第28話 無意味な抵抗
エルザが脅迫により偽りの罪を認めさせられた――。
その理不尽に対する怒りが、俺を動かす原動力となっていた。
夜の静寂が館を支配する頃、俺はせめてもの抵抗として、あの誘拐犯の男を見つけ出して、裁判の場に引きずり出してやろうと思い立つ。
そのまま館を抜け出して、王都の掃き溜め、貧民街へと足を運んだ。
だが俺が誘拐犯を探し回っているという噂は、既に裏社会にも広まっていたらしい。
男は巧妙に身を隠し、その尻尾を掴むことはできなかった。
隠れているおおよその場所は見当がついたものの、今の俺の立場では、その巣窟に踏み込むことすらできない。
無力感だけが、俺の心を蝕んでいく。
時間が経つにつれて、俺の頭も少しずつ冷えてきた。
冷静になって、この絶望的な状況を改めて考える。
……エルザは貴族の陰謀により、自ら罪を認めてしまった。こうなっては、たとえ今から誘拐犯を捕まえ真実を白日の下に晒したとしても、状況を覆すことができるとは到底思えない。
奴らはどんな手を使ってでも、エルザを有罪にするだろう。
ならば残された道は、一つしかない。
エルザをこの王都から、この国からどうにかして逃がす……!
国外へ逃亡するとなれば、エルザには想像を絶する苦労を強いることになるだろう。だが……偽りの罪で裁かれ、名誉を奪われ、暗い牢獄で朽ち果てるよりは、遥かにましなはずだ。
生きてさえいれば、いつか……いつかきっと、本当の自由と平穏を取り戻せる日が来るかもしれない。
それが儚い願望だと分かっていても、それに縋るしか道は残されていなかった。
俺は最後の望みを託し、ラナリアの元を訪れることにした。
彼女も、まだ王都に滞在しているはずだ。
ラナリアの店は、王都の一等地で、驚くほど繁盛していた。
洒落た店構え、忙しなく働く従業員たち……。
香油と香水の成功により、彼女の商会は今や王都でも指折りの存在となっているようだ。
俺たちのささやかな領地で始まった事業が、ここまで大きなものになっていたとは。
どうやってラナリアを呼び出そうかと考えていると、すぐに店の従業員の一人が、丁寧な物腰で声をかけてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでございましょうか?」
「ああ、いや……。店主のラナリア殿はいらっしゃいますか? もしよろしければ、『レオが来た』と、そう伝えてもらえると助かります」
「……かしこまりました。少々、お待ちくださいませ」
従業員は少し怪訝な顔をしながらも、奥へと取り次ぎに行ってくれた。
しばらくして店の奥にある、豪華な応接間へと通される。そこには以前と変わらぬ、威勢の良い笑顔のラナリアが待っていた。
「いやはや、めずらしいお客さんですなあ!」
「……突然の訪問で申し訳ありません」
「いえいえ、レオさんならいつでも大歓迎です! ……まあ、ちいとばかし込み入った話がありそうですね。……おい、あんた。ウチはこのお方と少し話があるんで、悪いけど、店のほうを見てくれん?」
ラナリアは連れてきた従業員にそう指示を出すと、従業員は恭しく一礼し、静かに部屋を出ていった。
二人きりになった応接間で、俺は促されるままに、重厚な革張りのソファに腰を下ろした。
「……それにしても、ここまで商会が大きくなっていたとは。ラナリアさんの手腕には、驚かされるばかりです。エルザ様の領地で始めた頃が、まるで嘘のようだ」
俺は、部屋の調度品を見回しながら、感嘆の声を漏らす。
「ありがとございます。これも、レオさんとエルザ様が、素晴らしいアイデアと元手になる資金を提供してくださったおかげですわ」
ラナリアは、少し照れたように笑った後、すぐに真剣な表情に戻った。
「……ですが、まあ……そんな前置きを長々としているほど、悠長な状況でもないんでしょ?」
その鋭い眼差しで、俺の心の内を見透かすように、ラナリアはいきなり本題へと切り込んできた。やはり彼女も、王都で起こっていること、そして俺たちの置かれた状況を、ある程度は掴んでいるのだろう。
「……はい。エルザ様の、裁判の日程が決まりました。……おそらく偽りの証言で、有罪判決が下されるでしょう」
俺の言葉にラナリアは息を呑み、その表情を曇らせた。
「……そうですか。そこまで、事態が進んでしまいましたか……。それはかなり、まずい状況ですなあ」
「ええ。……そこで、無理を承知でラナリアに、お願いがあります。何とかエルザ様を、この王都から逃がすための、力添えを……いただけないでしょうか?」
俺が、必死の思いでそう切り出すと、彼女は苦渋に満ちた難しい顔をする。
「……エルザ様にもレオさんにも、ウチは返しきれないほどの大きな恩があります。助けたい気持ちは山々ですが……。陰で貴族様が動いとるほどの事態となりますと……」
やはり駄目か……。そうだよな。
ラナリアはただの商人だ。いくら成功したとはいえ貴族の、それも国の権力争いにまで口を挟めるはずがない。
これは一介の商人には、あまりにも重すぎる問題だ……。
俺が諦めかけて俯いた、その時だった。ラナリアは、ふと声を潜め、俺に顔を近づけてきた。
「もちろん表立っては支援できません。そんなことをすれば、この商会どころの話じゃなくなります。……特に、この王都の中では、衛兵たちの目も光っとりますし、手出しは不可能です」
王都の中は、衛兵たちの庭のようなものだ。
エルザを助けだしてもすぐに察知され、捕らえられるだろう。貧民街の抜け道を使えば……いやだめだ。最近、俺がそこで騒ぎを起こしたばかりだ。
裏の人間の警戒も厳しくなっているだろうし、そもそも、エルザを連れて、あの場所へ自由に出入りするのは現実的ではない。
なんとかして衛兵たちの目を掻い潜り、エルザを連れ出す方法を見つけられれば……。だが、それは、あまりにも非現実的な……。
「……ですが」
ラナリアは、そう言って話を続ける。
「……今の商会があるのも、一介の行商人だったウチに、お二人が素晴らしい商材と資金を与えてくれたおかげです。
このまま二人が消えたら、ウチなんか欲深い貴族に食い物にされるのが目に見えとります」
ラナリアは、そう言うと悪戯っぽく片目を瞑って、俺を安心させるように笑う。
そしてお茶を一口飲んだ後、懐から王都近郊を示す一枚の古い地図を取り出した。そして彼女はその地図を広げ、ある一点を指し示す。
「王都の城壁を出てしばらく行ったところに、荷運び用の馬車を外に停めておくようにします。古くてボロい馬車なんで“誰かが”勝手に盗んでも構いません。あとはエルザ様の領地と王都の途中に、中継地点としての役目を持たせようとしていた村がありまして――」
ラナリアはいくつかの目立たない隠れ場所と、そこまでの安全な移動経路、そして当座の資金や食料の調達方法について、手短に教えてくれた。
まさか、ここまで手を尽くしてくれるとは。
「重ね重ね、ご協力感謝します」
「良いんです良いんです。この商会の資産の一部は実質エルザ様のモンですし、ウチもレオさんのアイデアありきで動いとるんですから。これは一蓮托生っちゅう奴ですわ」
俺は、ラナリアに改めて深く礼を言うと、彼女の店を後にした。
外に出ると、冷たい空気が肌を刺す。
問題は解決していないが……、とりあえずエルザの命を救うための、最後の手段が見つかった。
今は、それだけで十分だ。
あとは、どうやってエルザを王都の外へ連れ出すか……。その最も困難な課題を、どうやって乗り越えるか、だ。
俺は深く息を吸い込み、残された僅かな時間で打つべき最善の一手を考えながら、館へと向かって歩き出した。
館へ戻り、周囲を確認してみる。
館の全ての門には、衛兵が二人ずつ配置されており、さらに塀も一定間隔で衛兵が立っている。
館の内側にもかなりの衛兵が配置されているだろう。
これでは、エルザを館の外へ連れ出すことができたとしても、すぐに追手に捕まってしまいそうだ。
最悪の場合は、俺が囮になるしか……。
「……おい、貴様。さっきから、何度も同じ場所を行ったり来たりしているが、一体、何の用だ?」
俺が、塀の周りをうろつきながら、警備の隙を探していた時だった。
後ろから、鋭い声で呼び止められた。
「……申し訳ありません。私は、エルザ様の執事を務めている者なのですが……今日も、エルザ様を元気づけるような良い報告ができそうになく……。
それで、どのようにしようかと考えあぐねていたところでして」
俺は平然を装い、言い訳をしながら振り向く。
「そうか。お前はローソゼル様のところの執事か。……今回の件は、災難だったな」
声をかけてきたのは、俺たちをここに連れてきた騎士のアリシアだ。
アリシアは少し同情的な口調で、俺を労うような言葉をかけてくれた。エルザが自白をしたことで、アリシアと騎士団が追加で館の監視に当たっているそうだ。
どうやら彼女達の騎士団では、今回の事件が貴族たちの醜い派閥争いに巻き込まれた結果である、と理解しているようだ。
だが同情はそこまでだった。
「……分かっていると思うが」
アリシアは、厳しい口調で付け加える。
「我々が派遣された理由は、決して私事を挟まず、与えられた任務を忠実にこなす事ができるからだ。お前も余計な気を起こさぬよう、肝に銘じておくことだな」
そう鋭く釘を刺されてから、俺は解放される。
……まずいな。完全に目をつけられてしまった。
これでは仮に俺が囮になったとしても、これだけ厳重な監視の目を長時間引きつけることは難しいだろう。
なによりエルザ自身が、どうしたいのか。
彼女の意思を確認する必要がある。
……本人に逃げる意思がないのなら、無理やり攫う事も考えなければならない。
俺は憂鬱な気持ちで、夕食の時間を待つことにした。
いつも通り夕食の時間になり、俺は彼女に血を与える。
エルザは元気なく、しかしどこか安心したように俺の血を吸っていく。
彼女は、俺がまだ諦めずに貧民街で犯人捜しをしていると、そう思っているようだった。
そんな彼女の耳元で、声を潜めてそっと囁いた。
「今日、ラナリアに会ってきた」
エルザの目が大きく見開かれる。
「彼女が、逃走用の馬車を手配してくれるそうだ。王都の城壁の外に、荷運び用の古い馬車をしばらく停めておく、と。もし……もし、エルザが望むなら、その馬車を使って逃げる事も…」
彼女の瞳に一瞬、動揺が走る。
だがすぐに、彼女は力なく首を横に振った。
「……私は、行かないわ。
私一人が逃げ出したところで、皆にどれだけの迷惑がかかるか……」
「だが、このままだとエルザは……!」
「迷惑がかかるのはラナリアさんだけではないのよ。
あのカラバル侯爵のことだもの、きっと、見せしめのために、私たちの領地の……神父様や、私たちを支えてくれた、あの心優しい村の人たちが、たくさん、たくさん犠牲になるわ。……そんなこと、私には、絶対にさせられないの」
「……分かった」
彼女の決意は固い。
俺はこれ以上、何も言えなかった。
「……もしも……もしも、気が変わったら、言ってくれ。
最悪の場合は、俺が囮になってでも……」
「ありがとう、レオ」
彼女だけでも生き残ってラナリアに匿ってもらえば、などと一瞬頭によぎる。だが俺の言いたいことを察したのか、
エルザは俺の言葉を遮るように、優しく微笑んだ。
「私なんかのために、無理はしなくていいの。たとえ、私一人だけが助かっても、私には何もできないわ。あなたはあなたのまま、やりたいことをやって生きて。それが、私の最後の……」
エルザは、それ以上、言葉を続けることはしなかった。
結局、俺は彼女を説得することはできなかった。
もしも……もしも、奇跡が起こって、彼女だけでも逃がすことができたなら……。
……いや、追われる身となった貴族を、たとえラナリアであっても匿いきれるはずがない。すぐに、見つかってしまうだろう。
完全に姿を隠してしまうなんて、それこそおとぎ話に出てくる魔法の類だ。
だが、そのようなものでもない限り、この状況からエルザを救い出す方法など……もう……。
「……ねえ、レオ。……今夜は……この本を、読んでくれないかしら?」
重苦しい沈黙を破ったのは、エルザだった。彼女は、部屋の隅に、いつから置かれていたのか、一冊の古びた絵本を手に取り、俺にそっと差し出した。どこか見覚えのある、色褪せた装丁。その表紙には、「まほうつかい ドラクル」という、子供向けの丸みを帯びた文字が記されていた。
「これは……懐かしいな。ドラクル公を元にした……おとぎ話の本、か?」
「ええ。かつて、この館に住んでいたころ……まだ、ほんの子供だった頃に、先生が読んでくれた本よ。まだこの館に、こうして残っていたなんて……」
前の本は、辺境の領地へ持って行ったはずだ。
この本だけが、ここに残されていたのは、単に忘れていったのか。
それとも公爵家の所有物であったがゆえに、持ち出すことが許されなかったのか。
……まあ、どちらでもいいか。
明日に迫った運命の裁判を前にして、俺はただ、エルザの望みを叶えてやりたかった。
かつての、まだ未来があった頃のように。
エルザは子供のころのようにベッドの中にもぐり込み、俺はその傍らに腰を下ろして静かに、心を込めて物語を読み聞かせ始めた。
あの頃と、何も変わらない光景。
ただ一つ、違いがあるとすれば……エルザが、俺の左手を、強く、強く、握りしめている。
……それだけだ。
「――黒い霧にその身を変えた魔法使いドラクルは、ただ一人、囚われの愛する妻を救い出すため、その身に宿した大いなる魔法の力を使うのでした……」
物語が終わりを告げる頃には、エルザはあの頃と同じように、穏やかな寝息を立てて深い眠りに落ちていた。
俺は、そっと彼女の額にかかった金の髪を払い、優しくシーツをかけ直して、部屋を出る。
……明日は裁判だ。
おそらく、すぐに判決が下されるだろう。
俺は、エルザの寝顔を見つめながら一つの無謀な計画を練っている。
先ほどアリシアにそれとなく聞き出したところによれば、たとえ裁判で有罪判決が下ったとしても、貴族であるエルザが即座に投獄されるわけではないらしい。
刑罰が執行される直前までは、この館での待機が許される、と。つまり裁判の後、エルザは一度、必ずこの館に戻ってくるはずだ。
……ならば、その時だ。館に戻るための馬車から、彼女を力づくで連れ出し、ラナリアが手配してくれた逃走用の馬車まで……。