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吸血貴族の愛し人  作者: SHノーマル
第二部
26/31

第26話 偽りの罪過

「こっちだ! 逃がすな!」

「身なりのいい男だ! 見つけ次第、袋叩きにしろ!」


路地裏のあちこちから、怒号と複数の足音が聞こえてくる。担いだ男が重い。このままでは、追いつかれるのは時間の問題だ……!


「くそっ……悔しいが、仕方ない、か……」


俺は、誘拐犯の捕縛を断念し、その場に男を転がすと、身軽になって一気に駆け出した。


「いたぞ! あそこだ! 追え!」

「ちくしょう! あの抜け道に入りやがった!」

「待て! なんだアイツは!? 俺たちのシマを知ってる奴しか通れねえはずだぞ!?」


子供の頃、この掃き溜めのような場所で生き延びるために覚えた抜け道は、幸いにも、今も健在だった。

入り組んだ迷路のような路地を駆け抜け、追っ手の声を徐々に遠ざけていく。なんとか、撒けそうだ……。

そう思った矢先、薄暗い路地の出口で、一人の大柄な男が、仁王立ちになって俺の行く手を塞いでいた。

まずい! このままでは、挟み撃ちだ……!


「……ほう? ずいぶんと景気よく暴れているじゃねえか。お前か? さっきから騒ぎを起こしてるってのは?」


男は、俺を値踏みするように睨みつけながら、低い声で言った。その声、その体躯……どこかで……。


「……待てよ? その顔……お前、もしかして……レオ、か?」


俺を睨みつけていた男は、不意に目を見開き、俺の名前を口にした。その時、俺もようやく、目の前の男が誰であるかに気づいた。


「……バロムのおっさん!? なんで、こんなところに!?」

「はっはっは! 奇遇じゃねえか、坊主……いや、もう『坊主』って歳でもねえか。ずいぶんと、でかくなりやがって」


それは、かつてローソゼル家の別邸で、俺に護身術を叩き込んでくれた、あのバロムだった。バロムは、俺だと気づくと、それまでの険しい表情を一変させ、昔と変わらない、人の好い笑顔を浮かべた。


「いやあ、俺は、ちょいとばかしギャンブルに手を出しちまってな。有り金がすっかり底を尽きやがってよ。それで、ここでしばらく用心棒まがいの仕事をして、糊口をしのいでるってわけだ」


バロムは、少し恥ずかしそうに頭を掻きながら、自身の近況を語った。そして、すぐに話題を変えるように、俺に話を振ってきた。


「で? お前こそ、どうしてこんな所で、追われる羽目になってるんだ?」

「……話せば長くなるんだが、ある領地で、『吸血鬼が人を攫っている』なんて馬鹿げた噂が流れていてな。それが原因で、エルザがあらぬ疑いをかけられているんだ。その冤罪を晴らすために、元凶である誘拐犯を捕まえようとして、逆に追われることになった」

「吸血鬼……? ああ、なるほどな……。そういうことか。……ったく、どいつもこいつも、くだらねえ」


俺が簡潔に事情を説明すると、バロムも王都で流れている噂を知っていたのか、すぐに状況を察してくれたようだ。苦々しげに顔を歪めている。


「だが……結局、誘拐犯は捕まえ損ねた。それどころか、逆に追われる身だ。……おっさんも、俺の邪魔をするのか?」


俺が覚悟を決めて問いかけると、バロムは黙って首を横に振った。そして、半歩身を引き、俺が通れるだけの道を開けてくれた。


「……行きな」

「……いいのか? おっさんの雇い主は、あいつらの仲間なんだろう?」

「構わねえよ」


バロムは、こともなげに言った。


「下らねえ奴らの下らねえ企みのために、お前さんたちが苦しむ必要なんてどこにもねえ。俺は、金で雇われたただの用心棒だ。人を守るのが仕事であって、捕まえるなんてのは仕事じゃねえからな」

「おっさん……。ありがとう。この恩は、いつか必ず――」

「いいってことよ。それより、お嬢様……エルザ様にも、よろしく伝えといてくれや」


俺はバロムに深く頭を下げ、彼が開けてくれた道を駆け抜けて、ようやく人通りのある大通りへと出た。

ここまでくれば、もう大丈夫だろう。人々の目があり衛兵も巡回しているこの場所で、裏通りの連中が軽々しく手出しをしてくることはないはずだ。


……だが、あの誘拐犯をあと一歩のところで取り逃がしてしまった。その事実が、重くのしかかる。

今度こそ、無実を晴らすためにも必ず捕まえてやる……。

そう心に誓いながらも、俺の胸には焦燥感と無力感が渦巻いていた。


なんとか屋敷へと戻る。裏通りを駆け抜けたせいで、一張羅の執事服は泥と埃で汚れてしまっている。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

エルザに、心配をかけないよう、なるべく、いつも通りに振る舞わなければ……。


俺は、市場で買ったオレンジの入った紙袋を握りしめた。時間がなく、慌てて適当に選んだものだ。……エルザが、このささやかな贈り物で、少しでも心を和ませてくれれば良いのだが。


屋敷に戻ると、行きよりも明らかに衛兵の数が増えており、館全体が異様な静けさに包まれていた。重苦しい空気の中、俺はエルザの部屋へと続く廊下を歩き、静かに扉をノックする。


「エルザ? 俺だ。入るぞ」


返事を待たずに扉を開ける。

部屋の中は薄暗いままだった。窓のカーテンは閉め切られ、ランプの灯りも点けられていない。その部屋の中心、ベッドの上に、エルザはただ黙って座り込み、力なく俯いていた。

普段の彼女からは考えられないほど、その姿には生気が感じられない。


「エルザ、大丈夫か? 顔色が悪そうだが……。少し待っていてくれ。すぐに温かい飲み物でも……」


俺が慌てて声をかけると、彼女はうつむいたまま、まるで遠い世界の出来事を語るかのように、静かに、しかしはっきりと告げた。


「……レオ。私……罪を認めることに、したわ」

「……なっ!? ……何を、言っているんだ? エルザは、何もしていないだろう!?」


理解できない言葉に、俺は思わず声を荒げてしまう。


「……もう、仕方のないことなのよ。このまま私が罪を認めなければ、きっと、いつかあなたにも……そして、あの領地の、罪のない領民たちにも、危害が及んでしまうわ……」

「そんな……! 聞いてくれ! 今日、俺は、あの誘拐犯の男を見つけたんだ! あいつを捕まえて、法廷に引きずり出せば、きっと……!」


そんな俺に対して、エルザは力なく首を振る。


「……いいのよ。もう、いいの。どのみち、私に残された道は二つだけ。罪を認めずに、形だけの裁判で断罪されるか。

……あるいは、自ら罪を認めて、裁きを受けるか。それしかないのなら……せめて、あなただけでも……」

「良いわけないだろう! そんな……!」


彼女は俯いたままで、顔を上げようとしない。

俺は、エルザのあまりの変わりように、ただ愕然とするしかなかった。

彼女からは、かつての気高さや困難に立ち向かう強い光が消え失せ、深い絶望だけが漂っている。


「……怒鳴ってしまってすまない。……一体、何があったんだ? 教えてくれないか?」


俺は必死に平静を装い、優しい声で尋ねた。

エルザは、しばらくの間、黙っていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「今日の、尋問の時間に……カラバル侯爵が、来たのよ」

「カラバル侯爵が……!?」

「ええ……。そして、彼は言ったわ……。もし、私がこのまま罪を認めないというのなら……王国軍を派遣して、私たちの領地の領民たちから、力づくで『事情』を聴く、と……」

「なんだと……?」

「そして……もし、領民の中に、私の『罪』を知りながら隠していた者が一人でもいれば、それは反逆とみなし……連帯責任として、村ごと……処分する、と……そう、言っていたわ……」


軍隊を派遣し、領民を脅し、偽りの証言を引き出す、だと……? なんて卑劣な……!

だが侯爵といえども、正当な理由なく、一領地に軍隊を派遣することなど、そう簡単にできるはずがない。

おそらく、それはエルザの心を折るための、ただの脅し……虚言に違いない。

だが……今の、精神的に追い詰められているエルザにとって、その脅しは、あまりにも重く、現実的な恐怖として響いたのだろう。


俺が反論しようとすると、エルザは力なく首を振った。


「分かっているわ、レオ。おそらく、ただの脅しなのでしょう。でも……万が一、ということがあるかもしれないわ。

私一人のために、あの心優しい領民たちを、危険に晒すわけにはいかないの」

「……なら、どこかへ逃げよう! 今からでも……!」

「……ありがとう、レオ」


そこでエルザは、初めて俺の目を見て、悲しげに微笑んだ。


「でもね、もう良いのよ。すべて、決まってしまったことなの。……明後日、私の裁判が開かれることになったわ。そこで、私は裁かれるのよ」

「そんな……!」


……明後日、だと……? 王都に着いてから、まだそれほど日も経っていないというのに……?

まるで、最初から全ての日程が決まっていたかのような、異常な速さだ。

エルザの心は完全に折れてしまっている。

俺がここで無理に彼女を奮い立たせようとしても、それは彼女にとって、さらなる負担となるだけだろう。

……どうすればいい? 俺は、エルザをどうすれば救える……?


「……あなたも、疲れているでしょう?」


エルザが、俺の憔悴した顔を見て、労るように言った。


「酷い顔をしているわ。……今夜は、ゆっくり休んでちょうだい。……私も、少し、休むから……」

「だが、エルザ……」

「大丈夫よ。……私は、大丈夫だから……」


俺はエルザを前にして、どうしようもなく情けない顔をしていたのだろう。

エルザは、涙で腫れた赤い目で、それでも俺を安心させようと、無理に微笑んでみせた。その痛々しい姿に、俺は返す言葉を見つけられなかった。


泣き腫らした、しかし固い意志を宿した瞳で、俺に部屋へ戻るよう促すエルザ。

俺は何も言うことができず、ただ彼女の意思に従い、重い足取りで自室へと戻るしかなかった。


自室の扉を閉めた瞬間、俺は崩れるように床に膝をついた。声にならない嗚咽が込み上げてくる。

誰かに聞かれるのも構わず、腹の底から、全ての絶望と怒りを込めて、叫びを上げた。


「うああああぁぁああっっ!!!!!!」


ちくしょう。ちくしょう……! ちくしょう……!!

どうすればいい? どうすれば、この絶望的な状況を覆して、エルザを救い出すことができる……?

何か……何か、打つ手は……本当に、もう、無いのか……?


答えの見えない問いだけが、暗い部屋の中で虚しく響き渡る。無慈悲な夜は、俺の焦燥と絶望を嘲笑うかのように、静かに更けていった。

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