第30話 交わる二人
俺は、裁判を前にして一つの無謀な計画を考えていた。
エルザが裁判から戻ってくる、その時を狙い、館へ戻るための馬車から彼女を連れ出し、ラナリアが手配してくれた逃走用の馬車で外に逃げる。
可能性は極めて低いが、もはやこれに賭けるしかない。
脱出経路と衛兵の配置、その隙をつくタイミングを、頭の中で狂ったように何度も何度も反芻した。
決意を固め、最後の準備のために部屋を出ようとした、その時だった。
「さてレオ殿。少々、よろしいかな?」
扉を開けると、アリシアが冷たい表情で立っていた。
その佇まいは、普段にも増して硬く、何かを警戒しているかのようだ。
俺は内心の焦りを悟られぬよう、努めて平静を装う。
「……アリシア殿。何か、御用でしょうか?」
「たいしたことではありません。ただ本日、エルザ様が裁判所からお帰りになるまでの間、貴殿には私の監視下にいていただきたいのです」
「……それは、一体、何故です?」
「理由は二つ。一つは、エルザ様が判決の後、『寄り道』をすることなく、確実にこの館へとお戻りになるように。そして、もう一つは……」
アリシアはその鋭い視線で、俺の心の奥底まで見透かすかのように、真っ直ぐに見据えて言った。
「貴殿が、裁判の結果を受けて、何か『余計な気』を起こさぬように、です」
……読まれていた。最後の、必死の足掻きまでも……。
彼女は、最初から全てを警戒していたのだ。俺の計画は実行に移す前に静かに……、しかし確実に、その芽を摘み取られた。
「もし、私が従いたくない、と言った場合……。いえ、無駄な質問でしたね」
「申し訳ありませんが、これは決定事項です。貴殿の意見を伺うことはできません」
「失礼しました。……貴女の指示に、従いましょう」
もはや、抵抗は無意味だった。
マズい……。本当に、もう、打つ手はないのか……? どこかに……どこかにまだ、この絶望的な状況を覆すための、僅かな突破口は……?
だが、そんな奇跡は、やはり起こらなかった。
結局、エルザが裁判所から戻ってくるまでの間、俺はアリシアの厳しい監視の下、この館から一歩も外へ出ることは許されなかったのだ。
太陽も沈んで薄暗くなってきたころに、エルザを載せた馬車の音が、徐々に近づいてくるのが聞こえる。
やがて玄関の扉が開き、エルザが、数人の衛兵に付き添われて戻ってきた。
その顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。
彼女の顔は、不思議なほど穏やかだった。
ただ全てを受け入れ、諦めきったかのような穏やかな表情で、彼女はそこに立っていた。
「ただいま、レオ」
「……おかえり、エルザ」
俺は、込み上げてくる様々な感情を必死に押し殺し、彼女を部屋まで案内する。
アリシアは、「外部の警護に当たる」と言い残し、そのまま館から出ていく。
彼女なりに、俺たち二人に最後の時間を与えてくれた、ということなのだろうか……。
「疲れただろう。すぐに食事の準備を……」
「館に居てくれて良かったわ、レオ。先ほどの裁判の結果なのだけど」
裁判などなかったかのようにふるまっていた彼女だが、唐突に話を切り出してきた。
「……それで、判決は……?」
「死刑が決まったわ。……私が望んだの」
「……っ!!」
俺が恐る恐る尋ねると、エルザは、まるで他人事のように、淡々と告げる。
あまりにも衝撃的な言葉に俺は息を呑む。
エルザはそんな俺の反応を、穏やかな、しかしどこか悲しげな目で見つめていた。
「あの人たちが元々予定していたのは、私をどこか暗い場所に、死ぬまで『幽閉』することだったのでしょう。
領地も爵位も全て奪われて、誰にも知られず、忘れ去られて、朽ち果てていくだけ……。それなら最後くらい、あの人たちの筋書き通りにはさせないでやろうって、そう思ったの。私自身が選んだ結末なのよ」
「だが、それだとエルザが……!」
「私は、もういいのよ」
エルザは、落ち着いて静かに首を振った。
「……そんなことより、レオ。あなたに、最後に伝えておかなければならない、大事な話があるの」
エルザは、ゆっくりとした足取りで俺に近づくと、その真剣な瞳で、俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「レオ。今まであなたは、本当に、よく私に仕えてくれました。……貴族としての身分も、世間知らずな私の我儘も、そしてこの抗いがたい『血の呪い』すらも全てを受け入れて、いつも、私の傍にいてくれた……。……心から、感謝しています」
彼女の声が、わずかに震える。
「だからこそ今日、この瞬間をもって、あなたの私に対する従者としての役目を終わりにします。あなたはもう、私の『モノ』ではありません。今日中には、ここを出ていくための支度をしてください」
「なっ……!? いきなり、何を……何を言って――」
突然の、あまりにも残酷な別れの言葉に、俺は激しく動揺する。
エルザは、そんな俺の反応を予期していたかのように、静かに俺に近づき、その細い腕で俺の体を強く、強く抱きしめてきた。
彼女は、俺の胸に顔をうずめ、その表情を俺に見せようとはしない。ただ、その体は、小刻みに震えていた。
「……いままで、本当に……本当に、ありがとう、レオ……」
くぐもった、涙声が聞こえる。
「あなたは、いつも私のために、美味しい食事を作ってくれたわ。私が理不尽な扱いを受けた時は、自分のことのように怒ってくれた。そして、今も……あなたは、私の傍にいて、私のために、こんなにも心を痛めてくれている……。
でもね、レオ。私は……私は、あなたに、幸せになってほしいの。だから……どうか、分かって。……あなたを、私から……解放します」
泣きながら、彼女は、より一層強く抱きしめてくる。
「あなたはこれから、自由になるのよ。……私が見ることのできなかった、広い世界を見て、私が知ることのできなかった、たくさんのことを知って、美味しいものをたくさん食べて、味わって……そして、あなただけの、新しい道を歩んでいってほしいの。例えば、誰かと……素敵な人と、恋を……。そう、あなたは、自由に生きていいの。“元”従者であるあなたに、私が最後に望むもの……それは、ただ一つ。あなたが、幸せであること……それだけよ」
「エルザ……」
そんな……そんな、泣きじゃくりながら、必死に言葉を紡ぎながら……悲痛な声で、俺の幸せだけを願って、俺を突き放そうとするのか……。
その時、俺はようやく、自分自身の心の奥底にある本当の想いを、本当の望みを、はっきりと理解した。
俺が本当に望んでいたもの、守りたかったもの、そして、手に入れたかったもの、それは……。
「どうしたの? レオ……? あなたの願いがあるなら、最後に、私に言ってちょうだい。私にできる限りのことなら、何でもするわ。……お父様の遺してくれた遺産の中から、あなたがしばらく生活に困らないだけのお金を渡すことだって……」
「……いや、金はいらない」
俺は、エルザの言葉を遮った。
そして彼女の肩を掴み、その涙で濡れた顔を上げさせる。
「……従者じゃなくなった、今だからこそ……お前に、言っておきたいことがある」
「ええ。……なあに? なんでも、言ってちょうだい。……もう、私なんかに、遠慮する必要なんて、ないのだから……」
「エルザ。俺は……ずっと、お前が好きだった」
俺は、エルザの返事を待つこともなく、その震える唇に、自らの唇を重ねる。
一瞬、彼女の体がこわばったが、すぐに力を抜き、嫌がることなく、俺のキスを受け入れてくれた。
永遠のようにも、刹那のようにも感じられる、切ない口づけ。
唇が離れると、俺たちは、互いの瞳を、至近距離で見つめ合った。
「……私も……私も、好きよ、レオ……」
エルザの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出す。
「ずっと、ずっと前から……あなたと出会った、あの時から……レオ、私は……あなたに、夢中だったの……」
俺たちは、互いの想いを確かめ合うように、再び顔を近づけ、唇を重ねた。
柔らかく、甘いエルザの唇。そして、その奥にある、吸血鬼の証である、尖った牙の感触が、俺の唇に微かに伝わる。
そして俺は初めて、彼女自身を求める言葉を口にする。
「エルザ……。……お前の血が……吸いたい」
「……」
エルザは、驚いたように目を見開いたが、すぐに、全てを理解したかのように、静かに、そして深く頷いた。そして、自ら、その白くか細い、美しい肩を、俺の前に晒した。
血を吸うという事。
それは俺たちのような、呪われた血を持つ者だけが交わすことのできる、愛情表現だ。
遠くで、時刻を告げる王都の鐘の音が厳かに鳴り響いた。だが俺には、いや俺たちにとっては、もはや時間など何の意味も持たなかった。
俺はエルザの肩に顔を埋め、その温かい血を吸った。そしてエルザもまた、俺の首筋にその牙を立て、俺の血を吸った。
互いの血で赤く染まった唇で、俺たちは、何度も、何度も、口づけを交わした。互いの血を、互いの存在そのものを、混ぜ合わせ、味わい尽くすかのように……。
・
・
・
――音が、聞こえた。
どこか遠くで、古い、錆びついた錠前が、カチリと外れたような……あるいは、長年縛られていた何かが、ガラガラと砕け散ったような……そんな、不思議な音が。
俺は、その音をきっかけに、深い眠りから覚醒した。
窓の外を見ると、東の空が、わずかに白み始めている。もう、朝が近いようだ。
隣には、安らかな寝顔で眠るエルザがいた。その表情は、ここ数日の苦悩が嘘のように、穏やかで満ち足りているように見えた。
俺はエルザを起こさないように、そっとシーツをかけ直し、その額に優しいキスをする。
そして枕元に、「必ずお前を救う。待っていてくれ」とだけ記した短い置き手紙を残し、音もなく部屋を抜け出した。
静まり返った館の廊下を抜け、玄関の扉を開けると、そこには、夜明けの冷気の中に佇むアリシアの姿があった。
こんな時間まで、見張りを続けていたのか。
「……もう、よろしいのですか?」
アリシアは俺一人が出てきたことを確認した後、訝しげな表情で問いかけてくる。
「ああ。……世話になったな」
「……なんだか、昨夜とは……雰囲気が変わられましたね」
「ああ。きっと、長年俺を縛っていた『呪い』が、ようやく解けたんだろう」
俺は、それだけ言うと、アリシアの怪訝な視線を背に受けながら、館の外へと向かった。
彼女には、俺の身に何が起こったのか、説明することはできない。正直なところ俺自身にも、まだ完全には理解できていないのだから。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
力が……。今まで感じたことのない、強大な力が、俺の体の奥底から、滾々と湧き上がってくるのを、はっきりと感じていた。
東の空が、燃えるような茜色に染まり始める。
やがて、太陽がその姿を現す。
太陽の光が、眩しい。
まずは、ラナリアに話をしなければ。そして……。
俺は、昇り始めた太陽の光を全身に浴びながら、夜明けの王都を力強く歩き出した。
***
目が覚めると、隣にいるはずのレオの姿はなかった。代わりに、枕元に小さな紙片が置かれている。「必ずお前を救う。待っていてくれ」……彼らしい、短く、しかし強い意志のこもった言葉。
レオったら……もう、私はあなたを自由にしたというのに……まだ、私のために、何かをしようとしてくれているのね……。
私は、まだ彼の温もりが残っている、だけどほんの少し冷たくなったベッドのシーツを、愛おしむように、そっと撫でた。
窓の外がなにやら騒がしい。衛兵たちが、慌ただしく動き回っているのが見える。聞けば王都の貧民街では、何か大きな騒動が起こっているそうだ。
……処刑は、明日の早朝。その準備のため、私は今日のうちに、王都の処刑場近くの牢獄へ移送されるはずだ。
移送される時刻は、深夜か、あるいは日の昇る直前か……。どちらにせよ、その前に領地と貴族としての地位を正式に剥奪する宣言がなされ、そして、あの冷たい石造りの処刑場で、磔にされるのだろう。
「……最後は、昇り来る太陽の光を浴びて、塵となって消える……。それで、すべて、おしまい、というわけね」
独り言のように呟くと、いつの間にか部屋に入ってきていたアリシアが、意外そうな顔で私を見た。
「……ローソゼル様は、ずいぶんと落ち着いておられますね。普通、死を目前にした者は、取り乱したり、激しく抵抗したりするものですが……」
「ええ。……なぜかしらね。……もしかしたら自分の最期を、自分自身で決めることができたから……なのかもしれないわね」
「そういうもの、ですか……?」
アリシアは、腑に落ちないといった表情をしていた。
おそらく、今の私の心境を理解できる人などいないだろう。
私は、満たされているのだ。
昨日、あの最後の夜にずっと心の奥底で渇望していたものを、ようやく手に入れることができたのだから。
レオとの暖かい記憶。あの温もりを胸に抱いたまま逝けるのならば、もう何も恐れるものはない。そう思っていた。
その時だった。見慣れない顔の衛兵が、慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「アリシア様! 緊急のご相談が……!」
「今はローソゼル様の御前であるぞ! 無礼であろう、貴様!」
アリシアが厳しい声で咎める。
「構いませんわ、アリシア殿」
私は静かに言った。
「これほど慌てて飛び込んでくるのですから、よほど火急の用事なのでしょう。聞いて差し上げてはいかがかしら?」
「……寛容なるお取り計らい、感謝いたします、ローソゼル様。……それで、用件は何だ」
「はっ! それが、王都の貧民街にて、原因不明の異常気象が発生しておりまして、濃い霧が……」
衛兵は途中から声を潜めたため、詳しい内容は聞き取れなかったが、どうやら貧民街で発生した濃霧が原因で、大規模な暴動や混乱が起きているらしい。
その鎮圧のために人手が足りなくなり、私の監視に当たっている衛兵を、何人かそちらへ回してほしい、という要請のようだった。
アリシアはしばらくの間、難しい顔で考え込んでいたが、やがて頷き、衛兵に何事か指示を与えた。衛兵は、敬礼すると、足早に部屋を出ていく。
「……話は終わったかしら?」
私が尋ねると、アリシアは、はっとしたようにこちらに向き直った。
「はっ、失礼いたしました。……本題に戻りますが、今後のローソゼル様の処遇について、正式な決定事項をお伝えいたします――」
アリシアの説明によれば、私の爵位の剥奪に関する正式な宣言は、今日の夕刻に行われるらしい。その後、私は囚人服に着替えた後、牢獄へ移送され、そこで一夜を過ごす。
そして明日の太陽が昇る少し前、まだ空が暗いうちに処刑場にて磔にされる、という手筈だという。
……別にいつ、どのようになろうとも構わない。
私の胸に宿った、この温かく満ち足りた想いが、色褪せてしまう前に……私は、静かに、この世から消えてしまおう。