第12話 別れ
それから数ヶ月は引っ越しの準備に大忙しだった。
移住するための準備もひと段落し、後は明日を待つだけだ。
この間に、俺たちの関係も少し変化して、エルザも習い事の類を減らしていた。
領主としての最低限の知識は覚えるものの、現地には専門で領地を運営している者がいるらしく、その人物に大半を投げてしまっていいそうだ。
そのため、今までのように多くを学ぶことはなくなっていた。
「ねえレオ、もうそろそろかしら?」
「まだですよ。お嬢様。紅茶には適切な時間が必要なのです」
やることが減った代わりに、俺との時間が増えた。
今もエルザとのお茶の時間を楽しんでいる。
もっとも、俺がお茶を淹れて、エルザがそのお茶を楽しむだけだが。
「今は二人だけなんだから、そんな言い方をしなくてもいいじゃない」
「まだ誰か聞いてるかもしれないから一応、な。……だけどもう最後だし、いいか」
十分に時間が経ったのを確認して、俺はティーポットを持ち上げ、中の紅茶をカップに注ぐ。
琥珀色をした紅茶を注ぐと、その香りはふわり、と辺りに広がった。
俺はその紅茶を、待ちわびるご主人様の下に捧げてやる。
「さあ、できたぞ」
「ありがとう。とても良い香りね。レオが入れてくれる紅茶は大好きよ」
ご主人様であるエルザは俺の紅茶を口にすると、小さく微笑んだ。
それを見た俺は、わざとらしく大げさに敬礼の姿勢をとる。
「お口に合ったようで何よりです。エルザ様」
「もう! 今、この時間はそういうのやめてって言ってるでしょう?」
「はは、すまない。悪かった」
頬を膨らませて怒ったふりをするエルザに、軽口で返してやる。
これが移転が決まってからの、俺たちの新しい日常になっていた。
「紅茶は、いつ頂いてもいいものね」
「ああ……。他の料理はまだダメか?」
「そうね。もう前のようには、あまり味がしないわ」
日常生活でも少し変化したことがある。
エルザと俺の食事だ。
どうやら血を吸ったあの日からエルザの体質が変化したらしく、日常での食事を受け付けなくなった。
代わりに、俺の血を吸うことで食事をまかなっている。
それに伴い俺の食事も変化した。
使用人の黒パンを食べる生活から、エルザが過去に食べていたものと同様の食事をする生活へと変化したのだ。
エルザが言うには、食事で血の味が変わるから、俺が代わりに食事をするよう勧められたらしい。
おかげで俺もうまいものを食べられている。
料理長に密かに事情を話したところ、自慢の料理を食べさせることができなくなったことを残念がっていたが。
「紅茶だけは相変わらず飲めるのか」
「果実を絞ったジュースも大丈夫よ。……噛むのは得意なんだけどね」
そういう彼女は俺の肩に視線を釘付けにしている。
俺は彼女の額を目掛けて軽くデコピンをした。
「いたっ! もう、何するの!」
「見過ぎだぞ。……お腹を空かせているなら、もっとちゃんと吸えよ?」
「でもレオの体に何かあるといけないわ」
血を吸わせようとした俺に対して、エルザは困ったようにそう言った。
まったく、俺のことなんて気にしなくていいのに。
確かに俺は血を吸われているが、健康そのものだ。
どちらかというと、血を吸われる前より調子が良い。
「それに、噛み跡を誰かに見つかると困るでしょう?」
「どうせ館を移ったら、最初は俺とお前の二人だけになるさ」
人を集めるにしても時間がかかる。
人が来てからのことは領地に行って考えればいい。
なにせ色々と情報を集めて話を聞く限り、俺たちが新しく移り住む領地は、なかなかに癖の強い場所のようだ。
領地そのものは小さく、僻地だ。
戦争などの危険はないが、土地も痩せていて税収も極めて少ない。
そのため王都に納める税も微々たるものだ。
税収では生活が厳しいためか、エルザの父親から定期的に生活資金が送られてくる約束になっているそうだ。
生きていくには困らないよう取り計らっているのは、親としての愛情表現だろうか。
「引っ越しは明日だ。準備は済ませたか?」
「もちろんよ。こうしてお茶会をする余裕がある程度には終わっているわ。後は先生に挨拶をするだけね」
「お前はまだこの館の主なんだから、向こうから挨拶を待ってもいいんじゃないか?」
「いいのよ。私によくしてくれたんですもの。最後くらいは私から会いに行って話をしたいの」
「……しょうがないな」
笑顔でそう言うエルザに対して、俺は頷きを返す。
馬車の手配などは他のメイド達がほとんどやってくれており、俺はエルザの荷造りを少し手伝っただけだ。
とはいえ、館の調度品や芸術品はそのまま置いていく。
そのため貴族とは思えないほどに荷物が少ない。
メイド達も最後くらいはエルザのために精力的に働いてくれてた。
単純に、俺たちが邪魔なだけなのかもしれないが……。
「新しい土地では、村長が教会の神父も兼ねているんですって」
「へえ……。まあ、俺たちと普通に接してくれるなら別に構わないが」
俺の回答に頷きを返すエルザ。
というか、ここまで偏見があるのは貴族くらいのものだろう。
貧民街では、この体質について偏見を持つ人は少なかった。
せいぜい面倒な奴、かわいそうな奴という認識を持たれたくらいだ。
偏見なく接してくれるなら構わない。
「明日の朝、先生に挨拶に行くわ」
「ああ、最後のお勤め頑張れよ。領主様」
「ふふっ。まだ早いわよ」
翌日。
迎えの馬車が来る前に、先生のところへ挨拶に行った。
部屋をノックした俺たちを、先生は笑顔で出迎えてくれる。
「待っていましたよ二人とも。今日で顔を合わせるのも最後ですね」
先生は俺たちのためにお茶を用意してくれていた。
俺たち二人は言われるまま席に座る。
……やはり、先生の淹れるお茶はおいしい。
「今までありがとうございました先生。おかげで私はいろんなことを学ぶことができました」
「お礼を言われるようなことは何もしていませんよ。私は、あなた方二人が本来持っているものを表に引き出しただけです」
そう言うと先生はお茶を一口飲んだ。
その後、急に真面目な顔になり俺たちをまっすぐ見つめてくる。
「先に言っておきます。これから少し先の未来で、あなた方に大きな困難が待ち受けるでしょう。道は必ず拓けますので、挫けずに模索してください」
「困難……? どのような困難でしょう?」
「原因がエルザ様本人ではなく、親戚や家族に起因するもののようですが、私にもわかりかねます。ですが、あなた方二人ならどんな困難も跳ね返せますよ」
先生ははっきりとそう告げる。
おそらく占いでそういう結果が出たのだろう。
「分かりました。従者としてできる範囲の――」
「大丈夫ですよ先生。私のレオは困ったときに必ず助けに来てくれますから」
「そうですか。それなら安心ですね」
「はい! 私はレオがいるから安心して別の土地に移り住むことができます!」
最後まで言い終わらないうちに、エルザの返事で俺の言葉は遮られてしまった。
……まあいいか。
俺はご主人様の期待を損なわないように動くだけだ。
「そういえばエルザ様、私が新たに教えた園芸のほうはどうですか?」
「はい。向こうに行ったら試してみようと思います。」
「ええ、ほかにも――」
その後しばらくは、先生とエルザの他愛ない日常会話が続いた。
これが最後の時間だ。
この二人の邪魔をしないよう、俺は静かに二人を見守る。
やがて時間が来て、俺たちは部屋を出ていくことにした。
部屋を出る前、先生が去り際に声をかけてくる
「レオ。あの子をよろしく頼みますよ」
……言われなくても俺の答えは決まっている。
俺はなるべく自信たっぷりに、かつ失礼にならないよう挨拶を返してやる。
「お任せください先生。主人を守るのは従者の務めですので」
次に挨拶するのは俺の師匠でもあるバロムさんのところだ。
さすがに最後くらいは直接会っても良いだろう。
「バロムさん、今まで色々とありがとうございました」
「気にせんでくだせえ。それに二人を運ぶっていう仕事が残ってるから、まだ挨拶には早いですぜ」
バロムさんは、俺のほうに視線を向ける。
「小僧。頑張って姫様を守れよ?」
「任せてくれ。おっさんは仕事が終わったらまた館で過ごすのか?」
「いや、俺も護衛対象がいなくなってお役御免だ。馬車でお前たちを運ぶのが最後の仕事だな」
「でしたら私たちと……」
「残念だが俺も少し体を動かしたいんでね。しばらくあちこっち見て回るさ」
バロムさんはここで働いていて蓄えがある程度できたので、旅人としてふらつきたいとのことだ。
バロムさんと別れ、他にも料理長などに挨拶をするうち、やがて迎えの馬車が来る。
馬車の近くにはロゼッタとメイド達が待機していた。
「さあお乗りくださいませ、お嬢様」
「ロゼッタ。……今までありがとう」
「いえいえ。私は状況を知りながら何もできませんでした。本当によくしてくれた方は私ではないですよ」
ロゼッタは一瞬だけ俺を見る。
……俺も何もしていない。
全部エルザの性格あってのことだ。
「私はもうすぐあなたのお父上に仕えるため、別の屋敷に移動するんですよ。そうなると、もうお二人には会えませんね」
「そうなの……。あなたの幸運を祈っているわ」
「ありがとうございますお嬢様。私もお二人の幸運と繁栄を祈っております」
エルザは他のメイドたちにも向き直ると一礼をする。
「皆様のご奉仕、本当にありがとうございました。おかげさまで、私は大切な時間を過ごすことができました。新たな領地での生活もレオと共に頑張りますので、どうか皆様も元気でお過ごしください」
そう言い終えると、彼女は馬車の扉を開き、俺たちはそのまま乗りこむ。
ロゼッタは扉を閉めながら、そっと別れの言葉を告げてきた。
「これからこの館は、あなたのお父様の別荘として生まれ変わります。代わりとしてお嬢様たちには新天地が与えられます。ここでの生活とは違った新たなお二人の人生に幸運のあらんことを」
そう言うとロゼッタは扉を閉めた。
馬車が出発する中でふと後ろを振り返ると、メイドたちはそれぞれの仕事に戻っていくところだった。
ロゼッタだけが頭を下げたまま、姿勢を崩さなかった。
これで、あの館も見納めか。
しばらくは馬車に乗って旅をすることになるな。
……エルザがやけに静かだ。
エルザのほうをちらりと見ると、彼女は神妙な顔をして俺を見つめていた。
「そういえば、まだ一人挨拶をしていない人がいたわね」
「ん? 誰か挨拶を忘れたのか?」
「ええ。一人だけ」
コホン、と小さく咳払いをして俺をまっすぐ見つめてくる。
「“リア”あなたはよく、これまで仕えてくれました。これからはあなたの代わりに“レオ”が執事として私の面倒を見てくれます。本当にありがとう」
ああ……そうか。
もう俺も、リアとしてメイドの格好をする必要はないのか。
それなら、ここでリアとはお別れだ。
ここから先は俺……レオが何とかしないとな。
「“リア”として感謝を申し上げます。ご主人様。……そしてこれからは俺、レオがお前の従者だ。よろしくな」
「ええ。よろしくね、レオ」
そう言い終えて、互いが無言になる。
やがて俺たちは互いにくすくすと笑い始めた。
「もう……。二人きりなんだから、そんなにかしこまらなくたっていいじゃない」
「そっちこそな。もともとリアなんて奴は存在しなかったんだ。いない奴に礼儀を尽くす必要もないだろう」
「こういうのは一種の儀式なの。それにどんな姿であれ、あなたはずっと傍にいたわ。これからもよろしくね」
「……ん。そう……だな」
まっすぐにそう言われると少し照れる。
俺は視線を逸らして、外へと目を向けた。