第19話 父
翌日。俺はいつもの応接室で、ラナリアからの報告を受けていた。
「――それでなんと運の良いことに! 新しく作った香水が子爵様のお目に留まりまして! 可能であれば、今後も継続してお取引したいと、そうおっしゃっとりました!」
久しぶりに顔を合わせたラナリアは、いつにも増して興奮している様子だった。どうやら、王都の貴族の目に留まったことで、彼女の商売に大きな転機が訪れようとしているらしい。
俺たちは資金の提供はできても、王都の貴族社会へのコネクションは提供できないからな。
「そうですか。それは我々にとっても、大変光栄なことです」
「中央にいる貴族に認めてもらえて、ウチも鼻高々ですわ! ここはひとつ、多少無理をしてでも王都の貴族様に顔を売っておこうと思います! そこでどうでしょう、これから売る香水の名前にエルザ様の名前を入れさせていただいても――」
「それは素晴らしいお話ですね。……ただ、一つだけ、よろしければ質問させていただいても?」
通常、一介の商品を扱うにすぎない商人が、貴族から直接認められる機会など、そうそうあるものではない。
だが貴族という存在は、時として厄介な側面も持つ。特に俺たちの場合はそうだ。
だからこそ、俺はあえてラナリアの熱弁を遮るように、言葉を差し挟んだ。
「その子爵様ですが、家名などはお分かりになりますか?」
「ええと……確か、カルミセラ家、とおっしゃっとりました。なんでも、あの高名なリュミオン侯爵家とも繋がりがあるそうで、うまくいけば、ソコとも取引ができるかも知れません!」
リュミオン家……。その名には、聞き覚えがあった。
時間は経ったが、忘れるはずもない。あの忌まわしい舞踏会で、エルザと短い会話を交わした、あの貴族だ。
エルザと面識のある貴族と、間接的にとはいえ関わりを持つことになる……。これは、果たして大丈夫なのだろうか。
「それで、早速なんですがね――。え、ええと……レオ、さん?」
俺の問いに答えた後も、意気揚々と話を続けようとしたラナリアだったが、俺の曇った表情に何かを察したのだろう。その勢いは途端にしぼみ、困惑したような顔で口をつぐんでしまった。
俺は静かに思考を巡らせる。
貴族社会におけるエルザの評価は、決して高くない。むしろ、その特異な体質ゆえに、好奇の目や、時には悪意に晒されることすらある。
商品にエルザの名前を冠することは名誉な事だが、貴族たちが商品と俺たちの体質を結びつけ、それが悪評の火種となる可能性はないだろうか。
ここは慎重を期すべきだ。ひとまずエルザに相談して――
「残念ですけれど、私の名前を入れるのは、止めておいていただけますかしら」
相談しようと考えていた、その矢先。背後から凛とした声がかかった。
振り向くと、いつの間にかエルザが部屋の入り口に立っている。
「エルザ様。よろしいのですか?」
俺が尋ねると、エルザは静かに頷いた。
「ええ、とても残念だけれど……。万が一のことを考えると、仕方のないことだわ。ラナリア、あなたは私たちの体質について、どの程度ご存知かしら?」
「え、えと……。まあ、その、多少は……存じ上げてます」
「そう。それなら、もう少し詳しくお話しするわね」
エルザは俺の隣に腰を下ろし、俺たちの特異な体質のこと、そして、かつて王都の舞踏会でどのような仕打ちを受けたのかを、落ち着いた口調でラナリアに説明し始めた。
ラナリアは、病とその差別的な扱いについて、これまで断片的にしか知らなかったのだろう。エルザの話に真剣に耳を傾け、時には驚きに目を見開き、時には深い溜息をついていた。
「――というわけで、私たちの体質は、他の貴族の方々にとって、少々刺激が強すぎるようなの。私たちがこの香水に関わっていると知られれば、彼らの心に要らぬ波風を立ててしまうかもしれないわ。それがきっかけで、ラナリア、あなたの商売にまで悪い影響が及ぶようなことは避けたいの」
「そう……ですか」
ラナリアは神妙な面持ちで頷く。
「ええ。幸い、私たちは今、表舞台に出ることなく、物事を進めることができているでしょう? だから、このままの形で、あなたが表向きの顔役として商売を続けていただくことはできないかしら?」
「それは……構いません。しかし、その……名誉のようなものは、要らんので? こういうんは、貴族様がご自身の名を世に知らしめて残すための、またとない好機だとばかり思っておりましたけど……」
確かに、貴族の名前を冠した香油や香水が社交界で広く使われるようになれば、それは大きな名誉となるだろう。
だが残念なことに俺たちの置かれた状況では、その名誉よりもリスクの方が遥かに大きい。
エルザは穏やかな、しかし確かな意志を込めた声でラナリアに語りかける。
「名声なんて、どれほど華々しく咲き誇ったとしても、いずれは散るか、枯れるかのどちらかしかないものよ。それに、たとえ私たちがささやかな名声を手に入れたとしても、複雑な貴族社会の中では、あっという間に溶けて消えてしまうかもしれないわ。だから惜しいけど……構わないのよ」
「……エルザ様が、そうおっしゃるのでしたら。ウチは、そのお気持ちを汲んで動くだけです」
「ええ。あなたにお任せするわ、ラナリア」
寂しそうにそう言うエルザの言葉を受け、ラナリアは少しの間、何かを考え込むような表情を見せた後、ふと顔を上げて口を開いた。
「……でしたら、印章を作るというのは、いかがでしょう?」
「印章? 家の紋章……とは、違うものよね?」
「はい。紋章では、どこの貴族様のものか分かってしまいますし、なにより香水のような小さな瓶に書くとなると手間がかかります。なにか、お二人だけの独自の印章……書きやすくて、それでいて一目で分かるようなものを、ご考案いただけませんでしょうか?」
彼女の説明によれば、商品の目印となるような何らかのマークを入れることは、元々考えていたらしい。しかし、香水の小瓶に描ける大きさで、複雑な貴族の紋章を正確に入れるのは難しい。そこで、シンプルで象徴的なデザインを考案してほしい、という提案だった。
「エルザ様がお考えになった印章を、品質保証の証にします。これで、少しでもエルザ様のお気持ちが満たされれば、と」
「まあ、そこまで気を遣っていただかなくても構わないのに……。でしたら、このようなデザインはいかがかしら?」
エルザはそばにあった羽ペンを手に取り、紙の上にさらさらと、どこかコミカルで、それでいて愛らしい絵を描き出した。
「これは……?」
「ふふ、私とレオの口元にある、尖った牙を模してみたのよ。これを少し整えて、使っていただけるかしら」
「なるほど……! 分かりました。この図案を基にさせていただきます」
ラナリアは、エルザが描いたスケッチを大事そうに懐にしまった。このエルザのデザインを元に、後日、専門の職人に依頼して仕上げてもらうのだろう。
「ところで、エルザ様。王都で、ちょいと良くない話を耳にしましたんで、念のためお伝えしておきます。あくまでも、ただの噂話なんですが……」
印章の話が一段落すると、ラナリアは少し声を潜めて切り出した。
「あら? いったい、何のお話かしら?」
「はい、なんでも王都では、ローソゼル公……エルザ様のお父上が、重い病に伏せっておられる、という噂が広まってとるそうで。ただ、それもあくまで表向きの話で、実際には何者かに毒を盛られたのではないかと、まことしやかに囁かれとります」
俺は、思わずエルザと顔を見合わせた。彼女の表情にも困惑の色が浮かんでいる。……お互いに、全く心当たりのない話のようだ。
「まあ、噂はあくまで噂に過ぎません。ですんで実際のところは不明です。ただ、王都の空気が少し騒がしかったもんで、もしかしたら、ある程度の信憑性はあるのかもしれんと思いまして」
「……そう、教えてくれてありがとう、ラナリア。でも、心配はいらないわ。王都の噂話なんて、大抵は尾ひれがついて大袈裟になっているものだから。念のため、父の様子を確かめる手紙は出してみるわね」
ラナリアとの話はそこで終わり、俺たちは彼女を玄関まで見送った。
その後、エルザはすぐさま王都にいる父宛ての手紙を書き始める。もし父の身に本当に何かあったとしても、向こうの執事など、代理の者から返事が来る事を期待してのものだ。
「でも、普通に手紙を送ったのでは、返事が来るまで時間がかかり過ぎてしまうわね……」
「バーレイ神父に相談してみよう。もしかしたら、早馬のような、急ぎの便を手配できるかもしれない」
「ええ、そうね。なるべく早く手紙を届けたいし……私も一緒に行くわ」
エルザと共に村の教会へ向かうと、教会の建物の前には、この村では見慣れない立派な馬車が一台、停まっていた。先客だろうか。こんな辺鄙な場所に、珍しいこともあるものだ。
教会の重い扉を開けると、中には一人の女性が立っていた。
仕立ての良い執事服に身を包み、凛とした佇まいをした女性。この村の人間ではない。おそらく、王都から来たのだろう。だが、その顔には、どこか見覚えがあるような気がした。
「おや、エルザ様、レオ殿。ちょうど良いところへ。王都よりお客様がお見えになっております。ロゼッタ殿、こちらが当領の領主であられる、エルザ様になります」
バーレイ神父に紹介され、振り返ったその人物は――かつて、ローソゼル家の本邸で共に働いていたメイド、ロゼッタだった。
なぜ彼女がここに、と問いかける前に、ロゼッタの方から丁寧な挨拶があった。
「ご無沙汰しております、エルザ様。そして、改めてよろしくお願いいたします。まさか、このような形で再会することになるとは、運命とは数奇なものですね。……それからリア、いえ今はレオ、とお呼びすべきでしたか?」
どこか含みのある笑みを浮かべながら、彼女はそう訪ねて来た。
……屋敷で一緒に働いていた、ロゼッタなのか。気が付かなかった。
面影は確かにあるが言葉遣いも洗練されており、落ち着いた物腰はまるで別人のようだ。
「エルザ様。早速で恐縮ですが、あなた様のお父上の件で、私が代理人としてこちらへ派遣されました。お手紙を預かっております。どうぞ、お読みください」
……俺たちが抱いていた様々な疑問への答えは、手紙を出すよりも早く、向こうから届けられたようだ。
エルザは「公爵の代理人」という言葉を聞き、ロゼッタに対して賓客としての礼を尽くそうと、すっと背筋を伸ばした。
「まあ、遥か遠方よりわざわざお越しいただき、深く感謝申し上げますわ。早速、お迎えに相応しい準備を――」
「お気遣い痛み入ります、エルザ様。ですが状況が状況ですので。今は形式的な礼儀を優先している場合ではございません」
かしこまって挨拶をしようとするエルザを、ロゼッタは穏やかに制止し、ちらりと俺の方へ視線を向けた。
……先ほど彼女は俺の事をリアと呼び、わざわざ言い直した。
あの館にいたころから俺が男であることは、彼女に薄々勘付かれているのではないかと思っている節があったが…、気づかれていたのか。
悪戯っぽく相手を弄り倒すのが好きな彼女の事だ。
俺とエルザの関係に対して、色々と追求されるのではないかと、一瞬身構える。
だが、彼女はそれ以上その件に触れることはなく、すぐにエルザの方へと視線を戻し、その表情を真剣なものへと切り替えた。
その様子を見て取ったバーレイ神父は、俺たちに配慮したのか、恭しく一礼すると、静かにその場を後にした。
「……さて、エルザ様。大変申し上げにくいのですが、何よりもまず、お伝えしなければならないことがございます。突然のことで、お心苦しいとは存じますが、どうか、心してお聞きください。……あなたのお父上であられる、バーミュート・ローソゼル公爵閣下が、先日、お亡くなりになりました」
神父が席を外したのを確認すると、ロゼッタは抑えた、しかしはっきりとした声でそう告げた。
それは俺たちの漠然とした不安を遥かに超える、最悪の知らせだった。
「……そう、ですか。お言葉、しかと、受け止めました」
か細い、絞り出すような声でエルザが応える。彼女は苦しそうに目を伏せ、唇を噛みしめていた。
そんなエルザに、ロゼッタは二通の手紙をそっと手渡す。
「こちらの一通は、公爵閣下の死後発表された、正式な遺言状となります。そして、もう一通は公爵閣下が生前、内密にエルザ様に宛てられた、私的なお手紙でございます。どうぞ、ご確認ください」
エルザは震える指で封を破り、手紙を読み始めた。文字を追うごとに、彼女の顔からは血の気が失せていくのが分かった。
「レオ……これは、二通とも、お父様からの手紙よ……。毒を、盛られた可能性があると、そう書いているわ……」
なんだって……?
俺は驚きのあまり、声も出なかった。父親自身からの手紙ということは、生前に書かれたものなのだろうか。その疑問に答えるかのように、エルザは言葉を続けた。
「体調を崩されてから、別の屋敷……そう、かつて私たちが住んでいた、あの屋敷で療養されていたそうなの……」
エルザは震える手で手紙を持ちながらも、動揺を悟られまいと必死に平静を装っている。俺はそっと、エルザの震える手に自分の手を重ねた。
……わずかに震えは収まったようだ。
「お父様は……私のために、遺産の一部を分けてくださったそうなの。今後、私が生活に困ることがないように、と……。きっと、ご自身の身が長くない事を、予期しておられたのでしょうね……」
エルザは弱々しく、最後は声にならないほどの囁きでそう言った。
俺は、ロゼッタの手前、執事としての体裁を保ちながらも、できる限りエルザに寄り添うようにして、彼女から手紙を受け取る。
手紙には、近日中に金品という形で遺産をエルザに渡せるよう、既に手筈が整えられていることが記されていた。
だが、それは手紙のごく一部に過ぎなかった。
手紙の中で最も多くの言葉が費やされていたのは、エルザの将来を案じ、そして、これまで父親として十分に愛情を注げなかったことへの、痛切な謝罪の言葉だった。
エルザの母であり、公爵の最愛の妻が亡くなってから、娘であるエルザにどう接して良いか分からなかったこと。
貴族としての立場ゆえに、忌むべき病を発現させた娘を素直に可愛がることができなかったこと。領主としての地位を継がせることができなかったことへの後悔。
本来ならば、エルザの耳に入るはずのなかった舞踏会の招待状が、政敵による卑劣な嫌がらせによって届けられてしまったことへの憤り。
そして、政敵からエルザを守るため、王都から遠く離れたこの霧深い辺境の地へ、追いやる形で送らざるを得なかったことへの苦悩。
今、自分が倒れれば、様々な脅威からエルザを守る術がなくなることへの恐怖。何らかのよからぬ事態が、エルザの身に降りかかるのではないかという、絶え間ない心配。
それらに対する、父親としての無力感と、娘の行く末を案ずる切々たる想いが、そこには綴られていた。
いつの間にか、エルザの瞳からは、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちている。
「エルザ様……」
「……平気よ、レオ。それよりも……お父様は、手紙の最後に……私のことを、愛している、って……」
手紙を通してみるローソゼル公爵は、大貴族としての重責を担う人物であると同時に、娘への愛情表現に悩み、父親としての責務を十分に果たせないことに苦しむ、一人の普通の父親だった。
……そんな父親の不器用な愛情を、彼女は死の間際に書かれた手紙を通して知ったのだ。
「レオ……お父様は、ずっと、私のことを想ってくださっていたのかしら……」
「……ええ。間違いありません、エルザ様」
俺が力強く頷くと、彼女は俺の胸に顔を埋め、声を殺して、しゃくり上げて泣いた。
「エルザ様……。今は、ゆっくりお休みになるのがよろしいかと存じます」
「ええ、そうするわ。でも、その前に……」
エルザは涙を拭うと、毅然とした表情でロゼッタを見据える。
「ロゼッタ、お聞きしたいのだけれど……お父様の件、他に知っている者はいるのかしら?」
「公爵閣下にごく近しい者たちは存じておりますが、公式にはまだ発表されておりません。ですがすぐにでも、噂となって広まることでしょう」
「やはり、そうなのね……。レオ、お父様の庇護が無くなった今、今後は私たちの身にも危険が及ぶ可能性があるわ。くれぐれも、用心してちょうだい」
エルザは、貴族令嬢としての威厳を取り戻し、はっきりとした口調で告げる。その目は涙で赤く充血していたが、表情には確固たる意志が宿っていた。
「私は、この辺境の領地を与えられるのと引き換えに、貴族としての相続権の多くを放棄しているわ。お父様が亡くなった今、ローソゼル家の爵位は、おそらく傍流の誰かが引き継ぐことになるのでしょうね」
「それならば、結果として権力争いに直接巻き込まれる可能性は低くなるかもしれませんね」
あえてエルザに完全な相続権を与えなかったのは、複雑な貴族社会の政争から彼女を守るための、父親なりの配慮だったのかもしれない。
「ええ。でも……もし父上が本当に暗殺されたのだとしたら、それを好機と見て、誰かが私を傀儡として担ぎ上げようとする可能性も否定できないわ」
エルザの親戚筋にあたる貴族が動くとなれば、それなりの家格を持つ者だろう。権力争いの渦中に引きずり込まれるのは、あまり考えたくない事態だ。
エルザは再びロゼッタに向き直る。
「兎にも角にも、お父様の葬儀が執り行われるのであれば、娘である私が出席しないわけにはいかないでしょう?」
「はい、エルザ様。それこそが私が表向きの用件として、こちらへ参った最大の理由でございます。葬儀の主催は、爵位こそローソゼル家には及びませんが、傍流にあたるエルミテッド伯爵家、ならびに、彼らを支援するいくつかの貴族家によって執り行われる予定です。つきましては――」
ロゼッタは近く執り行われる葬儀の詳細と、なぜエルザへの連絡がこれほど遅れてしまったのかについて、説明を続けた。
彼女の話によれば、エルザに父の危篤を知らせる手紙を届けようとした際、様々な妨害工作に遭い、大幅に日数を浪費してしまったらしい。その結果、本来ならば先に届けられるはずだった危篤の知らせを告げる私的な手紙と、亡くなる直前に書かれた遺言状を、同時に持参する形になってしまったのだという。
「――というわけで、改めて、こちらが葬儀への正式なご案内状となります。また、私はエルザ様の王都への送迎も拝命しておりますので、ご準備が整い次第、出発できるよう手配いたします。
数日以内に出発なされば、葬儀には十分に間に合いますので、どうぞ、お慌てなさらずに」
ロゼッタが乗ってきた立派な馬車は、俺たちを王都まで送り届けるためのものだったのか。
こちらには満足な移動手段がないだけに、この手配は非常に助かる。
それから、エルザは僅か一日で王都へ向かうための準備を整えた。
そして翌日、俺たちはロゼッタと共に馬車に乗り込み、父の待つ王都へと旅立つことになった。




