第13話 新天地
数週間に及ぶ旅はおおむね何事もなく無事に過ぎ、いくつかの宿場町を経由して、治めるべき領地へとようやくたどり着く。
眼前に広がるのは、素朴で、のどかな風情のある場所だった。
手前の畑には作物が実り、遠方には小さな木立があちこちに点在している。
「ここはもう、わたくしたちの領地に入っているのかしら?」
「ああ。さっき越えた山を境にして、ここからはもう俺たちの領地になっているはずだ」
与えられた地図によれば、とうに領内のはずだ。
周囲にあまり見るものがないためだろうか。領地は地図で見るより、大きく感じられた。
当然ながら、土地の開発は進んでいない。一つの村とわずかな畑、そして手つかずの自然が広がるばかりだ。
奥のほうには民家が数軒、肩を寄せ合うように建っており、畑を耕している農民や、その傍らで遊ぶ子供たちは、物珍しげにこちらを見ていた。
「ど、どうしましょう、リア。皆の視線がこちらに注がれているわ。手を振ったほうがよろしいのかしら」
「おいおい、もう“リア”はいないだろう。まず落ち着け。……そうだな、笑顔で軽く手でも振っておこうか」
慣れない状況に戸惑ったせいか、エルザはいきなり俺の名を呼び違える。
まあ、俺もエルザのことは言えない。右も左も分からぬことばかりだ。
とりあえず、領民に悪印象だけは与えないように心掛け、あとは村長から俺たちの事を紹介してもらえばいいだろう。
その考えをかいつまんで伝えると、エルザは納得したようだ。
慣れていないため、ややぎこちないながらも、笑顔を振りまいている。
「本当に、分からないことだらけだわ。まずは村長さんにご挨拶に伺わなくちゃ」
「そうだな……。幸い、館へ向かう道の途中に、村長の家がある。挨拶をしていこう」
村長の家に向かって馬車を緩やかに走らせ、村の中央にそびえる教会で停止する。
神父でもある村長は、教会が住居も兼ねているらしく、遠目にも分かりやすかった。
教会の前に馬車が到着すると、中から神父服をまとった人物が出てくる。
その表情は柔らかく、温和そうな人柄が窺えるが、同時に白髪交じりの髪と深く刻まれた顔の皺が、重ねた苦労を物語っていた。
この人が村長だろうか。
エルザが馬車の窓を開け、穏やかに声をかける。
「初めまして。あなたが村長のバーレイ神父でいらっしゃいますか?」
「これはこれは……。お待ち申し上げておりました、領主様。私はこの村で神父と村長を兼任しております、カルロ・バーレイと申します」
言うなり、神父は恭しく頭を垂れた。
「本来なら、私から領主様の所にお伺いすべきところを、わざわざお越しいただくとは恐縮です」
「いいえ。こちらこそ、本来であれば馬車から降りてご挨拶すべきところ、持病により日光を避ける必要がございますため、馬車の中からという非礼、何卒ご容赦くださいませ」
「これは勿体ないお言葉……」
神父に対し、エルザは丁重に礼を返し、申し訳なさそうに再び頭を下げた。
貴族という立場に緊張しているのだろうか。
エルザは優しく、諭すように言葉を紡ぐ。
「領地の主として、ここをより良い土地にしていきたいと思っています。教会と村の運営、ご苦労も多いことと存じますが、わたくしに出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」
「お若いながらも実に堂々たる立ち居振る舞い、感服いたしました。本日は長旅でお疲れでございましょう。また明日、改めてご挨拶に伺います。……少々お待ちいただけますでしょうか」
バーレイ神父は一旦教会の中へ姿を消し、すぐに戻ってきた。
その手には鍵が握られている。
「館は一部、施錠しておりますので、こちらをお持ちください」
そう言って、バーレイ神父は鍵を差し出してきた。
……そうか。館の管理もこの神父がやっているのか。
「館はいつでもお使いいただけるよう整えてございますが、あいにく専属の使用人はおりません。お見受けしたところ、領主様もさほど多くの供を連れてはおいででないご様子……」
「そうですわね。使用人は追々、人を募るつもりでおります」
それを聞いた神父は、より一層、眉間の皺を深くし、困惑の色を浮かべた。
「まことに申し訳ございませんが、本日急にお越しになりますと、館にて働ける人物をすぐに集めることが難しいのが実情でして……」
「お気になさらないでくださいませ。わたくしには優秀な従者がおりますし、村の皆さまには、それぞれの暮らしがおありでしょう。わたくしの我儘で、皆様にご迷惑をおかけするわけにはまいりませんわ」
ひたすら恐縮した面持ちで謝罪する神父に対し、エルザは穏やかな微笑みで応対した。
どうやら神父は、特権を笠に着るような、傲慢な貴族を想像していたのかもしれない。
仮に俺たちが人を集めても、見ず知らずの者をいきなり使いこなすのは簡単ではない。
それに急遽寄せ集めた人材なら、本業が別にある可能性が高いだろう。それぞれが本来持つ仕事を邪魔するようなことは、エルザにとっても本意じゃないだろう。
その旨を伝えても良いが……今のこの恐縮しきった状況では、かえって話が長引きそうだ。
俺はそっとエルザに助言する。
「エルザ様、そのあたりのお話は、後日改めてなさるのがよろしいかと」
「そうね、レオの言う通りだわ。……私たちはこれより屋敷に向かいます。村の皆さんにもよろしくお伝えください。それでは、また」
俺たちは挨拶もそこそこに、そのまま館へと馬車を進めた。
神父は深々と一礼し、去りゆく馬車を見送った。
やがて馬車が館に到着する。
俺はエルザ様に手を差し伸べ、馬車から降ろした。
一方で、ここまで我々を運んでくれた御者のバロムのおっさんは、手綱を握ったまま、にやりと笑ってこちらに声をかけてくる。
「じゃあお二人さん、ここでお別れだな」
「おっさん、少し休んでいったらどうだ? ……まだ何もない場所だが」
「大丈夫だ。馬も俺も疲れちゃいねえ。俺はこの馬車を最寄りの町に運んで、それでお役御免って奴さ」
去り際のおっさんに、エルザは声をかける。
「バロム。貴方は良き理解者のお一人でしたわ。なにか困ったことがあったら、いつでも訪ねて来てくださいませ。
微力ながら支援させていただきますわ」
「……へっ。俺みたいなしがない男に丁寧なお言葉、ありがてぇこってすよ、お嬢様。そしてレオ、お前さんもせいぜい励めよ」
「色々と世話になったな、おっさん」
「いいってことよ。……お嬢様も、湿っぽいのは性に合わねえんで、これで失礼しやすぜ」
おっさんはぶっきらぼうにそう言い捨てると、そのまま慣れた手つきで馬車を反転させる。
去り際、こちらを振り返ることなく片手をひらりと上げ、別れの挨拶とした。
バロムのおっさんの姿が見えなくなってから、俺たちは新たな住まいとなる館、その敷地に足を踏み入れる。
館は、以前のローソゼル家の屋敷と比べれば、さほど広大ではない。
だが、こざっぱりと整えられ、隅々まで手入れが行き届いている。
庭園なども常に人の手が入っているのだろう、主が不在とは思えぬほど、美しく保たれていた。
「使用人もいないというのに、よくここまで綺麗に保ってくれたものね」
「そうだな。……どうしたエルザ? なんだか落ち着かない様子だが」
「だって、気になって仕方がないのもの。ねえ、少し、館の中を見て回ってもいいかしら?」
どうやら、新しい住まいへの期待に胸を躍らせているだけらしい。
俺は微笑んで頷く。
「構わないが、なにか困った事があれば俺を呼べよ」
「もちろんよ。それじゃ行ってくるわね」
エルザは、期待感を隠しきれない軽やかな足取りで館の探検へと向かった。
さて、俺は生活に必要な場所から見て回ることにするか。
厨房から応接室、ダンスホールまで、ひと通り見て回る。
生活に必要な物は、概ね揃えられていた。
いくつか足りないものはあるが、これならば、すぐにでも新しい生活を始められそうだ。
埃も積もっておらず、定期的に清掃されていたことが窺える。
これも、バーレイ神父が清掃をしてくれたお陰なのだろうか?
館を巡る途中、二階のテラスから広がる景色に思わず足を止め、しばし見入る。
村とは反対方向、館から眼下に望める位置には、静かな湖畔が広がっていた。
館に入ったときには気づかなかったが、館の裏手は、このような景観になっていたのか。
もしかすると、ここはかつて保養のための別邸として使われていたのかもしれない。
……もしこの推測が正しいとするなら、使われなくなったとはいえ保養地をそのまま領地として与えるとは、大貴族の財力というのは、やはり桁が違うものだな。
「あら、レオはここにいたのね」
そこで後ろから声がかけられた。
エルザだ。
「エルザもここに来たのか。……館はもう一通り見て回ったのか?」
「ええ。館の客間や私の部屋を見て回ったり、……それから、レオの部屋を決めていたりしたの」
「部屋? 使用人室じゃないのか?」
「ええ、レオの部屋は私の隣よ」
何とも唐突な話だ。
エルザの隣室となれば、貴族用の客室ということになる。
一介の使用人に過ぎない俺が、貴族用の部屋を使ってもよいのだろうか。
この館にも、階下に使用人用の部屋はあるだろうに。
「おいおい。使用人の俺が隣の部屋だと色々まずいだろう」
「大丈夫よ。どうせ私たち二人だけですもの。それにレオには普通の執事以上の働きを期待しているの。いちいち階下まで呼びつけになんていけないわ」
エルザによると、この館には伝声管のような便利な設備はないそうだ。
そのため、何かあるときに都度都度俺を呼び出すのは億劫だ、と。
たしかに、本来ならば廊下を巡回する使用人に、呼び鈴などで知らせるのが通例なのだろうけれど。
だが、今の館には二人しかいないからな。
さすがにそこまで手が回らない。
「……もしかして嫌だったかしら?」
「いや、そんなことはない大丈夫だ」
上目遣いにこちらを見上げるエルザに、不覚にも胸が高鳴るのを感じつつも、動揺を表に出さぬよう努めて答えた。
俺はエルザの執事だ。
お嬢様のご不便は、解消してやらないとな。
「問題ないさ。困ったことは俺に任せろ」
「よかった! ……ねえレオ。少し、お腹がすいたわ」
そういえば、俺も館についてから何も口にしていない。
厨房には保存食の干し肉や干し芋が用意されていたはずだ。
エルザに血を与えながら、俺はそれらを食べるとするか。
どうせ人がいないからという事で、俺とエルザは同じ部屋で食事をすることにした。
俺は干し野菜と干し肉を湯で戻し、簡単な塩味のスープにして口にする。
茹でた芋と合わせて、素朴ながらも滋味深い味わいだ。
一方でエルザは、俺の首筋にそっと牙を立て、血を吸っている。
最近のエルザは、こうして後ろから俺に抱きつきながら血を吸うことが好みのようだ。
彼女はやがて首筋から牙を離すと、小さく満足げな息を吐き、話しかけてこられた。
「ふぁあ……。やっぱりレオの血はおいしいわ。レオもちゃんと食べてるかしら?」
「ああ、しっかり食べているさ。俺のほうも悪くない味だ」
保存食はしっかりと下味が付けられており、存外に美味い。
エルザは食事が終わったのか、舌先でそっと噛み痕を舐めていた。
少し、くすぐったい。
血を吸い終わったのにも関わらず、そのまま俺にもたれかかったままだ。
普段ならそろそろ離してくれる頃合いだが……、今日はいつも以上にもたれかかっている時間が長いな。
「ねえ、レオ。貴方、ずいぶんと逞しくなったわね」
無理に振りほどくわけにもいかず、身じろぎせずにじっとしていると、不意にエルザから声がかけられた。
「そうか? あまり実感がないが……」
「そうよ。体もしっかりして、声も少しずつ変わっているわ。少しずつ大人になっているのね」
日々の鍛錬の成果もあり、たしかに俺の体は筋肉がついている。
また、俺はよく分からないが、声も少し低くなり始めたようだ。
そのまま前の館にいたら、ほかのメイド達が俺の秘密を知られてしまっていたかもな。
「エルザも、ずいぶんと……いや、何でもない」
エルザは前よりも美しくなっていて、時折、不覚にもドキリとすることがある。
特に彼女に血を吸われるとき、最近のエルザに抱きつかれていると心臓が早鐘を打ち、八重歯が疼くような感覚に襲われる。
この感覚は、あまり良くない兆候だ。
歯が疼く状態が長く続くと、理性が飛びそうになる。
最近、その頻度が増しているのが厄介だ。
だから俺は、エルザの見ていないところでひっそりと、過ちを犯さぬように親指と人差し指の間、手袋で隠された目立たないところを噛んで、自らの血を啜ることで衝動を抑えるようにしている。
最初はエルザのように、普通の食事を受け付けなくなるのではないかと不安だった。
だが自分の血を吸う分には問題ないようで安心した。食欲はそのままに、血を吸いたいという衝動だけを抑える事ができている。
「ねえレオ、あなたとこれから二人、館には誰もいないわ」
「……? ああ、そうだな」
「もし貴方がよければ、時々……こうして、一緒に食事をしないかしら? 私は貴方とこうしているのが、とても楽しいの」
そう言うと、彼女はより一層、体重をこちらに預けて来た。
エルザは主人として、俺に命令すればいいだけの話だ。
そして俺自身も、立場を踏まえた上で返答するなら「使用人ですので」と辞退するのが筋なのだろう。
しかし、エルザが求めているのは、そんな建前ではない。
聞いているのは、俺の意思だ。
俺は一瞬だけ迷い、言いよどんで、そして答える。
「……ああ、大丈夫だ」
「ふふっ、ありがとう」
彼女はそう言うと、首筋の噛み痕に、優しく唇を寄せた。
その柔らかな感触が伝わった瞬間、体がかっと熱くなるのを感じた。
いけない。何か別の話題を振らなければ。
「……そんなに傷口をなめて、血を我慢しているのか? 我慢しなくても、いくらでも血を吸って構わないぞ」
「もうっ! 違うわよ!」
「悪いな、冗談だ」
少し茶化したら、むくれてしまった彼女を宥める。
そっと頭を撫でてやると、彼女は少し機嫌を直したようだ。
「私はあなたの血を吸うのが好きよ。でも、それと同じくらい、こうして貴方の温もりを感じているのも好きなの。 ……それとも私がこうしていると嫌かしら?」
「……いや、そんなことはない」
ただ少しばかり、理性で衝動を抑え込まなければならないのが厄介なだけだ。
ご主人様に噛みつくわけにはいかないからな。
その言葉を、込み上げる吸血衝動と共に喉の奥に押し込める。
衝動を紛らわせるために適当な話題を振っただけだが、余計に血を吸いたくなってしまった。
……エルザも人に甘えられる環境じゃなかったから、誰かに甘えたいんだろう。
だが俺はあくまでも彼女の従者に過ぎない。
……そう、従者に過ぎないからな。
俺はそう自身に言い聞かせ、血を吸いたいという想いを必死に飲み込んだ。
やがて時間が過ぎ、就寝時間になる。
エルザにはいつものように、ベッドで眠りにつく前に本を読んでやる。
今夜は、不死である大公が己の命を分け与えることで妻を助けた、最終章だ。
「“おお、妻よ。お前が生きていてくれてよかった” そう彼は告げます。ですが彼は、自らの力を分け与えて妻を助けたことを黙っていました。彼は、その超常の魔法も、悠久の時を生きる運命をも分け与え、ただ愛する妻と同じ時間を歩むことを選んだのでした。きっと、これからも二人は寄り添い、幸せに暮らしていくのでしょう。めでたし、めでたし」
物語を読み終える頃には、は安らかな寝息を立てていた。
さて、俺も隣室へ引き上げて休むとしようか。
割り当てられた俺の新しい部屋は、貴族用の部屋というだけあって広々としており、その夜はなかなか寝付けなかった。