最終話 吸血貴族の愛し人
処刑の朝は、異様なほどの静けさの中で訪れた。
夜明け前の冷たい空気の中、私は衛兵たちに連れられ、王都の外れにある処刑場へと引き立てられた。
石畳を踏む衛兵たちの足音だけが、不気味に響き渡る。
処刑場の中央には、古びた木製の十字架が、まるで巨大な墓標のように立っている。
私は、抵抗することなく、その十字架に両腕を広げられ、冷たい縄で固く縛り付けられた。
東の空が、徐々に白み始めていく。もうすぐ太陽が昇る。私を焼き尽くす、あの忌まわしい、しかし今はどこか懐かしくもあるあの光が。
早朝にもかかわらず傍聴席には、貴族たちの姿が見えた。彼らは、これから始まる凄惨な見世物を、固唾を飲んで、あるいは好奇に満ちた目で見守っている。その中には、満足げな歪んだ笑みを浮かべるカラバル侯爵の姿もあった。
太陽が地平線の向こうから、その燃えるような姿を現し始めた、まさにその瞬間だった。
突如として、辺り一面が、濃密な黒い霧に包まれたのだ。
まるで夜が再び訪れたかのように、視界は完全に奪われ、処刑場は深い闇に支配される。
ほとんど何も見えない中で、貴族たちの驚きと混乱の声が、霧の向こうから微かに聞こえてくる。何が……起こったの……?
その時、闇の中から一人の人影が、音もなく私の前に現れた。
その姿を認めた瞬間、私の心臓は大きく跳ね上がった。
「……レオ?」
「待たせたな、エルザ」
その姿は間違いなくレオだった。しかし、昨夜までの彼とは明らかに違っている。
その瞳には底知れないほどの強い力が宿り、その全身からは、まるで闇そのものが具現化したかのような圧倒的なオーラが放たれていた。
そして、彼のその手には……似顔絵で見た誘拐犯の男が、まるで荷物のように、黒い霧のようなもので簀巻きにされて、ぐったりとぶら下がっていた。
霧がすこし薄くなり、貴族の席が見えるようになると、レオは簀巻きにされた男を、まるで汚物でも投げ捨てるかのように傍聴席にいたカラバル侯爵の足元へと放り投げる。
「……こいつが、お前が雇った誘拐犯だ。全ての罪を白状したぞ。これで、エルザの無実は証明されたはずだ。違うか?」
レオの静かな、しかし有無を言わせぬ声が、霧の中に響き渡る。
レオの存在に圧倒され、動けなくなっていたカラバル侯だったが、我にかえると、レオに向かって叫びだした。
「き、貴様っ……! ふざけるな従者風情が! そのような、どこの馬の骨とも知れぬ男を連れてきたところで、何になるというのだ! でっち上げも大概に……ぐあっ!!」
カラバル侯爵が激昂して叫びかけた瞬間、レオは、まるで蝿でも払うかのように、軽く腕を振るった。それだけで、黒い霧がカラバル侯爵を弾き飛ばす。侯爵の体は信じられないほどの勢いで宙を舞い、処刑場の壁を派手に砕きながら、建物の中へと叩き込まれた。
「そ、そんな……。ばかな……。これは……ま、魔法……!?」
近くにいた貴族の一人が、恐怖に震える声で呟き、恐れおののく。
彼はそんな貴族たちを無視して、カラバル侯へと詰め寄った。
「貧民街の連中から、色々と聞かせてもらったぞ。お前が、自分の派閥の中で着実に地位を築き上げ、その派閥そのものを陰で牛耳ろうとしていたこと……。そして、そのためには、どんな汚い手段も厭わないこと……。例えば……派閥の長であったローソゼル公爵を暗殺し、その地位を簒奪することすらも、な」
レオの言葉に、私は息を呑んだ。
まさか……お父様を手にかけたのは……やはり、この男だったというの……?
黒い霧が蛇のように伸び、壁の瓦礫の中からカラバル侯爵の体を絡め取って無理やり引きずり出す。
その力を前に、恐怖に引きつった顔で彼は叫ぶ。
「く、くそ……。き、貴様……! わ、私に、何を……! や、やめろ! まさか……私の血を、吸うつもりか!?」
「安心しろ。お前のような腐りきった血なんぞ、こっちから願い下げだ」
レオがそう言うと、カラバル侯爵の顔に、まるで生きているかのように、黒い霧がまとわりつき始めた。そして、レオは懐から、小さな小瓶を取り出す。
「なっ!? そ、それは……!?」
「知っているようだな。お前が、ローソゼル公爵に使った『薬』と同じものだ。ずいぶんと、よく効くらしいじゃないか。……さあ、お前もこれを飲んで、休め」
「よ、よせ! やめろぉぉっ! 貴様、なんてことを……!!」
レオは、黒い霧を巧みに操り、カラバル侯爵の口を無理やりこじ開けると、その小瓶の中身を喉の奥へと流し込んだ。
「うがあああっ!! 何故、何故だ! すべて順調だった! それなのに、なぜ私がこのような――」
騒ぎ立てるカラバル侯爵は正気を失い暴れていたが、レオは、もはや用済みとばかりにカラバル侯爵の体を掴むと、先ほどよりもさらに強い力で、処刑場の外壁へと投げつけた。
轟音と共に壁が崩れ落ち、カラバル侯爵は、瓦礫の中に無残な姿を晒し、完全に沈黙した。
全ての騒乱が収まった後、レオは、ゆっくりと私の方へと向き直った。その顔には、先ほどまでの冷徹さは消え、ただ、ひたすらに優しい眼差しで私を見つめてくる。
「……待たせたな、エルザ」
「……レオ。本当に、来てくれたのね……? それに……その、不思議な力は……?」
「……エルザ。見てみろ。太陽が、こんなにも明るい」
レオがそう言うと、まるで彼の意志に応えるかのように、処刑場を覆っていた黒い霧が、すうっと晴れていく。
そして、昇り始めた太陽のまばゆい光が、私たち二人を、燦々と照らし出した。
生まれて初めて、何の遮りもなく、真正面から浴びる太陽の光。
ずっと恐れていたその光は……信じられないほどに、美しかった。
「え……? ……嘘っ!! わ、私……太陽の光に、当たっているのに……? でも体は、何とも……熱くも、痛くも、ない……?」
信じられない現象に、私はただ呆然とする。
「……前に、一緒に読んだ日記を覚えているか?」
レオが、穏やかに尋ねる。
「日記……? あのドラクル公の……?」
「そうだ。……あの日記に記されていた通りだったんだ。
血の交わりによって俺たちは、『完全』になったのさ。もう太陽の光が、俺たちを傷つけることはない」
レオは、そう言うと、優しく微笑み、私に向かって、そっと手を差し伸べた。
「エルザ。……これから俺は、旅に出ようと思う。とても、とても長い旅だ。……よかったらエルザも、俺と一緒に来ないか?」
「どこへ、行くの?」
「さあな。分からない。だが、これからは、まだ聞いたことのないもの、見たことのないもの、たくさんのことを、見て、聞いて、知って……そうやって、どこまでも……、二人で一緒に、共に歩んで行きたいと思っている。エルザ、よかったら俺と一緒に、来てくれるか?」
その、どこまでも優しく、力強い瞳に見つめられながら、愛しい彼の手をそっと握る。
「はいっ……! 喜んで……! 私は、もう……、あなたの『モノ』だもの」
私がその手を取ると、レオは私を優しく、そして力強く抱きしめてくれた。
それと同時に、再び柔らかな黒い霧がどこからともなく現れ、レオと私の二人をそっと包み込んでいく。
「さあ、行こう。エルザ」
レオの声が、霧の中で優しく響く。
「ええ、これからも、ずっとよろしくね」
―――エピローグ――――
「――おお、哀れなる吸血鬼の姫君エリザベートは、昇り来る太陽の光によってその身を焼かれ、塵となりて消え去った。しかし、その魂は、彼女を深く愛した忠実なる従者と共に、永遠の闇へと旅立ったのである!」
「そして不思議なことに、彼女たちが消え去った後、この国から、あの忌まわしき吸血鬼の病は、完全に姿を消したのだという。それは、二人の愛がもたらした、奇跡であったのかもしれない……」
都で最も格式高い劇場。その舞台の上で、今をときめく有名な劇団が、喝采を浴びながら、一場のクライマックスを演じきった。
劇の名は、『吸血貴族の愛し人』。
今から二百年ほど前に、この国で実際に起こったとされる物語。
最後の吸血鬼と呼ばれた貴族令嬢エリザベートと、その従者の悲しくも美しい愛の物語を元にした、人気の演目である。
劇場の最上階、賓客用の特等席。そこには、一組の老夫婦が座り、舞台の上で繰り広げられる自分たちの物語を、穏やかな、そしてどこか懐かしむような眼差しで見つめていた。
傍目には、裕福で品の良い老夫婦にしか見えないだろう。彼らは、伝統的な香水の製造販売を筆頭に、多岐にわたる事業を手掛け莫大な富を築いた、とある大商会のオーナーとして、社交界では知られた存在だった。
老紳士が指にはめている年代物の指輪には、彼の商会のシンボルである二つの牙をモチーフにした、ユニークな意匠が刻まれている。
劇が終わり、万雷の拍手が劇場全体を包み込む。
「いやあ、素晴らしい舞台でしたな! いかがでしたか? レオナルド様。奥方のエリーゼ様にも、お楽しみいただけましたでしょうか?」
老紳士を芝居に招待してくれた、取引先の若い男が、興奮した様子で話しかけてくる。
「ええ、実に、面白い劇でしたよ」
銀髪の老紳士――レオナルドは、穏やかに微笑んで答えた。
「古くから伝わる物語を見事に劇として昇華させ、これほどまでに観客を引き込むとは大したものです。実は以前から、妻と一度観に行こうかと話はしていたのですよ」
「それはようございました! あの舞台で使われておりました豪奢な家具! 実はなんと! あれは全て、私共が取り扱っております最新の商品でございまして――」
男が、ここぞとばかりに商売の話を始めようとするのを見て、レオナルドは、内心で小さくため息をついたが、表情には出さずに、笑顔で応対する。
この男の“厚意”で、特等席を用意してもらった事には感謝しているが、あまり仕事の話はしたくなかったようだ。
「お帰りの際には、最新型の“自動車”をご用意しております! なんでも、乗り心地を格段に改善した、最新モデルとのことで――」
「お気持ちは大変ありがたいのですが、今夜は少し歩いて帰ろうかと。今観たばかりの劇について妻と二人、ゆっくり歩きながら語り合いたいので」
「さ、左様でございますか……。それは、残念……」
「ええ。それでは今宵はこれで。またお会いできる日を楽しみにしておりますよ。ごきげんよう」
レオナルドとエリーゼは、今回の芝居に招待してくれた男に丁寧に礼を言うと、手を取り合って、ゆっくりと劇場を後にした。
外はすでに暗くなっており、ガス灯が夜の街並みを、柔らかく照らし出している。
「ラナリア商会の会長、レオナルド様! 奥様! どうか今後とも末永いご贔屓を、伏してお願い申し上げます!」
二人の後ろでは、男が深々と頭を下げ、必死に声を張り上げている。
「ふふ、ずいぶんと営業熱心な方ね。もう少し、余韻というものを大切にしてくだされば、完璧だったのだけれど」
金髪の老婦人エリーゼが、くすくすと笑いながら言う。
「まあ、仕方がないさ。彼はまだ若い」
「私たちに比べれば誰でも若いわ」
「ふふっ、彼も必死だったんだろう。あの頃の俺たちみたいに」
「そうね、そうかも知れないわ」
人通りの少なくなった石畳の通りを、二人はゆっくりと歩いていく。
コツ、コツ、と、二人の靴音だけが、静寂の中によく響いた。
もしその二人の姿を、注意深く見ている者がいたならば驚いたことだろう。
彼らが一歩、また一歩と歩を進めるごとに、その姿がまるで魔法のように変化していくのだから。
深く刻まれていた皺は消え、肌には瑞々しい艶が戻り、曲がった背筋はすっと伸びていく。そして、いつの間にか、二人の姿は、輝くばかりに若々しい、十代後半の姿へと、変貌を遂げていた。
「……本当に、あの頃は、色々と大変だったわね、レオ」
エルザが、昔を懐かしむように、レオの腕にそっと寄り添う。
「ああ。……だが、あの頃の俺は、今日の舞台の役者ほど、格好良くはなかったぞ?」
「もう、何を言っているの。あなたはいつだって、私の知る誰よりも、格好良かったわよ。……この二百年、あなたに何度、恋をしたことか」
「それは俺だって同じさ。エルザ、お前がいつも隣にいてくれたから、今の俺があるんだ」
二人は互いの想いを確かめ合うように、腕を絡ませながら、人気のない通りをゆっくりと歩いていく。いつしか二人の周囲には、柔らかな黒い霧がヴェールのように、うっすらと漂い始めていた。
「私たちもそろそろ、この街を離れて、新しい場所へ移る時期ね。……次は、どんなことをしましょうか?」
「そうだな。……ちょうど、海の向こうに見つかった『新大陸』で、移民が活発になっているらしい。いい機会だ。一度、行ってみるのも面白いかもしれないな」
「それは素敵ね。……でも商会はどうするの?」
「心配いらないさ。ラナリアの……いや、今はもう、12代目になるか。あの子がいるだろう? 彼女は、ラナリアによく似ている」
「血縁的にはロゼッタの方に近いのに、不思議なものね」
そのような話をしているうちに、二人の体を包む黒い霧は、さらに濃密になっていった。
「さあ、エルザ。……そろそろ、帰ろうか」
「ええ。……でも、その前に……なんだか、少しだけ踊りたい気分だわ」
「ふふ、誰も見ていないし、構わないぞ。
……よろしければ、この私と一曲、踊っていただけませんか?」
レオが芝居がかった仕草で、優雅に手を差し伸べる。
「……はい、喜んで」
エルザは、満面の笑みでその手を取り、ダンスを始めた。
二人は、静まり返った都の片隅で、誰に見せるでもなく、優雅にワルツを踊る。
ステップを踏むごとに二人を包む黒い霧は、さらにその濃度を増していき、二人は徐々に闇の中へと溶け込んでいく。
黒い霧が静かに晴れた後……そこには、もう誰もいなかった。