

「巫女様、こちらへ!」

 彼は、リリアの手を掴んだ。その手のひらは、驚くほど小さく、そして震えていた。リリアは、混乱した表情で彼を見上げた。彼の目には、いつもの冷徹さではなく、彼女を案じるような、微かな熱が宿っているのを、リリアは感じた。

「カイル殿……?」

「いいから、来い!」

 彼は、彼女を抱きかかえるようにして、王宮の裏口へと駆け出した。夜の王宮は、静まり返っている。しかし、遠くで響く緊急の鐘の音が、「カーン、カーン」と不気味に響き渡り、二人の逃亡を急かす。王宮の石畳を走る二人の足音が、やけに大きく響く。リリアの心臓は、喉元まで飛び出しそうだった。しかし、カイルの腕の中にいると、不思議と安心感を覚えた。彼の体温が、ドレス越しにじんわりと伝わってくる。


 王都を抜け出した二人は、夜の闇の中を馬で駆けた。森の中を走り抜ける風の音、「ザワザワ」という葉擦れの音が、追っ手の足音のように聞こえる。道なき道をひたすら進む。馬の蹄が、湿った土を「バタバタ」と蹴り上げる音が耳に響く。リリアは、カイルの背中にしがみつき、時折、彼に体を預けた。彼の背中は、広く、そして温かかった。

「なぜ、私を……?」

 リリアが、震える声で尋ねた。カイルは、馬を止め、大きく息を吐いた。夜の森は、昼とは違う顔を見せる。木々の隙間から差し込む月明かりが、幻想的な影を落とす。漂う微かな土の匂いと、夜露に濡れた草の青臭い匂いが混じり合う。

「命令に、背いた。それだけだ」

 彼の声は、ぶっきらぼうだったが、その中に、わずかな優しさが含まれているのを、リリアは感じ取った。

「私の命は、王宮にとっては道具だった。私を守ることは、命令に背くことだった。だが……」

 カイルは言葉を切った。彼は、遠い昔、家族を失った日のことを思い出していた。戦火の中、誰も助けてはくれなかった。飢え、絶望、そして無力感。その記憶が、彼の心を締め付ける。あの時の、救えなかった命の重みが、今、リリアの命に重なった。

「君を、道具にはさせない」

 その言葉に、リリアの胸が熱くなった。彼女は、カイルの広い背中に、そっと顔を埋めた。彼の体温が、彼女の冷え切った心を温めていく。それは、孤独な異世界で、初めて感じた、確かな温もりだった。

「私は……久留米っていう街で、エマっていう妹と二人で生きてたの」

 リリアは、ポツリポツリと、故郷での生活を語り始めた。孤児院での日々のこと、エマとのささやかな幸せ、そして突然の召喚のこと。「ヒュー、ヒュー」と風が木々の間を抜ける音だけが響く。彼女の記憶は、まるで砂時計の砂のように、サラサラとこぼれ落ちていく。

 カイルは、黙って耳を傾けていた。彼の過去は、リリアとは対照的だ。彼は、幼い頃から剣と共に生きてきた。感情を殺し、ただひたすらに「道具」として生きてきた。彼にも、かつて守りたかった家族がいた。しかし、その願いは叶わなかった。その喪失感が、彼を冷徹な騎士へと変えた。

「俺は、戦場で家族を失った。あの時、俺には何もできなかった」

 カイルの声は、どこか遠くを漂っているようだった。リリアは、彼が抱える深い傷を、その言葉の端々から感じ取った。彼の冷たい瞳の奥に、同じように深い孤独が宿っていることを。

 互いの過去を打ち明ける中で、二人の間には、言葉にはできない絆が芽生え始めていた。それは、同じ孤独を抱え、同じように居場所を求めていた魂が、静かに寄り添い合うような感覚だった。月明かりが、二人の影を長く伸ばす。夜の森の空気は、ひんやりと肌を刺すが、二人の心には、確かな温かさが灯っていた。

「ねぇ、カイル殿……」

 リリアは、彼の服の裾を、そっと掴んだ。

「ありがとう」

 その言葉は、まるで夜の闇に溶け込むように、か細く、しかし確かな響きを持っていた。カイルは、振り向かなかった。しかし、彼の唇の端には、微かな笑みが浮かんでいた。それは、彼が「道具」として生きてきた中で、初めて見せた、人間らしい感情の表れだった。二人の間には、言葉以上の理解が流れていた。そして、その理解は、これから始まる逃亡の旅で、さらに深く、強く育っていくことになる。王都の灯りが、遠くで小さく瞬いていた。それは、もはや彼らが属する場所ではなかった。


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