第10話 壁の花の相手
お父様からの贈り物は、決まって金貨だった。
「これで好きなものを買うが良い、それ以外に必要なものがあれば手紙を寄越すように」。それだけが記された短い手紙と共に、手渡される金貨の詰まった袋。
病のため、屋敷の外へ出ることの叶わなかった私は、欲しいものすら思いつかず、それをただ仕舞い込んでいた。
長い療養がようやくひと段落し、陽光が降り注ぐ中でも、直接肌に浴びさえしなければ……つまり、日傘を差していれば問題なく過ごせるようになったのは、ごく最近のことだ。
病状がある程度落ち着いた私は、外の世界を見てみたいと願った。
お父様にお願いの手紙を送ってみたところ、そのささやかな願いは聞き届けられ、護衛付きの馬車で外出することを許された。
黒いヴェール越しとはいえ、外に出て初めて目にする昼間の街の喧騒はとても新鮮で、漏れ出た陽の光が腕をじりじりと焼くまで、私は心を奪われていた。
それからは、時折の外出の際に、馬車の窓のカーテン越しに外の世界を眺めることが、私のささやかな楽しみとなった。
ただ、私の体のことを考えると、やはり身の回りの世話をしてくれる人手が欲しくなる。
メイド達のような上辺だけ畏まった相手じゃない、もっと気軽に話せる、友人のような存在。
私はそのような相手を、そばに置きたいと願った。
メイド長に、ロゼッタを私の専属にできないかと尋ねてみた。
彼女ならば歳も近しく、良い話し相手になってくれるだろうと思ったからだ。
でも残念。彼女は将来、別の貴族の屋敷で奉公することが内定しており、私だけに時間を割くことはできないとのことだった。
他に誰か私の傍仕えに適任はいないか、何度も尋ねていると、メイド長はややうんざりした面持ちで、奴隷商の存在を教えてくれた。
何らかの理由で身分を剥奪された者を金銭で購入し、傍に置くことができるらしい。
暴れたりしないのかと尋ねたが、契約の魔術によって縛り、命令の大半に概ね従うようにされるそうだ。
……私だったら、見ず知らずの相手にあれこれ指図されて動け、などと言われたら、きっと耐えられないだろう。
そう考えて、奴隷の購入をしばらく躊躇っていた。。
それでも悩んだ末、結局は奴隷を求めることにした。
やはり、身近に気兼ねなく話せる相手は欲しいもの。
数日後、私は奴隷商のところへ向かう事を決意する。
日光を避けるため、念のため早朝に屋敷を出る。
まだ薄暗く、肌寒さの残る季節。
私には、この静けさが心地よかった。
奴隷商のもとへ向かう道すがら、私は彼を見つけた。
皮膚が痛々しく爛れ、ぼろぼろになって道端に座り込んでいる。
それはある意味で、私にとって見慣れた光景でもあった。
つまり、彼も私と同じ病を患っているということだ。
「ねえ、あの子は……」
「お嬢さん。ああいうのは見ちゃいけませんぜ」
「構わないわ。彼のところに行くわよ」
「ちょっと! お嬢さん聞いて下せえ!」
従者のバロムから咎めるような声が飛ぶ。しかたなく彼の掌に金貨を一枚握らせると、彼は一つため息をつき、それ以上は何も言わなくなった。こういう時の彼は察しが良くて助かる。
道端で憔悴しきっている彼に声をかける。
彼は私に気づくと、一瞬驚いたような顔をする。そして次に、どこか悲しげな表情を浮かべ、ぽつりと呟いた。
「……関わるな。騙して奪うぞ」
口ではそう威嚇するが、彼の眼はとても寂しそうだ。
私と同じ病を抱え、孤独の中にいる彼。
その姿は、どこか屋敷にいる私自身を彷彿とさせた。
だから私は、自分自身を救うような気持ちで、彼に手を差し伸べる。
館に戻ってしばらくは、「使えない奴隷を買ってきた」と、メイドたちが陰で囁いていた。
実際は購入すらしていないのだけど……。
余計なことは言わないに越したことはないわ。
後になって知ったのだが、彼は犯罪者の巣窟と悪名高い貧民街の出身らしい。
しかし、彼はそのような出自を微塵も感じさせないほど、実直で丁寧な仕事ぶりだった。
日々の務めを黙々とこなし、私のささやかな我儘にも根気強く付き合ってくれる。
彼のおかげで、私は誰の目も気にすることのない、心安らぐ自由な時間を得ることができた。
なぜ彼は契約の魔術で縛られているわけでもないのに、そこまでしてくれるのだろうか。
それとなく理由を尋ねてみたことがある。
すると彼は少し困惑した様子で、「私はお嬢様のモノですので」という、いつもの言葉で話を終えてしまった。
どうやら、彼自身もその理由を言葉にできないでいるようだ。
彼と過ごすようになってしばらく経ったある日、一通の招待状が届く。
それは、舞踏会への招待状だった。
本来であれば、数年前に社交界へ顔を出しているはずだったが、その頃はまだ病の影響で体調が優れず、出席が叶わなかったのだ。
それ以来、この種の招待状が届くことはなかったので、正直なところ驚いている。
この舞踏会で友人や、あるいは素敵な殿方との出会いがあれば嬉しいのだけれど。
できることなら、いつも私の傍にいてくれて、少しの我儘くらいは笑顔で聞いてくれて、困った時にはそっと手を差し伸べてくれるような人がいい。
……さすがに望みすぎかしら。
それに、貴族の令嬢としては、そのような個人的な願望よりも、まずは他家の方々と誼を通じることが大事だろう。
私は生来の病のおかげで、貴族としての責務を一部免除されてはいる。とはいえ、まったく何もしないわけにはいかない。
レオと先生にダンスの練習を付き合ってもらいながら、気がつけば、舞踏会当日を迎えていた。
私はレオが選んでくれたネックレスを胸に飾り、いよいよ社交の場へと足を踏み入れる。
本来であれば、私のような年頃の子供は、父親か母親が同席し、他家の方々との顔繋ぎのために紹介を取り持ってくれるらしい。
しかし、お母様は私が物心つく前に亡くなっているし、お父様は良くも悪くも放任主義だ。
残念ながら、お父様がこの場に姿を現すことはないだろう。
であればこそ、自ら関係を築いていかなければならないのだが……。
見知らぬ方ばかりだけれど、こちらから声をかけていけば良いのだろうか。
そう思案していた矢先、一人の紳士から声をかけられた。
侯爵家の方だった。
私は丁寧に挨拶をし、先方もそれに礼儀正しく応じてくれた。
侯爵は所用があるとのことで、すぐにその場を辞されてしまったのは残念だった。
表情がやや硬かったように見えたが、私に対してあまり良い印象をお持ちでなかったのだろうか。
もしそうだとしたら、何とか誤解を解く機会を設けなければ。
当初はそう考えていた。
しかし、すぐにそれどころではない状況にあることに気づかされる。
近くにいた同年代と思しき子供たちに話しかけてみるも、私の家名を告げた途端、皆、一様に距離を置き始める。
子供たちの間にも、大人の世界と同様に派閥が存在するということを理解したのは、その時だった。
そして、私がいかに社交界から隔絶された存在であったかということも。
もしかすると、お父様は私を……。
一瞬、不吉な考えが頭をよぎるが、今は考えないことにした。
レオが心配そうにこちらを見つめている。
彼をこれ以上不安にさせるわけにはいかない。
しっかりしなければ。
「お嬢様!」
どうすればこの状況を打開できるかと思案していた、まさにその時、レオの緊迫した声と共に、私の頬に灼けるような熱さを感じた。
どうやら、西日がどなたかの手鏡に反射し、私の頬に当たったらしい。
ほんの一瞬のことだったので、たいした傷ではないけれど、傍目には火傷のように見えるかもしれない。
光を当ててしまった方は、すでにその場にはいらっしゃらないようだ。
もしかして、故意に……? いいえ、そのようなことを疑うのは良くないわ。
今日は運が悪かった、ただそれだけのこと。
……そう、それだけ。
レオは私を人目につかない場所へ連れて行くと、私の顔を見て「大丈夫だ」と言ってくれた。
薬を塗ってしばらく待っていると、赤みは徐々に引いていく。
更には念のため、レオが手早く化粧を直してくれた。
こういう時、彼はいつも頼りになる。
彼を安心させるためにも、せめて一人くらいは知り合いを作らなければ。
私は彼に礼を述べ、改めて舞踏会の会場へと戻ることにした。
会場に戻った時には、すでに子供たちのためのダンスの時間が始まっていた。
結局、どなたともろくに話せていないし、今日はもう駄目かもしれない。けれど、それでも最後まであきらめないようにしないと。
女性の方から殿方にお声をかけるのは、はしたないとされているので、私はどなたかが誘ってくださるのを、ただ待つしかない。
……けれど、誰も声をかけてくれる人はいなかった。
せめて、近くの殿方に微笑みかけてみるくらいは許されるだろうか。
「申し訳ございませんが、既に先約がございますので」
たまたま視線が合った殿方の一人からは、こちらが誘われるまでもなく、先んじて断りの言葉を述べられてしまった。
そう……やはり、私は――。
一曲目が終わり、二曲目が始まっても、声をかけてくれる殿方は現れない。
……少しだけ、胸が痛む。
そして、子供たちのための最後の曲が始まった。
……もう、無理に笑顔を作る必要もないだろう。
私は感情を押し殺し、静かに俯く。
せめて、ここを出る時には、レオを心配させないよう、頑張って笑顔を見せなければ。
だからだろうか。俯いていた私の目の前に、すっと手が差し出された時、すぐには反応できなかったのは。
「もしよろしければ、私と一曲踊っていただけませんか?」
その声に、はっとして顔を上げる。そこにいたのは――
レオだった。
何度も練習相手をしてくれた彼が、見慣れない燕尾服を纏い、紳士の姿で立っていた。
なぜ? どうしてここに?
疑問は尽きなかったが、それよりも。
私は小さく息を呑み、差し出されたその手を取る。
「――はい、喜んで」
***
俺たちは互いにステップを踏み、何度も練習したワルツを踊り始める。
他の貴族たちの目から見れば、まだまだ未熟な踊りかもしれないが、それでも息はぴったりだろう。
俺が現れたのが予想外だったのか、それとも少し照れているのか、頬を微かに染めたエルザは、俺にだけ聞こえる声で囁きかける。
「ここは、関係者以外は立ち入り禁止よ?」
「俺も、関係者さ」
……貴族としてではなく使用人として、だがな。
俺の言葉に、彼女はくすりと小さく笑い、軽やかにステップを合わせてくる。
「まったく、どこからその立派な服を?」
「先生が、なぜかこの服を用意してくれていたんだ」
俺は万が一にも正体が露見しないよう、髪は後ろで束ね、簡単な化粧も施している。
お陰で、普段よりは多少は見栄えがするはずだ。
「さすがは魔法使いね。こうなることを予見していたのかしら?」
「さあ、どうだろうな」
もし、こうなることを予期していたのだとしたら、ずいぶんと意地の悪い婆さんだ。
俺が出ていかなければ、エルザはあの場所で、ただ一人で佇んでいたかもしれないのだから――。
……まさか、俺が出ていくことまで織り込み済みだったってことか?
曲も、いよいよ終盤へと差し掛かる。
この束の間の時間は、もうすぐ終わりを告げようとしている。
その時、エルザが俺の手を、きゅっと強く握ってきた。
「ねえ、レオ。もう少し、こうして踊っていたいわ」
「……館に戻れば、いくらでも付き合ってやるよ」
他の貴族たちも、そろそろ俺を不審に思い始めているだろう。
曲の最中に俺を咎めるような無粋な真似はできなかっただけで、曲が終われば誰かが駆けつけて来るに違いない。
だが心配はいらない。
この場を速やかに離脱する算段はついている。
俺は踊りの流れに乗りながら、エルザをそっとバルコニーへと導いていく。
ワルツが終わりを迎え、互いに踊り終えた者同士が礼を交わし、今日のダンスは終了となる。
そのタイミングに合わせて、人目を引かぬようなるべく自然な動作で、エルザをバルコニーへと連れ出した。
「さて、俺はここから失礼するぞ。適当な所で着替えて馬車で待っている。一人で大丈夫か?」
「ええ、もちろんよ」
「そうか。じゃあ……」
「あ、レオ!」
俺がバルコニーの手摺を乗り越えようとした瞬間、エルザが私の服の裾を掴んで引き留めた。
「えっと、その……ありがとう」
「ん? ああ、こちらこそ、お相手いただき光栄でした」
俺はエルザの手を取り、ダンスの作法に則った礼をする。
するとエルザが、むっとしたように眉をひそめている。
「そうじゃないの。私をダンスに誘ってくださって、ありがとう、と言っているのよ」
「何を言ってるんだ。あんな綺麗なお姫様が一人で佇んでるんだから、誘ったって誰も文句は言わないさ」
なんだか気恥ずかしくなった俺は、おどけるようにそう言って誤魔化した。
「もうっ! 調子のいい事を言って……」
その時、会場の方が俄かに騒がしくなり始めた。
見れば、他の子供たちはそれぞれ親しい者同士で集まり、軽食や談笑を楽しんでいるようだ。
本来であれば、子供たちもこのまま大人の舞踏会に加わり、夜更けまで楽しんでから帰路につくのだろう。
だが、エルザの両親はここにいない。
本来ならもう少しこの場に留まり、友人作りを試みるべきなのかもしれないが……。
この冷めたい舞踏会の時間は、もう終わりだ。
何よりも、これ以上はエルザのためにならない。
主催者には悪いが、俺たちは早々に退散させてもらおう。
「では、俺は先に行く。後でな。あまり長居はするなよ?」
「あ、レオ――」
すまないが、今にも誰かがこちらに気付きそうだ。
ここで、呼び止められるわけにはいかない。
エルザの言葉を最後まで聞かず、俺は手摺を飛び越える。
この程度の高さならば、慣れたものだ。
俺は音もなく着地し、エルザに軽く手を振ると、馬車が待つ方へと駆け出した。
近くで、再びメイド服に着替えた俺は、馬車の前でエルザの帰りを待つ。
ほどなくして、エルザが戻ってきた。
「ただいま。レ――」
「お帰りなさいませ、お嬢様。この“リア”が、わたくし共の館まで、つつがなくエスコートさせていただきます」
俺は口元に人差し指を当て、人前で名を呼ぶことを、やんわりと制する。
エルザも俺の意図を察したらしく、言葉を途中で止め、こくりと頷いた。
俺は彼女の手を取り、馬車の中へと誘う。
馬車の座席に腰を下ろした彼女は、穏やかな微笑みを浮かべて俺を見つめていた。
「ねえ、お願いがあるのだけど……いいかしら?」
「なんでしょうか。私にできる事でしたら、どのような事でもおっしゃっていただければ――」
「そう。ならお願いするわ」
俺の口上が終わらぬうちに、彼女はするりと俺の隣に腰を下ろす。
そして、そのまま俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
「お、お嬢様!? いったい何を……」
「私、今日は少し疲れてしまったみたい。だから、リアの肩を借りるわね」
俺は何か言いかけ、彼女の顔を窺うが、その瞼はすでに静かに閉じられていた。
あれだけのことがあったのだ。無理もないか。
館に着くまで、このまま休ませてやろう。
待機していた御者に合図を送り、馬車を発進させる。
館に到着した後は、彼女を起こさぬよう細心の注意を払ってそっと抱き上げ、寝室まで運び、ベッドに寝かせてやった。