第27話 エルザ:彼女の決意
懐かしい館に来て数日が経過した。
今日もまた、無意味な問答の始まりだ。
私の心を少しずつ削り取り、偽りの罪を認めさせようとするだけの無意味な時間。
「さて、ローソゼル様。これだけの証言が揃っております。そろそろ、真実をお話しになるお気持ちには、なられましたかな?」
執政官の、粘つくような声が部屋に響く。テーブルの上には、嘘で塗り固められた書類の山。
「……残念ながら、私の答えは昨日までと変わりませんわ。そこに書かれているような事実は、断じてございません」
何度も嫌味な、時には脅迫まがいの尋問をされる。
だけど私は、いつも通りに平静を装い、内心の疲労と嫌悪を悟らせないよう、微笑みを浮かべて答えた。
決して言質を取らせないことは最初から決めていたけれど、いつかはあきらめてくれるのだろうか。
どちらにせよ、私も一応貴族であるという立場を考えれば、これ以上の詰問をするのは不可能でしょう。
だけど、その日の尋問は、いつもとは違った。
尋問中に、控えめなノックの音が響き、許可もなく扉が開かれる。
「ふむ……。どうやら尋問官では、少々、手に余る案件だったようだね」
「……何故、あなたがここに?」
芝居がかった口調と共に現れたのは、カラバル侯爵、その人だった。
彼の後ろには、メイドたちが数人控えている。
侯爵が、まるで舞台役者のように、軽く手を振ると、メイドたちは恭しく一礼し、音もなく部屋を出ていった。
後に残されたのは尋問官と私、そして、この悪意の塊のような侯爵の三人だけ。
「やあ、エルザ嬢。少しばかり、君と直接意見を交わしてみたくてね」
「……私の釈明は、既にこちらの方からお伝えいただいているはずですが」
侯爵は、作り物の笑みを浮かべて私の前に座る。
「もちろん、聞いているとも。確たる証拠がこれだけ揃っているというのに、ローソゼル公爵が愛娘にして、その名を継ぐ貴女は、決して罪を認めようとしない。……これはきっと、我々がまだ把握していない、何か深遠なる真実が隠されているに違いない。そう思ってね。この私が、直々に話を聞きに来たというわけだよ」
彼はとても饒舌に、しかし目は底冷えするほどに冷たい。
そんな彼は、まるで用意された台本を読んでいるかのように、饒舌に言葉を紡ぎ続ける。
「ああ、そうそう。心配はいらないよ。君の忠実なる従者には、衛兵を通じて外出の許可を与えておいた。彼は今頃、君を元気づけようと、市場で何か買い物をしている頃だろう。……ふふ、全く、罪な女性だね、君は」
『罪』という言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。
この男は、何気ない会話の中に、巧みに罠を仕掛け、私の動揺を引き出そうとしているのだ。
私の内心の動揺を見透かしたかのように、カラバル侯は、さらに笑みを深めた。
「ああ、気にすることはない。そんな些細な心理戦を弄しに来たわけではないのだから。私は、もっと……そう、直接的な話を、しに来たのだよ」
「直接的……ですって?」
「そうだとも。考えてもみたまえ。これだけの証言があり、痛ましい犠牲者まで出ている。それなのに、君は頑なに罪を認めようとしない。……となれば、可能性は一つ。君の名を騙り、この凶悪な犯罪を犯した真犯人が、他にいるのではないかね?」
「……何が、仰りたいのか、私には分かりかねますわ。再三申し上げております通り、私は、この件に関して、何も存じ上げません」
何が言いたいのだろう。
この男の真意が読めず、私は警戒心を強める。すると侯爵は、まるで子供に語りかけるかのようにわざとらしく、楽しげな様子で続けた。
「ほう、そうかね? その真犯人とやらに、全く心当たりはない、と?」
「……ええ。存じ上げませんわ」
「そうかい、そうかい。……だがね、私はこう考えているのだよ。君の、あの辺境の領地にいる、薄汚れた領民たち……。彼らの中に、怪しい者がいるのではないか、とね」
「領民……ですって? あなたは……私の領民たちを、尋問なさるおつもりですか? それは、領主である私の権限を侵害する行為ですわ。それとも……そのような非道を、私自身に行えと、そう仰せになるのですか?」
「いやいや、とんでもない!」
侯爵は、大げさに手を振る。
「我々が、ローソゼル家の領民に直接手を出すなど、滅相もない。ただ……もし君が、そう望むのであれば、我々は喜んで軍を派遣しよう、と言っているだけだよ。……もちろんそうなれば、必ずや……『犯人』を、見つけ出してご覧に入れるとも」
彼は言外に“たとえ冤罪であっても”と言っているようだ。
「直接的」とうそぶきながら、なんと迂遠で陰湿な脅しだろうか。
「生憎ですが、私の領地で被害にあった領民は、外部の人間によって誘拐されたことが既に判明しておりますわ。残念ながら領民の中に犯人がいるとは、到底考えられません」
「なるほど、なるほど。確かにそういう報告もあったな。……よろしい。ならば、犯人は領民ではないのだろう」
私の反論を、彼はまるで予想していたかのように、あっさりと受け流した。これも彼の描いた筋書きの内、ということか。
そんな私の困惑を、彼は心底楽しんでいるようだ。
自信に満ちた、しかし不快な笑みを浮かべ、彼はさらに言葉を続けた。
「となれば、残された可能性は、ただ一つ、ということになる。真犯人はたった一人だ。君の名を巧みに騙り、君の権威を利用し、そしてあの哀れな領民たちを誑かすことができる……そんな特別な立場にいる人物……。そうだろう?」
「……いったい何を仰りたいのか、私には、さっぱり……」
「ふむ。君の傍らには、常に忠実な従者が控えていたね。たしか、あの男……レオ、とか言ったかな?」
その名前が、彼の口から発せられた瞬間。
グラリ、と世界が揺れたような、激しい眩暈に襲われた。足元から崩れ落ちていくような感覚。私の内心の激しい動揺を、侯爵は見逃さなかった。
公爵は獲物を見つけた蛇のような笑みを浮かべている。
「聞けばあの男は、しがない平民の出自だそうじゃないか。……ならば残念だが、君のように、こうして丁重な『聞き取り』ではすまないだろう。
彼が、君と同じ『血の病』に侵されているのかどうか……。
それも併せて詳しく調べねばなるまい。そのためには……そうだな、彼の体に直接、尋ねてみるしかあるまいな」
「い、いきなり何を……!」
「ああ、吸血鬼の牙というものは、ひどく尖っているというじゃないか。それを確かめるためにも……まずは彼の歯を、そうだな……一本ずつ、ゆっくりと抜いてみるというのはどうだろうか? あるいは……」
「レオは……!! レオは、関係ありませんわっ!!!」
気がつけば、私は絶叫していた。
必死の思いで絞り出した言葉。
だが、それは同時に、私の、そしておそらくは彼の未来をも決定づける、取り返しのつかない言葉でもあった。
私の叫びを聞いた侯爵は満足げに、冷たく笑う。
私の身の潔白を取るか。それともレオの安全を取るか。
侯爵は私に突きつけたのだ。そして私がどちらを選ぶか、いや、どちらを選ばざるを得ないか、それすらも見越した上で。
だが今の私には、そんな駆け引きを考える余裕など、微塵もなかった。
「ほう? 『関係ない』と言ったかね? それはつまり……君は、何かを知っている、ということなのかな? さあ、教えてくれたまえ。あまりにも凄惨な、この事件の真犯人の名を、ね」
「…………」
私は唇を強く噛み締め、逡巡する。
罪を認めることなどできるはずがない。それはローソゼル家の名誉を汚し、そして何より、私を信じてくれているレオを裏切ることになる。
けれど、この状況で罪を認めなければレオはどうなる?
間違いなく拷問にかけられ、自白するかどうかに関わらず死ぬだろう。
だけど偽りの罪を認めれば、彼の信頼すら裏切る事に……。
無言になった私の葛藤を見透かすように、カラバル侯は嗤いながら見つめている。
「ふむ、答えられない、というのなら実に残念だ。やむを得まい。君の、その忠実なる執事からじっくりと、時間をかけて話を聞かせてもらうとしようか……」
……ああ。だめだ。
もう私に……、私には選択の余地など残されてはいないのだ。。
私は震える声で、言葉を紡ぐ。
「……したわ」
「ん? 何か言ったかね? よく聞こえなかったな」
「……わたくし、わたくしが……っ! わたくし、一人が……! 全て、やりました……っ! ……レオは……レオは、何も関係、ありません……っ!!」
今までの我慢を、苦労を無にするように、私はあっさりと罪を認めてしまった。
いえ、認めざるを得なかった。
レオ……貴方が、私を信じ、私のために、どれほど尽くしてくれたことか……。
それなのに私は……。ごめんなさい、ごめんなさい、レオ……。
「おお! なんということだ! そうだったのか!」
侯爵はわざとらしく目を見開き、驚いたフリをする。その芝居がかった仕草が、今はただ憎しみを掻き立てる。
「実に、恐ろしいことだ……。だが、これでようやく真実が明らかになったわけだ。よろしい。本件については、後日、改めて正式な裁判を開くことにしよう。ああよかった、よかった。これで罪なき若者を、無用な拷問にかける必要もなくなったというものだ」
彼は冷たい笑顔で、何とも芝居がかった仕草で安堵しているフリをする。
そんなカラバル侯の様子を虚ろな目で見つめながら、私はまったく別の事を考えていた。
「いやはや実に良かった。君が、こうして素直に自供してくれて」
侯爵は立ち上がりながら、最後の仕上げとばかりに言葉を続ける。
「実はもう明後日には、裁判の予定が組まれていたのだよ。間に合って本当によかった。
心配はいらない。この尋問官殿と、そしてこの私が、貴公の発言が真実であったと法廷で厳粛に証言しよう。
……さあ残りの人生を、せいぜい謳歌したまえ」
尋問は終わりだ、と言わんばかりに、カラバル侯は満足げな足取りで部屋を出て行った。
他にもなにか言っていたようだが、今は何も理解したくない。
扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
私以外誰もいないその部屋で、私は立ちあがることすら、できなかった。
しばらくの間、ただ茫然と虚空を見つめた後、今起こった出来事に想いを馳せる。
私の発言で……レオは、助かるのだろう。
そのことに後悔はない。
でも……私は?
カラバル侯爵は『残りの人生』、と言った。
それは、まるで、私の未来が、既に決定されているかのような……。
私が裁判にかけられて、どうなるかまで決まっているという事?
……私、死ぬの……? 処刑される、ということ……?
私はまだ、何も……。レオに、伝えたいことも、たくさん……。
嫌、嫌よ。そんなの! 死ぬなんて!
だって死んだらもう会えないじゃない。
……私、本当に死ぬの?
死んで終わり? 本当に終わり?
もう、お茶を楽しむあの穏やかな時間も、彼と会話をすることも、もう無いの?
でも私が死んでも彼が助かれば、でも死ぬの?
嫌よ! 今からでもなんとか生きる方法を……。
でも、私が生き延びたらレオはどうなるの? 私が彼を助けると決めたのに?
レオが私の代わりになるなんて、そんなのは嫌!
……せめて彼だけでも自由にさせてあげたい。
そう。私の存在は彼を縛り付ける。
だから。もしかしすると。
レオのために、私はここで終わったほうがいいのかもしれない。
彼は私から自由になって、何者にも縛られない新しい人生を歩めるかもしれない。
新しいものを見て、新しい事を知って、恋人を作って、私の事を忘れて、私の、事を……。
レオに会いたい。でも会いたくない。
死にたくない。死なせたくない。
抱きしめてほしい。忘れて幸せになってほしい。
……私の心は死ぬことの恐怖と、レオへの想いでぐちゃぐちゃになる。
気が付けば、私の頬を熱い涙が、止めどなく流れ落ちていた。
それからどうやって部屋に戻ったのか記憶が曖昧だ。
ただぼんやりとした意識の中で、部屋の扉を閉めてベッドに倒れ込み、声を殺して泣き続けたことだけを覚えている
一通り涙を流し終えて少し落ち着いたころに、レオが帰ってきた。
灯りはつけていなかったので、部屋は暗いままだ。
私の泣きはらした目を見て彼が心配しないように、私は彼と目を合わせたくない。
「レオ、私は罪を認めることにしたわ」
私はランプに火を灯そうとする彼に、なるべく顔を見せないよう、俯きながらそう言った。
彼は驚いて、何とか犯人を見つけ出して、私の無実を証明すると言ってくれた。
……だけどもう、その必要は、ないの。
一通り涙を流し終えた私は、不思議なくらい頭の中がすっきりとしていた
カラバル侯爵が私を陥れるために、この罠を仕掛けたことは間違いない。
なら私は……、そのまま裁かれよう。
それでレオが助かるなら別にいい。
一方で、私の発言にレオは困惑し、理不尽を突きつけられて怒っていた。
「ええ……。そして、彼は言ったわ……。もし、私がこのまま罪を認めないというのなら……軍を派遣して私たちの領民たちから、力づくで『事情』を聴く、ですって」
レオがこれ以上、私のために心を痛めたり、私がいなくなっても罪の意識を抱いたりしないように、最も重要な部分は伏せて領民への危害の可能性だけを伝えた。
「……なら、どこかへ逃げよう! 今からでも……!」
レオはそれでもあきらめずに、そういってくれる。
その優しさが、今はただ、辛い。
だがレオの提案は、レオ自身をも含めた多くの人々を危険に晒す選択だ。私たちの領地も領民も、どうなるかわからない。
私は黙って首を振り、明後日に裁判がある事を静かに告げた。
その日程を聞いたレオは深い絶望を浮かべる。
「あなたも疲れているでしょう? 酷い顔よ、ゆっくり休んで。……私も、少し、休むから」
「だが……」
レオは諦めきれない様子で、何かを言いかけた。
だが私と目を合わせた彼は、やがて黙って頷くと、力なく自室へと戻っていく。
彼の背中が、あんなにも小さく見えたのは初めてだった。
窓の外に目をやると、いつの間にか先日より多くの衛兵が館の周りに待機していた。
逃がすつもりがない、という事だろう。
しかし、彼らは館の中へは踏み込もうとはしない。
裁判が終わり正式に判決が下るまでは、形だけでも貴族として扱ってくれるということだろうか。
裁判が終わったその後は……。
いや、考えるのはやめておこう。
翌日になり、裁判までの期間は好きに過ごすようレオに伝えた。
どうやらレオは、先日見かけた男を捕まえるつもりらしい。
おそらく男を捕まえたところで、裁判の結果が変わる事はない。
だけど、レオには自由にさせておこう。
希望があれば、絶望から目を逸らせるもの。