第18話 平穏なる日々
ラナリアとの交渉から、数年の歳月が流れた。
館には住民たちの厚意により、色とりどりの花々が美しく咲き誇る庭園が作られた。
俺はその庭園で、ティーカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。そんな俺の様子を、テーブルの向かい側に座るエルザが楽しそうに眺めている。
ティーカップに紅茶を注ぐと、芳醇な香りがふわりと周囲に漂った。
俺はそっと、紅茶の満たされたカップをエルザの前に置く。
「とても良い香りね」
「ああ。先日、王都で上質な茶葉を仕入れられるようになったと言って、ラナリアが届けてくれたものだ」
エルザは上品な仕草でカップを手に取り、そっと口をつける。ゆっくりと喉を潤したあと、小さく満足げな息を吐いた。
「ありがとう、レオ。今日の紅茶も、とても美味しいわ」
「お褒めにあずかり光栄です、エルザ様。貴女様の執事として、こうして紅茶を淹れられることを、誇りに思います」
俺が少し芝居がかった口調で言うと、エルザはくすりと可憐な笑みをこぼした。
「さあ、あなたも座って。私の優秀な執事さん」
「それでは、お言葉に甘えて」
促されるままに、俺もエルザの向かい側の席につく。
エルザは、特に霧が深く立ち込める日に、こうして庭園で俺と二人きりでお茶を飲むことを好んだ。
今度は自分のための紅茶を注ぎながら、俺はこれからのことを考える。
俺たち二人は、この数年で心身ともに成長した。特にエルザは、年々、息をのむほどに美しくなっている。
本来であれば、彼女はとうに結婚していてもおかしくない年齢だ。しかし、そういった話は一つも舞い込んでこない。
貴族たちは、彼女が抱える“病”を忌み嫌い、触れることすら躊躇う。それは実に――。
「――もったいない」
思わず、心の声が漏れた。
「なあに、レオ? 今、何か言った?」
「いえ……ただ、エルザ様がますます美しくなられたな、と思いまして」
最初の言葉を誤魔化しつつ、本心半分、からかい半分で告げると、エルザは頬をほんのりと桜色に染めた。
辺境の地で数年間、二人きりで過ごした歳月は、俺たちの関係をさらに変化させたように思う。
最近ではこうして彼女をからかい、その反応を眺めながらお茶を飲むのが、俺のささやかな楽しみの一つになっていた。
「また、からかって……。レオ、私から見たあなただって、ずいぶんと素敵になったわ。もう、すっかり立派な男性ね」
「俺は昔から落ち着いていただろう?」
「言葉遣いも立ち居振る舞いも、以前にも増して大人びて、とても格好よくなったわ。本当に、素敵よ」
「……っ。そう、か」
不意に褒められ、持っていた紅茶をこぼしそうになる。
……なるほど、先ほどの仕返しか。このままでは分が悪い、話題を変えよう。
「そ、そんなことより、最近は何か村がソワソワしているみたいだが、何か催しでもあるのか?」
「ええ。近いうちに、村のお祭りがあるそうなの。今までは財政的に厳しくて、かなり質素だったみたいだけれど、最近は村にも余裕ができたから、今年は盛大にやりたいんですって。
皆張り切っているみたいよ。きっと、もうすぐレオのところにも正式な話が行くはずだわ」
余裕が出てきた、か。確かに、この領地の人間は元々優しく明るい気質だったが、最近は特に笑顔が増えたように感じる。
香油の製造という新たな産業が、村人たちの懐を潤し、心にもゆとりをもたらしているのだろう。
「今回の祭りは、領主として、なにか特別な役割や義務のようなものがあるのか?」
「特に決まったものはないわね。私たちがここへ来るずっと前から続いているお祭りなのだから、口を出すようなことじゃないわ」
「それなら気楽でいいな」
「そうとも限らないわよ? 神父様から報告を聞いて、お祭りが滞りなく進むように、裏方で色々と調整してあげる必要はあるでしょう。
レオはその辺りの実務で、少し忙しくなるんじゃないかしら?」
裏方での調整なら、別に問題はない。どこぞの貴族の舞踏会のように、賓客をもてなし、飽きさせないように様々な趣向を凝らすとなると骨が折れるが、村の祭りであれば、そこまで気を遣う必要もないだろう。大した手間ではなさそうだ。
「そういえば、新しく試作した“香水”、村の酒場の女将さんがとても喜んでいたわよ」
「ああ、試供品として少し渡したんだったか。どうだった? なにか問題はなかったか?」
「いいえ。問題どころか、香水が肌荒れにも効くらしいのよ。最初は手首や首筋につけていただけだったらしいけれど、最近では顔全体に塗るようになったって。香りはもちろん、薬としても手放せないって言っていたわ」
「へえ……。意外、でもないか」
“香水”は、錬金術師が使う器具を用いて精製した純水と、丁寧に抽出した花の精油を混ぜ合わせて作った、新商品の試作版だ。
香りを楽しむためのものとして開発したが、肌荒れにまで効果があるとは予想外だった。
まあ、原料の多くは元々薬草として用いられてきたものだ。そういった副次的な効果が現れても、不思議ではないのかもしれない。
「ラナリアさんにも、そのことは伝えておいたわ」
「話が早いな」
行商人のラナリアとエルザは、いつの間にかすっかり打ち解け、友人と言っても差し支えない間柄になっていた。
当初、俺はラナリアが領主であるエルザに対し、商人として無理な要求を直接持ち込むのではないかと警戒していた時期もあった。
だがそのあたりは彼女も心得ていたようで、信頼を損なうことなく今の関係へと至っている。
なんなら今では、ラナリアは時折、俺たちのささやかなお茶会に顔を出すまでになっている。
この数年で彼女は自身の商会を立ち上げ、従業員も雇った。おかげで荷物の運搬や販売といった実務は、彼女の部下に任せられるようになった。
もちろん、その商会の最大のパトロンは、俺たちだ。
そのおかげで、彼女も一介の行商人からは卒業した――とは言っても、商談のために王都とこの領地を行き来する生活は変わらず、あまり長く領地に滞在することはないのだが。
「ラナリアさんのおかげで、娯楽品も少しずつ手に入るようになってきたわ」
「領民の生活にも余裕が出てきたな。暮らしが豊かになるのは良いことだ」
「これも、レオが頑張ってくれたおかげね」
「それを言うなら、エルザも頑張っただろう」
エルザは穏やかに微笑み、俺もまた微笑みを返す。
こうして、日課となった何気ない会話が、ゆったりと流れていく。
「そういえば、宿屋の女将さんが頼んでいた珍しいスパイスも、ようやく輸入できるようになって――」
「へえ、じゃあ今度――」
「それでね、村の子供たちが――」
「それは、少し困るな……」
「……」
「……」
日々の出来事を語り合っているうちに、自然と会話が途切れる。ふと気づけば、遠くに聞こえる小鳥のさえずりと、庭園の木々を揺らす風の音だけが、あたりを静かに満たしていた。
エルザと視線が絡み合う。俺は、顔に集まる熱を誤魔化すように、はにかんだ笑みを浮かべた。すると彼女も、頬をわずかに赤らめながらも、俺から目を逸らすことなく、優しく微笑み返してくる。
ここからは言葉を用いない会話、互いの瞳の奥にある想いを、静かに読み解きあう時間だ。
彼女の瞳が、俺に問いかけてくる。
――ねえ。私は今、とても幸せよ。レオは?
――……ああ、俺もだ。エルザ。
目と目だけで交わされるその会話は、互いの感情がそのままに伝わってくる。
言葉にできないからこそ、嘘をつくことのできない時間。俺たちはその沈黙の中で、他愛のない会話を無言のまま続けていく。
この時間は、俺にとって少しだけ危険だ。
エルザとこうして見つめ合っていると無性に彼女の血を欲する衝動が湧き上がってくる。
そのたびに俺は、カップに残った紅茶をわずかに口に含み、喉の渇きにも似た衝動をやり過ごす。この、俺の心の揺らぎも、彼女には見透かされているのだろうか。
不意に、エルザの瞳が何かを訴えかける。
――ねえ、紅茶に合う、甘いものが欲しいわ。
――分かった。今、用意する。
この数年で、もう一つ変化したことがある。エルザの味覚だ。
吸血を覚えてからというもの、ほとんど受け付けなくなっていた普通の食事だが、最近になって、ほんの少しだけ――蜂蜜やジャムといった、甘味の強い嗜好品ならば、味わえるようになってきたのだ。
俺がテーブルの上のケーキスタンドから、赤いジャムの小瓶を手に取ると、エルザは小鳥のように可愛らしく口を開け、こちらに顔をそっと近づけてくる。
――食べさせて。
――……まったく、仕方のないお嬢様だ。
銀のスプーンで一匙すくい、エルザの小さな舌の上に、そっとジャムを乗せてやる。彼女は目を細め、口の中でゆっくりとそれを転がしてから、こくりと飲み込んだ。
無言の時間は終わりを告げ、エルザが口を開く。
「……おいしい。これは、野イチゴのジャムかしら?」
「そうだ。もっと食べるか?」
「ううん、私はもう大丈夫よ。それより、レオも何か食べたかったのでしょう? 今はこれしか用意がないけれど、一緒に食べましょう」
……どうやら、少しだけ俺の心も見透かされていたようだ。
だが、別に構わない。ちょうど俺も、くすぶる渇きを何かで紛らわせたかったところだ。一口だけ、いただくことにしよう。
「味覚も少しずつ戻ってきているみたいだな。他の味にも挑戦してみるか?」
「そうね……。でも、一度にたくさんは無理でしょうし、あとでレオが食事をする時に、一口だけ分けてもらえればいいわ。今みたいにね」
そう言うと、彼女は再び頬を赤らめて、はにかむように微笑んだ。
つまり、また俺に料理を食べさせてほしい、ということか。どこまでも甘えん坊なお嬢様だ。
「分かったよ。次の食事の時も、また食べさせてやる。……最初はスープからが良いでだろうな」
「ええ、楽しみにしているわ」
さて、どんなスープを作ろうか。彼女がまた食べたくなるような、優しい味付けにしないとな。
俺たちはティータイムを終え、静かな館へと戻る。
掃除など生活の手伝いをしてくれる人たちは仕事を終え、今はもういない。この広い館には、俺とエルザの二人だけだ。
俺は料理の準備のために厨房へ向かう。普段の俺の食事は、置いてある堅いパンと、干し肉を白湯で戻しただけの質素なスープで済ませていた。
だが、今日はエルザが食事をしたいと言っている。彼女の期待に応えるためにも、スープには少しだけ手間をかけることにした。
「……このスープ、美味しいわね」
食卓についたエルザが、湯気の立つスープを一口含み、嬉しそうに呟いた。
「食べられそうでよかった。パンも食べるか?」
「……いいえ、まだ無理だと思うわ。もう少し、普通の食事に慣れてからいただくわね」
エルザは煮込んだスープを、大切そうに、ゆっくりと味わっている。まだ味覚は完全には戻っておらず、味はぼんやりとしか分からないようだったが、それでも彼女は、最後の一滴まできれいに飲み干した。
「……そういえば、こうしてレオと普通の食事をするのは、初めてかしら」
「そうだな。前の屋敷ではそんな事できなかったからな」
「ふふ、誰かと一緒に食事をするのって、こんなにも楽しいものなのね」
言われてみれば、エルザと共に食卓を囲むのは、これが初めてかもしれない。
かつてのローソゼル家の館にいたころは、使用人である俺が食事を共にすることなど許されなかった。そして、この辺境の地に移り住んでからは、俺の血が唯一の食事となっていたからな。
「……もっと味がはっきりと分かるようになったら、私も料理をしてみようかしら」
「貴族のお嬢様が料理をするものなのか?」
「どうかしら。他のお家のことは、よく分からないわ。でも、村の皆さんは当たり前にやっていることだし……、それに何より、食事を一緒に楽しめる相手がいるなら、作るのだってきっと楽しくなると思うの」
「……そうか。楽しみにしているよ」
「ええ。その時は、レオも手伝ってくれる?」
「もちろんだ」
エルザの手料理か。
最初の料理は不格好なものができあがるものだ。
俺も料理はあまりしたことがないが、彼女が出来栄えにがっかりしないように、しっかりと手伝ってやろう。
食事が終わると、いつものように彼女に血を分け与え、俺は自室へと戻る。
部屋に入ると、俺は背後の壁――エルザが眠っているであろう部屋との境にある壁に、そっと寄りかかる。
分厚い石造りの壁は、優れた防音性を備えている。隣室の物音一つ聞こえてこない。それでいい。俺は、うかがい知ることのできない壁の向こうの彼女に、意識だけを静かに向ける。
……エルザは、本当に綺麗になった。
最近では、彼女と話しているだけでも、ふとした仕草や表情の一つ一つに、心が大きく揺さぶられる。
そして、心が揺れるたびに、あの抗いがたい衝動――彼女の血を吸いたいという欲求もまた、以前より強く、鮮明に湧き上がってくるのだ。
俺はその衝動を抑え込むように、手袋を荒々しく脱ぎ捨て、自らの手に強く噛みついた。じわりと滲む己の血を啜っていると、徐々に昂った感情が鎮まっていく。
冷静さを取り戻した頭で、ふと疑問が浮かぶ。
もし、この衝動を抑えきれなくなり、突発的に彼女の血を吸ってしまったら、一体どうなるのだろうか?
彼女のように、しばらくの間、血以外のものを受け付けなくなるのだろうか。それとも、何か別の、未知の変化が訪れるのだろうか。そして彼女とは……。
そこまで考えて、俺ははっとする。
……俺はエルザの血を吸ってしまうことを、恐れているのか?
確かに、彼女の血を吸うことで、何かが決定的に変わり、もう後戻りできなくなるような、漠然とした予感はある。
だが、それは俺が本当に恐れていることではないのかもしれない。
それ以上に俺が恐れているのは、彼女との――。
いや、よそう。
今は、考えるべきことではない。
俺はエルザの所有物であり、彼女に仕える従者だ。
ただ、彼女が求めることだけを、忠実に実行すればいい。
……それが、たとえ自分自身への言い訳に過ぎないのだとしても、な。
明日は、ラナリアが再びこの館を訪れる。
きっとまた、商売に関する様々な話があるはずだ。今はそのことに意識を集中させよう。
俺は思考を振り払い、ベッドに入って静かに目を閉じた。