第9話 冷たい舞踏会
やがて、エルザが待ち望んでいた舞踏会の日が訪れた。
彼女は緊張を隠せない様子で、どこかそわそわと落ち着かない。
「お嬢様。そんなに動かれては、お化粧が進みませんよ」
「だって仕方がないじゃない。それにリアが手伝ってくれるなら、不格好にはならないでしょう?」
そう。俺は今、エルザの化粧をしている。
本来はロゼッタが化粧を行う予定だったが、他の準備で手が塞がってしまったらしい。
他のメイド達は例によってエルザに直接触れることを恐れ、化粧の手伝いなどは及び腰だった。
そこで当初、エルザ自身が鏡を見ながら化粧をしていた。
だが、外に出る機会が少なかったことから、化粧の技術が疎かになっていたのだろう、未熟な腕前でけばけばしい厚化粧を晒すよりは、先生から手ほどきを受けた俺が代わりに化粧をする方が賢明だったというわけだ。
「ねえリア。どう? 可愛くなってるかしら?」
「ええ、美しいですよ。お嬢様」
紛れもない本心を告げてやる。
すると、彼女はほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「ふふっ。リアがわたくしをどのように仕上げてくれるのか楽しみだわ」
「……ええ、どうぞ期待していてください」
彼女には何度か手鏡を見せて、経過を伝えてやる。
そのたびにワクワクソワソワと、期待と不安に胸を躍らせていた。
「……」
「……」
当然だが、化粧中は自ずと無言になる。
エルザの顔が近い。
うっすらと赤みが差した彼女の頬は、頬紅によるものだけではあるまい。
俺も照れが伝わらぬよう、作り笑顔で応じる。
……うまく隠せているといいが。
エルザの化粧に関して、さほど手間はかからない。
彼女の肌は瑞々しく張りがあるため、植物油を基に錬金術師が仕上げた特製のオイルを薄く塗り、透明感のある肌に仕上げるだけでも十分に映える。
彼女は白粉を使いたがったが、通常の白粉は鉛を含み肌を傷つけるため使わない。
代わりに、最近、錬金術師が発明したという鉛を使わない特別な白粉を手配した。
顔全体を保湿した後、薄く白粉をはたいて肌を整え、唇に淡い色合いのルージュを引き、ブラシで眉の毛並みを丁寧に整え、専用の細筆で僅かに描き足す。
これであらかた完成だ。
まつ毛など、元々目鼻立ちがしっかりしている箇所は、下手に手を加えると却って不自然になるため触らなかった。
実際にエルザが自分のメイクをしたときは変に触ってけばけばしくなっていた。
「リアがやってくれて有り難いわ。舞踏会でも周りに引けを取らないくらい綺麗にしてね?」
「仰せのままに。……仕上がりましたよ。今から鏡をお持ちします」
化粧が仕上がったので、俺はやや大きめの姿見で彼女を映し出す。
彼女は左右に角度を変え、仕上がり具合を吟味しているようだ。
本来、貴族の子供は十歳になる前に、他の貴族との社交の場を兼ねて舞踏会に参加するらしい。
だがエルザは当時まだ肌が弱く、あまり人前に出ることができなかったそうだ。
薬のおかげで肌が日差しにも耐えられるようになった彼女は、今回が初めての社交界へのお披露目となる。
「あら、素敵ね。ねえリア……。いいえ、レオ。どう思う? あなたの言葉で教えて」
しばらくエルザの専属となって分かったことがある。
メイドとしての役割をこなし、当たり障りのないことを言う“リア”としての意見、それとは別に、俺自身の偽らざる意見も聞きたがっているということだ。
その時は決まって俺を“レオ”と呼ぶ。
そう呼ばれた時は、なるべくありのままを率直に伝えるよう努めていた。
そして今回もそうだ。
俺は少し照れながらも、はっきりと告げる。
「……すごく、綺麗だ」
「そう。ならいいわ。わたくしはこれで、少し遅めの社交界に臨むわね」
俺の言葉に自信を持ったのか、彼女は晴れやかな笑顔で頷くと、身に着ける装飾品を選び出す。
「これはどうかしら? 派手すぎないかしら?」
「お嬢様。残念ながら、私の目にはいずれも見事で、優劣がつけられません」
「もう! レオとしての意見を聞いているのよ?」
いくつかの宝飾品を見せてくるエルザ。
どれも複雑で精緻な装飾が施されており、素晴らしい品だ。
率直に言って、どれも似合っている。
俺が口出しするよりも、本人お任せたほうが良いだろう。
「エルザなら、どれでも似合うと思うぞ?」
「それならレオの好みで良し悪しを決めてくれれば、それで良いの」
「そうか……。じゃあ、こっちのネックレスはどうだ?」
俺はエルザの髪色が映えるネックレスを選んだ。
舞踏会がどのようなものか詳しくは知らないが、これなら派手過ぎず、どのような場でも浮くことはないだろう。
「そう、ならこれにするわ」
選んだネックレスを身に着ける。
俺が手伝えるのはここまでだ。
あとはメイドのロゼッタに引き継ぎ、俺は馬車の手配状況など諸々の確認に回る。
「それでは、私は馬車の手配と……あとは先生がお持たせになるよう仰っていた荷物を受け取り、確認してまいります」
「ええ、よろしくね。……ねえリア」
「いかがなさいましたか?」
「今回の舞踏会、大丈夫かしら? 上手く皆さまの輪に溶け込めると良いのだけれど」
不安そうに問いかけてくるエルザを見て、俺は内心、微かに動揺を覚える。
先生などから聞く限り、彼女と同年代の子供たちは数年前に他の貴族との関係性を構築しているだろう。
両親の家格や事業など、互いに貴族社会の利害に基づいた関係性が築かれている中で、新たに輪に入るのはなかなかに骨が折れるに違いない。
だが、それでもエルザには同年代の友人ができてほしいと願う。
そのため俺はエルザの期待に応えるべく、内心の不安を押し隠し、満面に笑みを湛えて応えてやる。
「きっと素敵なお友達ができますよ」
「ええ、そうよね! くよくよ悩んだって仕方がないわ」
「ええ、お嬢様は大変魅力的ですからね」
「……もう! からかってばかり!」
顔を赤くした彼女は、ぷいと顔を背けてしまう。
不安を膨らませているよりは、今のほうが良いだろう。
本当に、このお嬢様には良い友人ができてほしいものだ。
***
お嬢様とともに馬車に乗り込み、目的の邸宅へと向かう。
到着したのは、とある子爵家の壮麗な邸宅だ。
日が傾き、夕陽に染まる庭園はとても静かで幻想的だった。
エルザは仕立ての良い美しいドレスに身を纏っている。
今日行われる舞踏会では、子供たちのダンスが先に行われ、夜に大人たちのダンスがあると聞いている。
大人たちのダンスに俺たちが参加することはないので、親交を深めた後は適当なところで館を去る予定だ。
俺はメイドとしてエルザが日の光に直接当たらぬよう、日傘を差し掛けてエスコートし、会場へ付き添う。
主催者側の使用人たちに案内されて、俺達は会場の中へと足を踏み入れる。
会場には、色とりどりのドレスや豪奢な装飾品を身に着けた貴族たちが集い、華やかな雰囲気に満ちていた。
幾人かがこちらに視線を送ってくるが、特に興味もないのか、すぐに自分たちの談笑に戻っていく。
「おや、見慣れぬお顔だね。失礼だが、どちらの御家の方かな?」
声をかけてきたのは、俺たちよりも年嵩の若い男だ。
おそらく他の子供の付き添いで、夜に行われる大人たちのパーティーに参加するのだろう。
エルザは男を見上げ、恭しく一礼する。
「お初にお目にかかります。わたくし、ローソゼル家のエリザベートと申しますわ」
エルザが自己紹介し頭を下げたその一瞬、優男の表情が嫌悪で引き攣ったのが分かった。
だが、それも一瞬のことであり、すぐに柔和な表情を取り戻す。
……良かった。この男の変化にエルザは気づいていないようだ。
「……ああ。貴族の方々には広く招待状をお送りしておりました。私はリュミオン家のカラバルと申します。大公のご令嬢とは存じ上げず、ご無礼をいたしました」
「……まあ! 侯爵家の! ……こちらこそ、長年病に伏しておりました故、お顔を存じ上げなかった非礼、お詫びいたしますわ」
エルザとカラバル侯、二人は丁重な挨拶を交わし、当たり障りのない世間話へと移っていく。
俺には詳しくは分からないが、貴族社会ならではの力関係が存在するのだろう。
「ところで大公……お父上はどちらに?」
「残念ながら執務多忙とのことで、此度の舞踏会へのご参加は叶わないとの仰せでしたので……」
「さようでございましたか……。それでは今度よろしくとお伝えください。私はこのパーティーが万事滞りなく進むよう取り計らっております故。どうぞ、ゆっくりとお楽しみいただけますよう」
……カラバル侯は話を早々に切り上げ、軽く礼をして足早に去っていく。
彼は、なぜか去り際に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
なんだか不穏なものを感じる。
そして、男が去ってしばらくしてからのことだ。
妙にこちらへ注がれる視線が増えた。
好奇と嫌悪、双方の念が入り混じった視線がエルザに向けられている。
俺はその視線を遮るように、エルザのそばを歩く。
その様子を見たエルザは優しく微笑み、俺にだけ聞こえるよう囁いた。
「リア、大丈夫よ。私は何も気にしていないもの」
「お嬢様……」
「私に関して、皆さんは色々と誤解があるかも知れないけれど、少しずつ話をしていけば誤解は解けるものだわ」
だから、心配しないで。
そう声にならぬ声で囁いた彼女は笑って、同年代の子供たちがいる輪へと近づいていく。
使用人の身分で、何の関係もない貴族の集まりに不用意に近づくのは差し控えるべきだろう。
俺は少し離れて、お嬢様を見守るに留めた。
当初エルザは、他の子供たちとも、最初は問題なく話をしていた。しかし、彼女が自分の家名を名乗ると、ある時は困惑したように、またある時は苦々しげな表情を浮かべ、しばらくするとエルザから距離を置く。
代わりになぜ、これほどまでに距離を置かれるのだろうか。
俺はその理由を探るべく、エルザに視線を送る者たちに、そっと近寄って彼らの雑談に耳を傾けてみる。
――あのような大貴族のご令嬢が、なぜ今になって?
――ほら、例の、あの病のことだろう……。
――ああ。それ故に、あのご令嬢は継承権を持たず、大公からも半ば見放されていると聞く。
――それで自ら派閥を形成しようと? それとも大公の派閥への誘いか?
……いくつかの話を聞く限り、どうやら家格の低い貴族たちにとって、エルザの行動は派閥への勧誘と受け止められているようだ。
おそらく彼女の持つ家柄、ローソゼルという家名、その威光が強すぎるのだろう。
すでに別の派閥に属している弱小貴族達からは敬遠される一方で、同じローソゼル公の派閥に属する者たちからは、何の後ろ盾もない令嬢として軽んじられているようだ。
結果、どの派閥からも孤立している。
そして何よりも、その病のことが広く知れ渡っており、そこから生じた差別意識が、状況をさらに悪化させている。
この差別意識は、屋敷のメイドたちの比ではない陰湿さだ。
……まさかこれほどとは。どうすべきか。
俺は窓の外に目をやりながら思案する。
西日に肌を晒すわけにはいかないので、遠目に眺めることしかできないが。
ふとそこで、見知らぬ貴族の一人が不審な動きをしているのに気づいた。
メイドに命じて懐から何かを取り出させている。
あれは……手鏡だろうか?
化粧直しであれば、控えの間で行うはずだが……?
その貴族は手鏡を太陽光にかざして反射させた。
そしてその光を、だんだんと奥へと巧みに伸ばしていき――。
……まさか!
「きゃあっ!!」
「お嬢様!」
伸ばした光がエルザの頬を掠めるように触れ、彼女は思わず顔を手で覆った。
……しまった。間に合わなかったか!
「お嬢様! お顔は大丈夫ですか!?」
「リア……。ええ、大丈夫よ、このくらい」
エルザは頬を手で押さえながら、気丈に振る舞う。
先ほどの光。あれはエルザの病気を知ったうえで、意図的にやったものだろうか。
だとすれば悪戯にしては悪質すぎる。
窓の方に視線を再び向けるが、光を反射させた貴族はその場からすでに姿を消していた。
遠巻きにこちらを窺う者たちの囁き声だけが、やけによく聞こえる。
――やはり、噂の病が……。
――なぜこの場に姿を見せたのだ。
――ああ、構うものか。大公もあのご令嬢を長らく屋敷に閉じ込めていたのだ。非はあちらにある。あれくらい、どうということはあるまい……。
周囲の囁き声が耳障りだ。
今はそのような雑音よりも優先すべきことがある。
「お嬢様。お顔を拝見してもよろしいでしょうか?」
俺はそっとエルザの手をどけると、光が触れた箇所を見定める。
……赤く腫れ上がっているな。
「大丈夫です。これくらいでしたら、すぐにお治りになりますよ」
そう。理由は分からないが、俺たちはこの程度の傷ならば、たちどころに癒える。
少し休めばこの腫れもすぐに引くだろう。
最悪、化粧で隠せばいい。
俺たちは手当てと化粧直しのため、ひとまずその場を離れた。
「お嬢様」
「大丈夫よ。些細な事故はつきものだわ。きっと、私の運がなかったのでしょう。……どなたかの鏡が光を反射して、偶然にも私に当たってしまうなんて、ついてないわね」
今回の件、誰かの悪意によるものであることは疑いようがない。
だが、その事実を……、人の善性を信じようとするお嬢様に告げる気にはなれなかった。
だから、俺はお嬢様に嘘を重ねる。
「……そうですね。偶然、お嬢様に当たってしまったのでしょう。さあ、そのようなことより、まず治療を優先いたしませんと」
「そうね。その通りだわ」
「少し腫れが引きましたら、改めてお化粧を直します。そうすれば何事もなかったように見えますので、化粧が終わったらあの場へ……」
そう言いかけて、ふと言いよどんでしまう。
あの場所へ戻る事が、本当に最善なのだろうか。
俺は一瞬、彼女を再びあの場所へ連れて行くことに、躊躇いを覚えた。
そんな俺の心の揺らぎに気づいたのか、彼女は俺の頬にそっと手を添える。
「私は大丈夫よ。そんな、つらそうな顔をしないで」
優しく、そう語りかけてくる彼女。
しまった。余計な心配をさせてしまった。
……本来、俺が気を使わせないよう、振る舞わなければならないのに。
俺は改めて表情を取り繕う。
「失礼いたしました。改めてお化粧をいたしましょう。今以上に美しく仕上げてご覧にいれますよ」
「ええ、期待しているわ」
「任せてください。私は貴方のモノですから」
彼女は俺が傷ついていると、自分も傷ついたように感じるようだ。
彼女を傷つけないために、俺も強くならなければ。
化粧直しも終わり、再びパーティー会場へと戻る。
まもなく、社交ダンスが始まる時刻だ。
エルザが心待ちにしていた時間に間に合ったのは、不幸中の幸いと呼ぶべきだろうか。
「じゃあ私、行ってくるわね」
「ええ。素敵な方が誘ってくださることを願っていますよ」
最初の数曲は、年若い少年少女のためのダンスの時間だ。
それが今、始まろうとしていた。
やがて楽隊の演奏が始まるとともに、少年が少女に声をかけ、踊り始める。
一人、また一人と、対になって踊り始める中で、最後まで誰からも声をかけられず、壁際にぽつんと佇む少女がいた。
……エルザだ。
彼女に話しかけようとする者はなく、たまに視線が合ったとしても、「申し訳ありませんが、先約がありますので」と、やんわり断られてしまう。
そうして、誰と踊ることもないまま、一曲目が終わる。
二曲目も、状況は変わらない。
エルザは周囲を見渡すが、視線を合わせるどころか、近づこうとする者すら現れない。
壁際にただ一人佇んだまま、やがて彼女は誰に声をかけるでもなく、力なく俯いてしまった。
……これ以上は、見ていられない。
まもなく、子供たちのための最後の曲が始まる。
その前に、何とかしなければ。
俺は誰にも気づかれぬよう、そっと会場を抜け出した。