星の涙と異界の巫女
久留米の夜空は、今日も私を見捨てなかった。たった17年しか生きていないこの世界で、私に残された唯一の光、それがエマだったからだ。リリアは、使い古された毛布にくるまりながら、孤児院の硬いベッドで身を捩っていた 。窓の外からは、遠くを走る西鉄電車の「ガタン、ゴトン」という規則的な走行音と、国道3号線を走る車の微かなエンジン音が、かえって街の静寂を際立たせていた 。風に揺れる電線の「ヒュー、ヒュー」という細い口笛のような音が届く 。湿気を帯びた空気は、カビと埃と、そしてほんの少しの消毒液の匂いを運んでくる 。それは、孤児院の日常そのものの匂いだった 。今日は17歳の誕生日だというのに、特別なことは何もない 。いつもの薄味のスープと、少しだけ焦げ付いたパン 。それでも、隣のベッドで小さく寝息を立てる幼いエマのために、彼女は自分に言い聞かせていた。「これで十分だ」と 。孤児院の暮らしは、常に「足りない」ものばかりだったが、それでも彼女は、ここで生きることを選んだ 。エマが、彼女の小さな星だったからだ 。
「リリア姉、お誕生日おめでとう……」
夢うつつにエマが呟いた 。その小さな声が、リリアの胸に温かいインクのようにじわりと広がる 。彼女はそっとエマの頭を撫でた 。「ありがとう、エマ。私には、お前がいれば十分だよ」と、心の中で呟く。この小さな命を守るためなら、何だってできる 。そう、ずっと信じてきた 。しかし、その夜、空は突如として裂けた 。
まず、窓の外が銀色に輝いた 。それは、街灯の光とも、月の光とも違う、もっと純粋で、もっと圧倒的な光だった 。孤児院の古いガラス窓が、「キィィィィン」と甲高い悲鳴を上げて震えだす 。耳鳴りがするほどのその音に、リリアは思わず耳を塞いだ 。光は次第に強まり、やがて部屋全体を、いや、孤児院全体を、まるで巨大な水晶の中に閉じ込めたかのように包み込んだ 。全身を貫くような痺れが走り、体中の細胞が、まるで泡となって消えていくような奇妙な浮遊感に襲われる 。それは、温かいような、冷たいような、形容しがたい感覚だった 。まるで、魂の輪郭が曖昧になっていくような 。
「な、なにこれ……?」
声にならない叫びが喉の奥で潰れる 。エマの小さな手が、無意識にリリアの服を掴んだ。「怖いよ、リリア姉……」その震える声に、リリアは全身の力を振り絞る。この光は、私たちをどこへ連れて行くのだろう? 遠い昔、母が話してくれた星の物語のように、私たちも星になるのだろうか? そんな荒唐無稽な思考が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。視界が真っ白に染まり、次の瞬間、リリアは意識を手放した 。久留米の夜空は、彼女の記憶から、ゆっくりと遠ざかっていった 。その空白が、新たな世界の始まりを告げる。
与えられた使命を全うする。それが、俺の全てだ。感情は剣を鈍らせる。カイル・ヴァルトは、王都を覆う夜の帳の下、近衛騎士団の執務室で報告書に目を通していた 。硬い木製の机に置かれた蝋燭の炎が、彼の冷徹な横顔を薄く照らす 。外からは、夜番の衛兵の足音と、遠くで響く貴族たちの宴の喧騒が届く 。彼の心は、常に研ぎ澄まされた剣のように冷静だった 。北部の戦乱地帯で家族を失い、生き残るために剣を握った過去が、彼を「道具」にした 。王のため、国のため、与えられた使命を全うする 。それが彼の唯一の存在意義だった 。机の上には、先日届いた北部からの報告書が広げられている 。飢餓、略奪、そして魔物の跳梁 。戦火はまだ燻っている 。
「愚かな……」
彼は唇の端で呟いた 。かつて、彼の故郷もそうだった 。人々は飢え、希望を失い、そして誰もが「救世主」を求めた 。だが、結局は何も変わらなかった 。だからこそ、彼は信じない 。奇跡も、救いも、そして希望も 。あるのは、冷酷な現実だけだ 。彼は無意識のうちに、腰に吊るした剣の柄に指を滑らせた 。その剣は、常に垂直に、地面と平行になるように吊るされており、彼の完璧主義な一面を物語っていた 。その指先に触れる冷たい鋼の感触が、彼の心を落ち着かせる。
その時、執務室の窓の外が、突如として閃光に包まれた 。「ゴォオオオオオオオオ!」という、世界が引き裂かれるような轟音が響き渡り、机の上の書類がばたつき、蝋燭の炎が激しく揺らぐ 。カイルは反射的に窓へと駆け寄った 。王都の夜空を、まるで千の星々が一斉に墜落してきたかのような光の柱が貫いていた 。それは、神殿のある丘の向こうから立ち上り、天を衝く 。
「まさか……星の涙か?」
その言葉は、彼の口から自然とこぼれ落ちた 。千年に一度訪れるという伝説の現象 。「星の涙」――それは、異世界から「光を抱いた巫女」を召喚する兆し 。だが、同時にそれは、忌まわしき「星を喰らう神」アズラーの覚醒をも意味する 。古の伝承によれば、「星の涙」は単なる光の現象ではない 。それは、遠い昔、人々が星神に背き、その均衡を崩した時に、星々の力が歪みとなって顕現したものとされている 。その歪みが、異界の魂を引き寄せ、「光を抱いた巫女」として形作る一方で、同時に抑え込まれていた「星を喰らう神」アズラーの封印を緩め、その力を呼び覚ます触媒となるのだ 。彼の灰色の瞳には、動揺の色が微かに浮かんだ 。巫女が召喚されるということは、再びあの惨劇が繰り返されるということだ 。そして、巫女は、その身を贄とすることでしか、神を封印できない 。過去の戦火の記憶が、まぶたの裏で鮮やかに蘇る。飢え、血、そして絶望。あの時、何もできなかった自分への無力感が、再び胸を締め付ける。
数時間後、夜明け前の薄明かりの中、カイルは王の勅命を受けた 。
「カイル・ヴァルト、貴様には召喚された巫女の護衛を命じる」
王の言葉は、まるで冷たい氷塊のように彼の胸に突き刺さった 。護衛 。それは、巫女を「生け贄」として守るということ 。彼の心に、わずかながら、しかし確かな波紋が広がった 。守るべきは、その命か、それとも世界の秩序か。道具としての自分と、人間としての感情が、胸の中で激しくせめぎ合う。
「承知いたしました」
彼は無感情に答えた 。彼の役割は、巫女がその「役割」を全うできるよう導くこと 。それだけだ 。彼の無表情な顔の奥で、かすかに唇が引き結ばれた 。それは、彼の「道具」としての覚悟と、かすかながら芽生え始めた人間としての葛藤の狭間だった 。
神官長として、私はこの世界の秩序を守らねばならない。それが、たとえどんなに非情な道であっても。レイナ神官長は、聖域の最も奥深くにある「星見の祭壇」で、微動だにせずに立っていた 。漆黒のローブは、夜闇に溶け込み、彼女の存在を一層神秘的に見せている 。祭壇の中央には、巨大な水晶が鈍い光を放ち、その中に、横たわる少女の姿がぼんやりと浮かんでいた 。先ほどまで世界を揺るがした「星の涙」は収まり、今は静けさが聖域を支配している 。漂うのは、清らかな神聖な香りと、微かに焦げ付いたような異界の匂い 。レイナが纏うのは、星神リュカオンに捧げられた、夜露に濡れたジャスミンのような、清らかでどこか儚い香りだった 。
「また、この時が来てしまったか……」
彼女の静かな声が、石造りの空間に響く 。巫女が召喚される度に、彼女の胸には、拭いきれない痛みが去来する 。彼女自身も、遠い昔、巫女として「星の涙」を経験した 。その時、彼女は生き残った 。しかし、その代償は大きかった 。星神リュカオンに仕える神官長として、彼女は世界の秩序を守る使命を背負っている 。その秩序とは、巫女が己の命を捧げることで、星を喰らう神を封じるという、残酷な循環だった 。
水晶の中に横たわるリリアは、まだ幼い顔立ちをしていた 。しかし、その瞳を閉じた瞼の奥には、確かな光の力が宿っているのがわかる 。レイナはゆっくりと少女に近づいた 。
「この子は……」
彼女は、ふと、かすかに笑みを浮かべたように見えた 。それは、喜びとも悲しみともつかない、複雑な感情が入り混じった表情だった 。この少女もまた、自分と同じ運命を辿る 。だが、もしかしたら、この子ならば――。彼女の脳裏に、かつて自身が巫女として、まさにこの祭壇で膝を屈した日の記憶が蘇る 。あの時、彼女は運命に逆らう術を知らなかった 。ただ、世界の安寧のために、己の命を差し出すことだけが、正しいと教えられてきた 。しかし、その選択の先にあったのは、決して癒えることのない深い喪失感だった 。だからこそ、レイナは願う 。この少女が、自分とは違う未来を掴むことを 。生け贄となる運命から逃れ、自らの意思で生きる道を 。それは、星神の教えに反する、禁忌にも近い願いだった 。星神が定めた世界の理を覆すことは、神官長として最も避けねばならぬこと 。だが、もしこの子が、あの時私ができなかった「選択」をしてくれるならば、この世界の歪んだ「均衡」を、本当に打ち破ることができるかもしれない。星神リュカオンの慈悲を乞う。しかし、その慈悲は、この残酷な循環を許容してきた。彼女の内に秘めた、巫女としての深い共感と、一人の人間としての痛みが、その禁忌への扉を、かすかに開けようとしていた 。そんな淡い、しかし禁忌にも近い希望が、彼女の胸に芽生えかけていた 。彼女は、巫女を道具として扱うことの非情さを誰よりも理解していた 。だからこそ、この少女を、この世界の「運命」という鎖から解き放ちたいと、心の奥底で願っていた 。しかし、神官長としての使命が、その願いを押し殺す 。
「カイル・ヴァルトを呼べ。この子の護衛に任命する」
彼女の声は、冷たく、そして決然としていた 。王の勅命は、世界の意思 。それに逆らうことは許されない 。しかし、彼女の心は、激しく揺れ動いていた 。この少女が、その運命を受け入れるのか、それとも…… 。レイナは、水晶に手を伸ばし、リリアの額にそっと触れた 。
「ようこそ、アストレアへ。光を抱いた巫女よ」
その声は、誰もいない聖域に、虚しく響き渡るだけだった 。しかし、その声には、誰にも聞かれることのない、密かな祈りが込められていた 。