第8話 舞踏会への誘い
お嬢様の世話係にも慣れ、ほんのりと汗ばむような陽気へと移り変わろうとする頃。
お嬢様の元へ、珍しく手紙が届いた。
「あら、どなたからかしら。……まあ!」
彼女は届いた手紙に目を通し、ぱっと顔を輝かせた。
一体、どのような手紙だろうか。
不思議に思って手紙を見つめていると、俺の視線に気づいたのか、嬉しそうに手紙をこちらに見せてきた。
「見て! 舞踏会への招待状ですって!」
「舞踏会……ですか? 紳士淑女の華やかな社交の場だと伺ってはおりますが……」
「そうよ! 私もお招きいただいたの。そこへ行けば、きっと同年代の方々と知り合いになれると思うわ。仲良くなって、お茶会なんかにお招きしたり、されたり……できるかもしれないわね」
エルザは、招待状を大切そうに手に持ち、その大きな瞳で手紙を見つめている。
どこかそわそわ、わくわくとしていて、喜びを抑えきれない様子だ。
……そういえば、彼女はこの屋敷からほとんど外へ出ることがなかった。
それに、俺が仕えている間、訪ねてくる貴族もいなかったな。
病のこともあり、貴族社会から距離を置かざるを得なかったのだろうか。
「それはようございましたね、お嬢様。ところで、舞踏会へ向けて、どのような準備をなさるのですか?」
「何もかもよ。ダンスの練習から、お化粧まで、しっかり気合を入れなくちゃ!」
「お化粧……でございますか。たしかに、お嬢様はあまりお化粧をなさらないと思っておりましたが……」
必要な折には、メイドのロゼッタが最低限、簡単な化粧を施す。
だが、本格的な化粧をしているのは見たことがない。
ダンスも同様だ。
これから練習していくのだろうが……このお嬢様は、果たして踊れるのだろうか?
「ダンスもそうですが、お嬢様は、そのあたりの手ほどきをお受けになった経験は?」
「前に、少しだけ……ね。でも、先生に改めてご指導いただくから大丈夫よ」
先生頼みか……。先生なら、きっとなんとかしてくださるだろうが……。
なんとなくだが、俺も巻き込まれそうな、嫌な予感が胸をよぎる。
ちょうど、もうすぐエルザの勉強時間だ。
先生がまもなく来るだろうから、その時に確認してみるか。
しばらくして先生が姿を見せると、エルザは挨拶もそこそこに、さっそく舞踏会の話を切り出した。
「――というわけですわ。先生、もしよろしければ、わたくしに再度、ご指導いただけないでしょうか」
「構いませんよ。私でよろしければ、お教えできる範囲でお力になりましょう」
「やった! ありがとうございます、先生!」
先生の反応は、実にあっさりしたものだった。
一方で、その穏やかな視線はなぜか私に向けられている。
先生はいつもの微笑みを浮かべたまま、一切表情を変えていないはずなのに、なぜかニヤリと口角を上げたように見えた。
……ますます、嫌な予感がする。
「ただし、私もこのように歳を重ねてしまいました。何度も練習にお付き合いするのは難しいですので、踊りのお相手はリア、あなたにお任せしますね?」
「えっと……今、何と?」
「ダンスにはお相手が必要ですわね。リア、貴方に男性役を務めていただきます。社交ダンスの基礎なら、過去にお教えしていますから、問題はないでしょう?」
確かに俺は、先生のもとに住み込みで、様々なことを教わった。
教わった事の中には、たしかにダンスの基礎も含まれている。
「お教えするのは構いませんが……基礎しか知らぬ私がお相手するより、先生が直接ご指導されたほうが、早く上達なさるのでは?」
「先ほども申し上げました通り、私には体力の問題がございます。リア、貴方が彼女をエスコートしてあげてください。私はそばで見守っておりますので、おかしなところがあれば、その都度指摘いたしますよ」
なにより改めて経験を積んでおくのも、貴方のためになりますよ、と先生は付け加えた。
なにか反論をしようと先生の顔色を窺うが、ニコニコと表情を崩さないまま、こちらを見ている。
……テコでも意見を曲げる気がない時の表情だ。
この婆さん、俺が照れながら踊る様子を観て楽しもうというのか。
あるいは、ついでにダンスをさせることで、俺の教養を再確認しようとでも考えているのだろうか。
先生の企みに付き合うのも癪だな。
エルザから、なんとかこの話を断ってもらえないだろうか。
俺はこっそりとエルザに視線を送ると、彼女はにっこりと頷いた。
「分かりました、先生! さあリア、わたくしと踊りましょう」
「あらあら。残念ですが、エルザ様は誘う側ではなく、誘われる側ですよ。ダンスのお誘いは、殿方からするものでございます」
……これは無理そうだ。完全にダンスをやらされる流れになっている。
「そういえばリア、貴方の燕尾服もご用意してあります。このような時くらいは、こちらを着て踊ってみてください」
先生はどこからともなく服を差し出してくる。
……どうして、男物の燕尾服が用意されているんだ。
しかも、あつらえたように、俺の体型にぴったりと合っている。
先生にちらりと目をやる。
「こんなこともあろうかと思いまして」
「左様でございますか。でしたら、普段のお仕事もこれで……」
「ご冗談を。メイド服をあえてお召しになる事情は、お伝えしたでしょう? 今回はたまたま、おあつらえ向きの服があった、それだけのことですよ」
そうはぐらかされてしまった。
……まあ、いいか。
婆様の思い通りになるのは癪だが、仕事中に堂々と男の姿に戻れるのは、決して悪いことじゃない。
俺は言われるがままに着替えた後、姿勢を正し、エルザに対し優雅に手を差し出す。
「お嬢様。よろしければ、私と一曲、踊っていただけませんか?」
「……ふふっ、レオから誘われるなんて、なんだか不思議な感覚ね。……はい、喜んで」
エルザも照れ臭かったのか、ほんのり頬を染めながらも、そっと俺の手を取ってくれた。
婆様が軽やかに手拍子でリズムをとり、それに合わせて、俺たちはおそるおそるステップを踏んでいく。
「痛っ……」
「あっ、ごめんなさい。踏んでしまったわ」
「いや大丈夫だ……」
やはり、慣れない者同士では、どうもタイミングが合わない。
足元に気を取られると、手や首の位置が疎かになる。
……かつて、婆様に手ほどきを受けていた時は、婆様が実に巧みに俺をエスコートしてくれていたのだと、今更ながらよく分かる。
くそっ、負けていられるか。
それからも、互いに足を踏んだり、踏まれたりしながらも、婆様の的確な指導を元に、足運びや目線の位置を一つ一つ修正していった。
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「今日は、ここまでにいたしましょう」
先生が終わりの合図を告げる。
気がつけば、外は茜色に染まり、太陽が地平線に傾いていた。
「今日はお二人だけで踊るだけでしたから、問題ありませんでしたが、本番で慣れていないと、周りの方々にぶつかってご迷惑をおかけしてしまいますからね。何度も足運びを練習することが肝要です」
「意外と難しいですね……」
普段であれば、すぐに片付けの準備に入るエルザだが、まだどこか名残惜しそうにしている。
……まだ続けたい様子だ。ずいぶんと練習熱心だな。
そう考えていると、こちらをチラリと窺ってきた。
……手伝って欲しい、ということだろうか。
とりあえず、小さく頷きを返しておく。
「先生、わたくしたちは、もう少しだけ練習いたします」
「それは素晴らしい心がけです。それでは私は先に戻りますが……あまり無理はなさらないよう、お気をつけください」
先生は挨拶をすると、いつものように居住用の館へと戻ってしまった。
俺も、もう少ししたら厨房へ行って、エルザのための食事を受け取ってこなければならないが……。
だが、今は練習に集中しよう。
俺たちは、二人きりで再びステップを踏む。
先生がいなくなり、無音での練習となったが、互いに体でリズムを感じ取りながら何度も練習を重ねた結果、最初のように互いの足を踏むことは、ほとんどなくなっていた。
「ねえ、リ……レオ。わたくし、だいぶ上達してきたのではなくて?」
「……そうだな。最初の、ステップも覚束なかった頃に比べれば、格段に上達している」
「これもレオのお陰ね。前に教えていただいた感覚を、少しずつ取り戻して来たわ。ふふっ、ありがとう」
その屈託のない笑顔を見た瞬間、俺の顔がかっと熱くなる。
何故だろう。歯が疼く。
エルザに噛みつきたい。
抗いがたい、そんな衝動が、俺の内奥から湧き上がってきて――。
「お二人とも、ずいぶんとお上手ですね」
……不意に、背後から声をかけられた。
はっと振り向くと、ロゼッタがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「リアさん、なかなか様になっていますねー。髪の毛をきちんと整えれば、完全に男の子に見えるんじゃありませんか?」
「あ、ああ。これは、その……」
「ロゼッタも、案外似合うかもしれないわよ?」
一瞬だけ狼狽えた俺の言葉を継ぐように、エルザが機転を利かせてくれる。
……不意を突かれたおかげだろうか。
あれほど激しかった血を吸いたいという渇望はどこかへ消え、冷静さを取り戻すことができた。
ロゼッタに目をやると、彼女は相変わらず楽しそうにこちらを観察している。
……いまのところ、こちらの事情に気づかれた様子はなさそうだ。
「残念ですが、わたくしは異性の服を着るような特殊な趣味は持ち合わせておりませんのでー」
「そうだな……、いや、そうですね。はは、は……」
地味に傷つくことを言われた。
仕方のないこととはいえ、毎日メイド服を着ている俺が、まるで変態みたいじゃないか。
「でも、わざわざ男物の服までご用意なさるなんて、ずいぶんと本格的ですね」
「ええ。先生が用意してくださったの。案外、形から入るのも悪くないものよ。練習の間はしばらく、この格好をしてもらうつもりだわ」
「護衛の方との訓練といい、まるでリアちゃんを男の子として扱ってらっしゃるのでは? こんなに可愛らしいのですから、ちゃんと女の子として扱ってあげたほうがよろしいですよー?」
「あら? リアは立派な殿方としても、ちゃんと振る舞えるのよ?」
「男の子」という単語に、一瞬ドキリとしたが、エルザは笑って受け流す。
……このあたりの駆け引きは、彼女の方が一枚も二枚も上手だ。さすがは貴族としての教育を受けているだけある。
「はいはい、それじゃあ、わたくしはこれで失礼しますね。リアちゃんが変な趣味に目覚めるようなことを、祈っていますよ」
そんな捨て台詞を残して、彼女は軽やかに去っていった。
どうにかロゼッタに気づかれることなく、うまく振る舞えたようだ。
やがて、俺たちは互いの顔を見合わせ、くすくすと笑いあう。
「少し、ドキドキしたわ」
「ああ……。一瞬、見破られたのかと思って、冷や冷やしたぞ」
「でも、なんだか楽しかったわ。舞踏会が終わっても、時々こうしてダンスの練習をしましょうか?」
「……考えておく」
蠟燭の灯りがほのかに照らすなか、ほのかに頬を染めたようなエルザと、まるで悪戯の相談をするかのように、小さな秘密の会話を続ける。
まだ僅かに歯の疼きを感じる中で、ひっそりと交わされるその会話は、まるで悪だくみの共犯者を得たような、なんとも言えない高揚感をもたらしてくれた。