第7話 日常
エルザの世話役になって、早くも二ヶ月が過ぎた。
当初は不慣れだったこの務めも、気がつけば部屋の清掃から話し相手まで、あらゆる雑事に手慣れている。
今日もまた、エルザの話し相手となりながら、掃除を黙々とこなしている。
「ねえ、今日の夕食はどのようなものかしら?」
「本日はまだ確認しておりませんね……。これから料理長にお尋ねしてまいります」
「いいのよ。あの人もお忙しいでしょうから」
「料理長は、昼食もしっかり召し上がっていただきたいと申しておりましたよ」
「それは無理な相談ね。お昼をいただいたら、一週間はお腹がいっぱいで何も食べられなくなってしまうわ」
彼女がこうした話題を振るのは、別に食事がしたいからではない。
彼女にとって、気兼ねなく言葉を交わせる相手は貴重であり、ただ純粋に会話そのものが楽しいからだ。
もちろん、誰がどこで聞き耳を立てているか分からないので、エルザと俺、双方とも互いにふざけ過ぎぬよう、常に気を配ってはいるが。
話が途切れそうになると、すぐに彼女は別の話題を振ってきた。
「それより、習っている護身術のほうはいかが? 順調に学べているかしら?」
「そちらはもう、万全に」
「そう。それなら良かったわ。あの人に指導料を払っている甲斐があるというものね。今日も稽古に行くの?」
「ええ。今の仕事が片付きましたら、向かう予定です」
俺はエルザの勧めで、護衛の一人から稽古をつけてもらっている。
俺が万が一拐われたりすると困るから備えておくように、というのが彼女の考えだった。
……俺なんかよりもエルザのほうが、よほど可愛らしい顔立ちだと思うのだが。
ただ護身術を学んでおくことは自衛のためにも、ひいてはエルザを守るためにもなる。
悪いようにはならないだろう。
諸々の仕事を手際よくこなして、稽古をつけてくれる護衛のおっさんに会いに行く。彼は俺が来るのを待っていたようで、目が合うとそれまでの紳士的な表情から一変して、獰猛な笑みへと変わった。
このおっさんは、メイドのロゼッタと同様に、俺の……いや、俺たちの病のことを意に介さず、偏見なく接してくれる、数少ない理解者の一人だ。
「今日も来たか、銀髪ちゃん」
「はい、よろしくお願いいたしますね。バロムさん」
「……俺はお前さんの性別だって知ってるんだぜ。気色の悪い話し方はよせやい。その胡散臭い作り笑顔もな」
「ただの意趣返しだよ。俺を銀髪のお嬢ちゃんなどと呼ぶおっさんへの、ささやかなね」
作り笑顔を引っ込めた俺の様子に、おっさんも満足したようだ。
館での生活で栄養状態が改善されたためか、俺の髪には艶が出てきた。
蠟燭の灯りが反射する様子が銀色に見えることから、俺はこのおっさんに銀髪ちゃんと呼ばれることがある。
おっさんはかなりの大柄で、執事風の服装こそ身に纏っているが、その下には鋼のように鍛えられた筋肉が隠されている。
服装をもっと粗野なものに変えれば、山賊と見紛うばかりだろう。
「おっさんは相変わらず逞しいな」
「おっさんはよせ。俺はまだそんな歳じゃねえ。それに坊主こそ、近頃はずいぶんと体つきがしっかりしてきたじゃねえか。路上でぶっ倒れてた頃は、すぐにでもくたばると思ってたんだがな」
「料理長とバロムさんのおかげで、健康管理は万全だよ。感謝してるさ。だけど坊主はよしてくれ」
おっさんは、俺とエルザが初めて出会った時に居合わせた、従者を兼ねた護衛だ。
かつては名の知れた剣士だったらしいが、腕の怪我をきっかけに、エルザの家に仕えるようになったと聞く。
このおっさんは、エルザが外出する時くらいしか表立った仕事がない。
そのため暇を持て余していたらしく、俺との手合わせを心底楽しんでいるようだ。
「さあ、かかってきな、銀髪ちゃん」
「それでは行く……ぜ!」
おっさんとの模擬試合は、学ぶべきことが多い。
せめて一撃でも入れたいと、不意を突くように顔面へ拳を叩き込んでも軽々と躱され、せいぜい掠める程度で終わるのが、最近の悩みの種だ。
「相変わらず、バロムさんは俺の攻撃を受けてくれないな!」
「ガキ相手に負けてちゃ、護衛なんて務まらねえだろうが。掠めるだけとはいえ、俺に一撃入れられるてめぇは、なかなかの筋だぜ」
「お世辞は結構だ。俺は、お嬢様から強くなるように命じられてるんだからな」
「へっ、俺が世辞なんざ言うと思うか? その子供離れした筋力とセンス、日が陰ってるときしか稽古をつけてやれねえのが、勿体ねえくらいだぜ」
最初の一撃以降は掠りもしない。おっさんは、同じ人間とは思えぬほどに、動きが洗練され、無駄がない。
エルザとの会話中に、「貴族が外出して拐われたりしないのか?」と、尋ねたことがある。その時、彼女はくすくすと笑って「大丈夫よ」と答えるだけだった。
その時は、なぜ彼女が笑うのか理解できなかったが、今ならよく分かる。
エルザが外出する際には、必ずこのおっさんが護衛につく。
そこいらのチンピラでは、到底相手にならないだろう。
そう考えると、ある意味で、屋敷でメイド達の悪意に囲まれているより安全なのかもしれない。
「しかし、坊主が男で、俺は正直嬉しいぜ? この館は女が多すぎるくらいだからな」
「それは、どう……も!」
おっさんの突きをかろうじて躱しながら、言葉を返す。
おっさんとは、もっぱら稽古をしながら会話を交わす。
稽古中なら誰かに話を聞かれる心配もないから、というのが彼の言い分だ。
こうして、俺たちはしばらくの間、日常会話と稽古を兼ねた奇妙なコミュニケーションを続け、やがて俺が力尽きて膝をつくまで、それが続く。
「ふう……。いい汗かいたぜ。俺が稽古をつけられねえ時も、自己鍛錬は怠るんじゃねえぞ」
「ありが……とう……ござい、ます……」
俺は息も絶え絶えで、まともに返答することすら叶わなかった。
礼を述べるのが精一杯だ。
それに比べて、このおっさんは息一つ乱していない。
……まだまだ遠い存在だ。
稽古を終えた後は、夕食の準備だ。
時間になると、給仕として食事をエルザの部屋まで運んでいく。
「――でね。あの子が……」
「――へえ、じゃあお嬢様も……あっ」
運ぶ途中、メイド達が小声でひそひそと雑談をしていた。
俺が静かに会釈を送ると、彼女たちははっとしたように口をつぐんだ。
お嬢様がらみの噂話をしているのを見かけるたびに、こうして無言の威嚇を続けていたためか、あるいは病への忌避感からか、ロゼッタ以外のメイド達は、ほとんど俺に話しかけてこない。
だが、俺が男であることを隠している身としては、それはそれで都合が良い。
お嬢様をお待たせするわけにもいかないので、俺はそそくさとメイドたちの横を通り過ぎていく。
料理長から料理を受け取った俺は、食事をエルザの自室へと運ぶ。
この館には、立派な食事用のホールがあるのだが、エルザはそこをあまり使おうとしない。
部屋が広すぎて人が少ないと、寂しさを覚えるからだそうだ。
それゆえ、もっぱら食事は自室に運ばせ、それを俺は傍らで眺めながら、エルザの会話相手を務めるのが常となっている。
エルザの部屋に着くと扉を軽くノックし、返事を待ってから中に入る。
部屋に入ると同時に、エルザが明るい声で話しかけてこられた。
「いらっしゃい。今日はどのようなお料理かしら?」
「季節の野菜スープと、魚のムニエル、それから鹿肉のステーキでございます」
「ありがとう。今日もご馳走ね。料理長に感謝していると伝えておいてくださる?」
「承知いたしました。さあ、冷めないうちにお召し上がりください」
料理をエルザの前に手際よく並べると、彼女は実に美味しそうにそれを口に運ぶ。
昼食は全く召し上がらないか、食べてもスコーンをほんの僅かに齧る程度だが、夜はしっかりと料理を完食される。
おかげで、健康面での心配はなさそうだ。
「リアも一緒に食べられたら良いのに」
「お嬢様と使用人が同席して食事をとる事は、よろしくありませんから」
エルザは残念そうに俺を見つめるが、それを認めるわけにはいかない。
それにもし万が一俺が頷いて、それがどこかで聞き耳を立てているメイドにでも聞かれたら、面倒なことになるのは目に見えている。
エルザもそれは承知のうえなので、それ以上追求はしてこない。
夕食を終える頃には、日も暮れ、部屋が薄暗くなってくる。
俺はお嬢様の部屋にあるランプに火を灯した。
ランプの柔らかな光が揺らめき、部屋を暖かく照らす。
夜は、俺たちにとって安らぎの時間だ。
忌まわしい太陽の光から解放されることもそうだが、何よりメイドの数が減ることが大きい。
昼間はメイドの数も多いが、夜はその半分以下になる。
特に深夜は、警備要員としてわずか数人が残るのみだ。
だが、人が減ったら減ったで、エルザは寂しさを覚えるようだ。
食事を片付けた後は、話し相手として、エルザの部屋で共に過ごすことを求められる。
その時に試しに本を朗読して聞かせたところ、ことのほか気に入られたらしく、最近は寝る前に本を読み聞かせるのがすっかり日課になった。
「今日も『吸血鬼ドラクル・ローソゼル』のお話の続きをお願いするわ」
「はい、お嬢様。……お嬢様は、ご先祖様を題材にしたお話がお好きですね」
「当然よ! それに私だけじゃないわ。ロゼッタも、この物語は好きなのよ?」
「……どちらかと言えば、女性好みの内容かと存じます」
「貴方も、今は女性なのですから、頭に入れておくくらいはしておいてね?」
「吸血鬼の主人公が、姿を霧や動物に変身させたりするところまでは、まあ覚えられるのですが、どうにも恋愛事は苦手でして」
どこか戯けるように言う彼女に、私は苦笑しながら頷き、物語の続きを読み進める。
この本は、数百年前に実在したという、エルザのご先祖様を題材にした小説だ。
その話はおとぎ話としても広く知られており、俺も概要だけは知っている。今読んでいる小説の方は、さらに詳細に、強大な力を持つ吸血鬼の魔法使いが、貴族として頭角を現していく中で、運命の妻との出会いと別れを描いた、壮大なヒューマンドラマに仕立て上げられている。
この話を何度か読み聞かせているが、エルザは一向に飽きる様子がない。
よほどこの物語がお気に入りなのだろう。
俺は本を開き、先日読み進めた箇所から、朗々と読み上げる。
なるべく臨場感豊かに、という要望に応じて、大仰に、芝居をするかのように読み上げてやると、大変好評だった。
「“おお、我が妻よ。お前なしで、私はこれからどうすればいいのだ。死にゆくお前を救う手立ては、本当にないというのか” そう嘆きながら、ドラクルは妻のか細い肩へそっと牙を突き立てます。それは、冷血公と恐れられたドラクルの、妻への偽らざる愛情を表すものでした――」
――しばらく読み進め、ふとエルザの方へ視線を向けると、彼女は眠気でコクリ、コクリと顎を揺らし、夢の世界へと旅立ちかけていた。
……どうやら、今日はここまでにした方が良さそうだ。
「お嬢様、続きはまた明日にいたしましょう。お疲れのご様子ですので、ゆっくりおやすみください」
「うん、そう……。じゃあね……おやすみ……」
ベッドで眠そうに、上の空で返事をするお嬢様を、そっと寝かしつける。
これで、本日の最後の仕事は終わりだ。
俺は音を立てぬよう細心の注意を払いながら、ランプの火を吹き消し、部屋を出る。
部屋の外では、ロゼッタが待機しており、俺に気づくと話しかけてきた。
「いつもご苦労さまです」
「ロゼッタさんこそ、ずっと立っているのもお辛いでしょう。別に私の部屋で待機していただいても構いませんのに」
「おや? わたくしの部屋へのお誘いですか。もしリオさんが殿方だったら、そういう意味かと勘違いしてしまいますよ?」
「……残念ながら、そのような特殊な趣味は持ち合わせておりませんので」
一瞬だけドキリとしたが、これはロゼッタのいつもの冗談、からかいだろう。
俺としても、あまり触れられたくない話題なので、これ以上追求はしないでおく。
まあ、部屋の前に控えている理由は、薄々感づいてはいる。
おそらく俺たちの行動を、やんわりと監視しているのだろう。
……面白くはないが、別に実害があるわけではない。
俺は今日一日の出来事を、かいつまんで報告する。
「はい、いつも通りの平穏な一日ですねー」
「ええ。何事もないことが、一番良いことかと存じます」
「まあ、そうなんですけど、報告を受けている身としては少々退屈で……」
そう言いながら、彼女はあくびを噛み殺すような仕草をした。
「わたくしも眠いので、今日はこの辺で失礼しますねー。……今後、特に代わり映えしないようであれば、報告は週に二回程度に減らすことも検討してみますー」
「はい、私はどちらでも構いません」
そろそろ監視の目が緩みそうだ。
あまりがっついている様子を見せるのは得策ではないので、適当に相槌をうっておく。
俺はロゼッタを見送った後、自分の部屋へと戻った。
こうして、俺の長い一日は終わりを告げる。
貧民街にいた頃とは比較にならない、満たされた忙しさと、確かな安全が保障された日々。
俺は生まれて初めて、自分の人生が充実していると、そう感じていた。