王都と仮面の笑顔
リリアは、目覚めるといつも同じ匂いに包まれていた。それは、甘く濃厚な花の香りと、磨き上げられた石材の冷たい匂いが混じり合った、王宮独特の香りだった。孤児院の土とカビの匂いが、まるで遠い夢のように思える。召喚されてから数日。王宮の生活は、何もかもが目新しいと同時に、ひどく息苦しかった。朝食のテーブルには、見たこともない色彩豊かな果実や、繊細な細工が施されたパンが並ぶ。フォークとナイフの使い方も、淑女らしい座り方も、全てが初めてだった。侍女たちは一見親切だが、その瞳の奥には、常に値踏みするような冷たさが宿っているのを感じた。
「巫女様、本日は星霊術の基礎から学びましょう」
神官の一人が、恭しく告げる。リリアは頷いた。覚えるべきことは山ほどあった。この世界の歴史、言葉、そして何よりも「星霊術」と呼ばれる魔法。星の光を操るというその力は、彼女の体内を流れる、久留米の夜空で感じたあの光の奔流と酷似していた。魔法の詠唱は、耳慣れない古語の羅列で、舌がもつれそうになる。最初のうちは、指先からかすかな光の粒を出すのが精一杯だった。何度試しても、イメージ通りの光は現れない。魔力は体力を消耗し、頭が重く、視界がぼやける。それでも、彼女は諦めなかった。
「もう一度、お願いします」
喉が渇き、唇が乾ききっている。その夜、自室に戻ったリリアは、誰にも見られないように、ひっそりと星霊術の練習を続けた。窓から差し込む星明かりを浴びて、両の掌を合わせる。心の中で、祈るように光を求める。しかし、光は気まぐれで、時に強く、時に弱く瞬くだけだった。まるで、彼女の心の迷いを映し出しているかのように。彼女は、王宮の生活に、王族たちの「巫女」への期待に、懸命に応えようとした。それは、孤児院でエマのために頑張った日々と何ら変わらない。ただ、ここには、エマのような純粋な温かさはなかった。
翌日も、そのまた翌日も、王宮の時間は同じように流れていく。朝食、学び、そして練習。リリアは、喉の奥に広がる鉄の味を感じながら、それでも呪文を唱え続ける。疲労で指先が震え、全身が鉛のように重い。それでも、彼女は立ち止まらなかった。なぜなら、ここで挫ければ、彼女の居場所は完全に失われると直感していたからだ。
「巫女様、もう少し集中なさいませ」
指導する神官の声が、遠くで響く。その声には、明らかに苛立ちの色が混じっていた。
ルシア・エルグランドは、今日も苛立ちを隠せないでいた。目の前の少女、リリア・ノクターンが、まるで汚れを知らない白い布のように、王宮の輝きを全て吸い取っているように見えたからだ。ルシアは、王国の名門エルグランド公爵家の長女として、生まれたときから「巫女」の座を夢見てきた。幼い頃から、厳格な礼儀作法、貴族の嗜み、そして何よりも星神への深い信仰心を叩き込まれてきた。彼女の部屋には、星神リュカオンの聖典が山と積まれ、その一冊一冊が彼女の努力の証だった。それは、机に積まれた分厚い書物の山が、彼女のどれほどの時間を削り取ってきたかを物語っている。彼女は、自らを厳しく律し、血の滲むような努力を重ねてきたのだ。全ては、巫女となるため。世界を救うために。
「あの異界の娘が、なぜ……」
ルシアは、ティーカップをカチャリと音を立てて置いた。その音は、彼女の心の苛立ちをそのまま表現しているようだった。謁見の間でのリリアの姿を思い出す。銀色の髪、淡い青の瞳。まるで星を宿したかのような輝き。あれは、王族や貴族たちの目を欺くための、見せかけの輝きに過ぎない。本来、巫女は、この国の血を引く者が選ばれるべきだ。そう、ルシアはずっと信じてきた。
ルシアは、親しい貴族の娘たちと連れ立って、リリアのいる回廊へと向かった。彼女たちの視線は、まるで粘着質の蜘蛛の糸のように、リリアの背中に絡みつく。
「ねぇ、聞いた?あの巫女様、まだろくに魔法も使えないんですって」
一人の娘が、わざとらしく大きな声で囁いた。ルシアは、微笑みを浮かべたまま、何も言わない。それが、彼女の暗黙の了解を示す合図だった。
「あら、そうなの?でも、お美しいから、それで十分なのかしらね?」
別の娘が、ねっとりとした甘い声で続けた。その言葉には、明らかな嘲りが含まれている。リリアは、彼女たちの言葉を聞いているのかいないのか、ただ前を向いて歩いている。その背中は、まるで嵐に立ち向かう小枝のように、かすかに震えているように見えた。ルシアは、その様子を満足げに眺める。リリアが努力しているのは知っている。星霊術の習得に苦心し、夜遅くまで練習していることも。だが、その努力は、ルシアからすれば滑稽なものだった。異界の者が、たった数日でこの世界の深淵に触れられるとでも? 巫女の力は、血と歴史、そして何よりも生まれ持った資質に裏打ちされるものだ。
「私たちが、この国の真の巫女にふさわしいことを、あの娘に教えてあげましょう」
ルシアは、心の中で呟いた。彼女の仮面の笑顔の裏で、冷たい策略が蠢いていた。それは、彼女の地位と血筋に縛られた、偽りの正義だった。
カイル・ヴァルトは、訓練場の一角で剣の素振りをしていた。剣先が風を切り、「ヒュン、ヒュン」と乾いた音を立てる。彼の剣は、常に最短距離で敵を仕留めることを追求した、無駄のない動きだ。彼の汗が、地面にポツリとシミを作る。その汗の匂いは、鍛え上げられた肉体から発する、清冽な土の匂いにも似ていた。王宮での日常は、変わらず淡々と過ぎていく。巫女の護衛という任務は、彼の日常に新たな要素を加えたが、彼自身の心境に変化はないはずだった。彼はただの「道具」なのだから。
だが、最近、彼の視線は、無意識のうちにリリアを追っていることに気づいた。彼女は、王宮の煌びやかな装飾品の中で、まるで場違いな野生の花のように、ひたむきに努力を続けていた。言葉の壁にぶつかり、文化の差異に戸惑い、貴族の娘たちからの陰湿な嫌がらせにも、黙って耐えていた。
「巫女様は、今日も遅くまで星霊術の練習をなさっていたそうです」
隣で休憩していた若い騎士が、何気なく言った。カイルは、わずかに眉を動かしたが、何も言わない。彼は、リリアが隠れて練習していることを知っていた。夜の回廊を巡回する際、かすかに漏れる光と、彼女の疲労した気配を何度も感じ取っていたのだ。彼女の努力は、王宮の誰よりも真摯だった。
ある日、カイルは、図書館の一室で、古い書物を読んでいたリリアを見かけた。彼女は、辞書と首っ引きで、難解な古語を必死に読み解いている。その額には、集中を示すわずかな汗が滲んでいた。そして、その視線の先には、巫女の歴史に関する書物が開かれていた。その本は、薄暗い部屋の中で、まるで彼女の未来を暗示するかのように、鈍い光を放っていた。
その姿を見た瞬間、カイルの胸に、かつてない感情が芽生え始めた。それは、単なる「護衛対象」としてではない、一人の人間としての興味と、微かな「守りたい」という衝動だった。彼の視線は、これまで彼女を「世界の道具」としてしか見ていなかった。しかし、そのひたむきな努力、そして時に見せる孤独な横顔が、彼の心に、冷たい氷の壁にヒビを入れるような音を立てていた。
「ご随意に」
王からの指示があった。リリアが王宮の図書館を自由に利用することに関するものだ。カイルは、その言葉の意図を測りかねていた。だが、彼の心が、リリアに惹かれ始めていることを、彼はもう否定できなかった。それは、忠義という鎖と、自身の心の芽生えとの間で揺れ動く、新たな葛藤の始まりだった。彼は知っている。この感情が、いつか彼の使命と衝突するであろうことを。だが、止めることはできなかった。
レイナ神官長は、聖域の最も高い塔の窓から、王都の灯りを見下ろしていた。夜風が彼女の黒いローブを揺らし、ジャスミンの香りがほのかに漂う。その香りは、彼女自身の過去の記憶と、現在抱える使命の重さを象徴しているようだった。リリアが王宮での生活に順応しようと努力していることは、彼女の耳にも届いている。貴族の娘たちによる嫌がらせも、隠れた練習も、全て把握していた。
「巫女様は、お強い方ですね」
隣に立つ若い神官が、感嘆するように呟く。レイナは、何も答えなかった。強いだけでは、この運命からは逃れられない。彼女自身が、その証拠だった。彼女の脳裏には、過去の自分が、まさにリリアと同じように、星霊術の研鑽に励んでいた日々が蘇る。あの時の自分は、この世界の「理」を疑うことなど知らなかった。ただひたすらに、巫女としての使命を全うしようと生きていた。だが、その先に何があったか。失われた友、そして決して癒えることのない心の傷。
ある日、レイナはリリアを神殿の奥深くにある「禁忌の書庫」へと招いた。そこは、星神リュカオンの真の教えと、歴代の巫女の運命が記された、極秘の場所だった。湿った空気と、古びた紙の匂いが満ちている。
「光を抱いた巫女は、星を喰らう神アズラーを封じる唯一の存在。しかし、その儀式には、巫女自身の命を対価とする」
レイナは、古びた聖典を指差しながら、静かに告げた。リリアの顔から、血の気が引いていくのが分かった。しかし、彼女は何も言わない。ただ、その瞳の奥に、深い絶望と、それでも消えないかすかな光が宿っているのを、レイナは見抜いていた。その光は、まるで遠い星の瞬きのように、儚く、しかし確かな存在感を放っていた。
レイナは、リリアの震える手を取った。その手は、小さく、そして冷たかった。
「この運命から逃れる術はない。それが、この世界の、星神が定めた『理』だ」
レイナの声は、どこまでも冷静だった。しかし、彼女の心は、激しく波立っていた。本当にそうなのか? 彼女は、心の中で自問する。この残酷な「理」を、本当に受け入れなければならないのか?
「……はい」
リリアは、か細い声で答えた。彼女は、その事実を誰にも言わないと決めた。エマとの平穏な日々を奪われた後、またしても突きつけられる残酷な運命。だが、彼女の心の中には、まだ小さな、しかし確かな炎が灯っていた。「私は、世界のための道具じゃない」という、まだ声にならない叫びが。
レイナは、リリアの背中を見送った。少女の背中は、まるで重い十字架を背負ったかのように小さく見えた。彼女の心の中には、かつて自分が巫女だった頃、同じようにこの「禁忌の書庫」で運命を知らされ、絶望に打ちひしがれた記憶が鮮明に蘇っていた。あの時、自分は運命を受け入れるしかなかった。だが、この子はどうだろう?この子は、私とは違う。その瞳の奥にある光は、ただの従順な道具のそれではない。それは、世界を変えうる、かすかな希望の輝きだった。
「どうか、私の愚かな願いを、お許しください、星神リュカオンよ」
レイナは、誰にも聞こえない声で祈った。その祈りは、神官長としての使命と、一人の人間としての「生け贄」への痛みが入り混じった、禁忌の願いだった。彼女の心は、リリアがこの世界の残酷な運命を打ち破ることを、密かに、しかし強く願っていた。それが、この世界の秩序を乱すことであっても。それは、星神の定めた「理」を、自らの手で覆すという、恐るべき企みの一歩だった。