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吸血貴族の愛し人  作者: SHノーマル
第二部
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第21話 誘拐事件

王都から戻った後。俺たちの領地には、しばらくの間、奇妙な静けさが漂っていた。

あれほどの騒動の後だ。王都の貴族たちから何らかの報復や干渉があるのではないかと、俺もエルザも内心で警戒していた。


だが、予想に反して、何事も起こらない平穏な日々が過ぎていく。

まるで嵐の前の静けさのような気持ちの悪い平穏。その得体の知れない穏やかさが、かえって俺たちの不安を静かに掻き立てていた。


しかし、そんな張り詰めた空気も、季節が過ぎていけば少しずつ和らいでいく。

領民たちと共に歩む日常が戻り、活気が満ちていく。実りの感謝を捧げるささやかな村祭りが開かれた夜には、エルザも俺も、久しぶりに心からの笑顔を交わした。張り詰めていた神経が、ようやく少しずつ解きほぐされていくのを感じていた。


だがその偽りの平穏は、あっけなく崩れ去る。

祭りが終わって数週間後のことだ。一人の村の若者が、文字通り血相を変えて館の扉を叩いた。


「エルザ様! どうか……どうか、お助けください! 村の者が……行方不明なのです!」


息も絶え絶えに飛び込んできた若者の言葉に、穏やかだった空気が一瞬で凍りつく。


「行方不明ですって……? 落ち着いて、詳しく聞かせてちょうだい」


エルザの声にも、隠せない動揺が滲む。


若者の報告によれば、数日前、村の若い娘が忽然と姿を消した。最初は家出も疑われたが、今朝になって、今度は幼い子供までもが姿をくらましたという。

決定的なのは、子供が最後に目撃された場所の近くで、見たことのない怪しい風貌の男がうろついていた、という複数の証言だった。

そして村の者たちは気づく。単なる家出ではなく、これは……誘拐だと。


「この村の、私たちの平穏を脅かすなど……断じて許しませんわ。すぐに捜索隊を組織し、村の警備を強化しましょう」

「は、はいっ! ありがとうございます、エルザ様!」

「あなた方も、決して一人で行動してはなりません。必ず複数人で。……レオ、お願いできるかしら」

「承知いたしました。すぐにバーレイ神父と連携を取ります」


俺はすぐさま教会へと駆け込み、神父に事情を説明する。


「――というわけで、村の有志による捜索隊の編成と、定期的な巡回の実施をお願いしたく。また、念のため、街道筋に簡易な検問所を設置することもご検討いただけないでしょうか」

「なんと、そのような恐ろしいことが……。承知いたしました。エルザ様のため、この村のためとあらば、いかなる協力も惜しみません。集会の場所が必要でしたら、どうぞ、この教会をお使いください」


神父の迅速な協力により、驚くほどの速さで屈強な村の男たちが集まり、捜索隊が組織された。

俺自身も、執事としての務めの合間を縫って、何度か捜索に加わった。


しかし霧が深いこの土地での捜索は困難を極め、数日が経過しても、行方不明の二人につながる手がかりは何一つ見つからない。

その一方で、「見慣れない、怪しい男を見た」という報告だけは、後を絶たなかった。犯人はまだ、この領地のどこかに潜んでいる可能性が高い。焦りと疲労が、村全体を覆う中、俺たちは二人一組での巡回を強化し、警戒の網を狭めていった。


館の窓から、不安げに村を見下ろすエルザの肩が力なく落ちる。


「……これでは、村の皆さんも安心できる日が遠のいてしまうわね」

「仕方がないさ。だが努力の甲斐あって、新たな犠牲者は出ていないからな。必ず、見つけ出してやる」

「ええ……。でも、皆さんのあの沈んだ顔を見ていると、胸が痛むわ……」


領民たちの不安を敏感に感じ取り、エルザは心を痛めているようだ。

そんなエルザの沈んだ気持ちを少しでも紛らわそうと、俺は別の話題を振ることにした。


「さあ、今日はラナリアが来る予定だ。しばらくは王都に滞在していたから、きっと新しい商品も仕入れてきているだろう。村の問題は一度おいておいて、応対をしないとな」

「……そうね。彼女にまで、心配させるわけにはいかないものね」


エルザが少しだけ気を取り直したのを見計らい、俺はラナリアを迎える準備を始める。

予告通り、昼過ぎにラナリアの乗る幌馬車が館の前に到着した。


館に入るなり、ラナリアが訝しげに言う。


「いやはや、……なんだか村の雰囲気が以前と違って、えらい物々しいですなあ」

「ええ、最近、少々物騒なことがありまして……。それより、ラナリアさんの方は、どうですか? 王都での商いはいかがでしたか?」

「ええ。ウチはおかげさまでよろしくやっとります。今日は王都で仕入れた目新しい品々を――」


ラナリアはいつものように、精力的に商談を進めようとする。普段なら商品に没頭して笑いあいながら商品を見るのだが、俺もエルザも、どこか上の空だった。

いつもと違う俺たちの様子を察したのか、あるいは彼女自身も何かを話したかったのか。一通りの商品説明が終わると、ラナリアはふと表情を引き締め、真剣な顔で訪ねてくる。


「ところで……お二人にお伝えすべきか迷ったんですけど、公爵閣下のお話とはまた別の、良くない噂が流れているのは耳にしとりますか?」


……また、良くない噂話か。

俺は内心で身構えながら、ラナリアに向き直る。


「どのような噂話でしょうか?」

「それが……その……なんでも……領民の生き血を啜り、それを己の糧としている貴族がいる、とか……」

「……それは、どこの領地のお話で?」


俺は努めて冷静に、辛い言い方にならないように気をつけながら訪ねると、ラナリアはごくりと喉を鳴らし、言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。


「それが……霧が、深く立ち込める地方にある、小さな辺境の領地で……そのようなことが行われている、と……」


ラナリアは、躊躇いがちに、しかしはっきりとそう言った。

彼女の言葉に、応接室は重たい沈黙が支配した。

これは間違いなく、暗に俺たちのことを指している。そんな馬鹿げた……、悪意に満ちた噂がなぜ?


隣のエルザを見ると、彼女は唇を強く噛みしめており、その顔からは血の気が引いていた。

この悪質な噂に、彼女も衝撃を受けているのだろう。


「……領民あってこその、私たちですわ。この地の民に、私たちが害をなすなど、断じてありえません」

「あ、いえ、もちろんですとも! どうか勘違いせんでください! エルザ様の言う通り、領民の皆さんとエルザ様が親しい関係を築いとるんは、ウチはよく知っとります!」


エルザは震える声で、しかしきっぱりと言い放ち、ラナリアが、慌てたようにエルザの言葉を補足する。

確かに、この領地の者たちは、そんな馬鹿げた噂を信じはしないだろう。

なにより館の掃除を頼んだり共に働いたりする中で、俺たちの人となりは伝わっているはずだ。


だが、遠い王都の人間たちはどうだろうか?

顔も知らない貴族や民衆は、面白おかしく脚色された噂話を容易く信じてしまうのではないか?


今はまだ、噂の中でエルザの名前が具体的に挙げられてはいないようだが、いつ、誰がその名を口にし始めてもおかしくない。

今はまだ、エルザの名前が具体的に挙げられていないとしても、時間の問題かもしれない。そうなれば、一体どんな事態が待ち受けている? もちろん、全く別の貴族の話である可能性も捨てきれないが……。


「……ちなみに、ラナリアさん。他には、何か気になるような噂話はありましたか?」

「えっと、他には……その……追放された吸血鬼の一族が、かつての地位を取り戻すために、辺境の地で密かに力を蓄えている、というような噂も……あります」


その言葉を聞いた瞬間、ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。

これは間違いなく、エルザのことを指している。悪意を持って歪められた彼女の境遇そのものだ。

エルザも隣で息を呑むのが分かった。彼女の顔は蒼白になり、普段はめったに見せないような、険しい怒りの表情を浮かべている。



ふと、脳裏に王都で対峙したカラバル侯爵の、あの慇懃無礼な態度と言葉が蘇る。「領民を大事に」と、さも親切そうに言っていた、彼の言葉が、なぜか今の状況と奇妙に結びついているように感じられた。

まさか、あの男が……エルザを陥れるために、この悪質な噂を流しているというのか……?


だが、今は何の証拠もない。憶測だけで動くことはできない。俺たちには、王都の動きを探る確かな情報網もないのだ。ただ、この悪意に満ちた噂と、領内で起こる不穏な事件という、二つの脅威に挟まれているという事実だけが、重くのしかかる。


ラナリアは、深刻な面持ちで言葉を続けた。


「これは、ウチの勘ですが……どうも、かなり良くないことが、水面下で起きている気がします。エルザ様、レオさん、どうぞ、くれぐれもお気を付けください」

「……ええ。忠告、感謝するわ」


エルザがかろうじて応える。


「お力になれずすいません。もしなにか事が起きたら、ウチも手伝います。この商会はエルザ様とレオさんあっての商会ですから」

「ええ、ありがとう。でも、そのお気持ちだけで十分よ。……万が一の事態に備えて、あなたも、しばらくはこの館に近づかない方が賢明かもしれないわね」


ラナリアが騒動に巻き込まれる可能性まで考慮したのか、エルザはやんわりと、しかし明確に、彼女にこれ以上深く関わらないようにと釘を刺す。その言葉に込められた真意を理解したラナリアは、こくりと深く頷いた。


「そう、ですな……。分かりました。今回は、少し早めに王都へ戻ることにしますんで、その道中で、また色々と情報を集めておきます。ウチはこれで失礼しますが、エルザ様、レオさんも、どうか、ご無事で」


俺たちはラナリアを玄関まで見送り、静かに重い扉を閉める。

扉が閉まるその瞬間まで、ラナリアはこちらを振り返り、複雑な、心配そうな表情を浮かべていた。


彼女なりに、俺たちの力になりたいと思ってくれているのだろう。だが、得体の知れない陰謀が渦巻いている今、彼女をこれ以上危険な渦中に引きずり込むわけにはいかない。

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