第1話 出会い
広大な敷地の中にある豪華な屋敷。
そこで、俺とお嬢様の間には、二人だけの秘密が存在する。
「さあ、あなたの血を飲ませて」
お嬢様は俺に向かって、そう命じた。
俺は無言でそれに従い、上着を脱いで首筋を晒す。
肩には二つの痕。
その痕を見たお嬢様は、白く鋭い犬歯を突き立てる。
寸分違わぬ位置に、いつものように。
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冷たい雪が肌に触れると、お嬢様に初めて会った日のことを思い出す。
あれは貧民街で母を亡くしてから三年後、俺が十二になってすぐのことだった。
当時の俺は、貧民街で完全に居場所を失っていた。
別に珍しいことじゃない。貧民街ならではの、血で血を洗う泥沼の権力争いの結果だ。
俺を拾ってくれたボスが、とある非正規品の流通を巡って殺され、俺自身も暗殺の対象になっていたのだ。
そのため何日も敵から隠れて逃げ続け、ついに力尽きた俺は、貧民街から少し離れた場所、大通りの片隅で疲れ果てて座り込んでいた。
夜は終わり、空は白く染まり始めている。
もうすぐ朝日が、この大通りを照らし出すだろう。
この状況は、俺にとって致命的だ。
俺の体は生まれた時から、奇妙な体質を持っていた。
日の光を浴びると体が醜く腫れあがり、やがて爛れて崩れていくのだ。
母が生きていた頃に聞かされた話だと、古い貴族の中にも同じような病の者がいたらしい。
迫りくる陽の光が俺を焼く前に、貧民街の闇へと隠れたい。
そう思うのに、体は動かなかった。
殴られた時の怪我のせいか、それともただ逃げるのに疲れ切ったせいだろうか。
刻一刻と時間が経ち、陽の光が差し始め、眠りから覚めた人々が活動を始める。
街の住民が俺に注目する前に、移動しようともがくが、どうしても力が入らない。
そこでふと、もしここから逃げた後のことを考えてしまう。
季節はこれから冬へと移ろうとしている。
雨風をしのげる場所を持たない俺が、このまま生きていくのは難しい。
貧民街に戻るにしても、どこかに匿ってもらうしかない。
だが下手に借りを作れば、そのまま貧民街でいいように使い潰されるのがオチだろう。
あるいは、男娼として生きていくか。
仮に今しばらく生き延びたとしても、貧民街のヤブ医者は、俺の病が治るかどうか分からないと言っていた。
俺の病は特殊で、症状を抑えるにもかなり高価な薬が必要らしいのだ。
もっとも、あのヤブ医者のことだ。俺から金を巻き上げるための口実だろうが……。
そう考えているうちに、太陽が地平線から顔を出し、俺を焼くための準備を始めた。
今はまだ大丈夫だが、さらに日差しが強くなれば俺の病は悪化し、やがて体は崩壊して死ぬだろう。
仮に死ななくとも、巡回の兵士が俺を見つければ連行される。
貧民街の子供で、生きるために犯罪に手を染めない者はいない。
……ここで終わるのなら、それでもいいか。
兵士たちの詰所から戻ってきた仲間は少ない。
運よく逃げてきたやつも、拷問まがいの仕打ちをされたと武勇伝混じりに語っていた。
日の光を浴びてボロボロになったこの体では、そんな拷問には耐えられないだろう。
どうあがいたところで、明るい未来などありはしない。
生きていても辛いだけならば、下手に足掻く必要もないのかもしれない。
願わくば、もっと穏やかな生活をしたかった。だが、それも叶わないだろう。
ならば、この日差しのもとで、静かに朽ちて――。
「あなた、私と同じね」
不意に、頭上から声がした。
閉じていた目を開け、声のする方を見る。
視線の先では、一人の女の子が俺を真っ直ぐに見つめていた。
暑くもないのに日傘を差しているのが気になるが、一目で上等とわかる綺麗な身なりだ。
「……?」
「ねえ、聞いてる?」
彼女は首をこてんと傾げながら、こちらを見てくる。
……どうやら俺に声をかけていたらしい。
彼女は上質な毛皮のコートを、豪奢なドレスの上から羽織っていた。
寒さを凌ぐために、ボロ布を何枚も重ね着した俺とは何もかもが違う。
女の子のすぐ後ろには、立派な馬車と供回りらしい従者……、ひときわ筋肉質で見るからに強そうな男が、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
おそらくこの女の子はどこかの良いところのお嬢様で、あの従者は護衛も兼ねているのだろう。
「ねえ? 話は聞こえてる? ……もしかして、耳が聞こえないのかしら?」
少し心配するような、透き通る声が響き、彼女のよく手入れされた金色の髪が陽光を反射して輝いていた。
俺のくすんだ灰色の髪とは正反対だ。
きっと何不自由なく、良い人生を歩んできたのだろう。俺みたいな薄汚れた奴に不用意に話しかけるなんて、警戒心がなさすぎる。
……せめてものお礼に、警告くらいはしてやるか。
「……関わるな。騙して奪うぞ」
「良かった。聞こえてたのね」
「そっちこそ、話を聞いているのか?」
「本当に騙そうとしている人は、自分から『騙す』なんて言わないわ。それに、そんな事はどうでもいいの」
精一杯キツい目で睨んだつもりだったが、彼女は意に介した様子もなく、すっと手を差し出してくる。
この手はなんだ? ……一体何をしようというのだろう?
「貴方のその顔、日の光が当たってそうなったんでしょ?」
「……そうだ」
「あなたの病気を治す方法があるの。私と来る?」
その女の子が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
そんな都合のいい話があるなんて、馬鹿馬鹿しい。
俺は、その手を払いのけようと手を伸ばして――。
気がつけば、無意識にその手をとっていた。
「いい子ね。私が面倒を見てあげるから、安心していいわ」
「勝手に手をつかんでしまっただけだ。これは違――」
彼女は、日の光でボロボロになった俺の手をためらうことなくしっかりと握り、離す様子もない。
俺の爛れた身体など、普通の人間なら嫌がって触ろうともしないはずだが――。
そんな俺の困惑をよそに、彼女はにっこりと笑う。
「じゃあ貴方、今日から私のモノね」
いきなり謎の宣言をされて、ますます困惑してしまう。
どういう意味だろうか。何かを企んでいるのか?
……単純に、奴隷として扱うということか?
「『私のモノ』? なんだそれは? どういう意味……」
「詳しくは、私の館で話してあげるわ」
「お、おいっ、話を聞け」
彼女の意図を測りかねている間に、彼女は俺の手を引っ張り、馬車へと促していく。
……まあ、いいか。なにかマズそうなら、その時に逃げ出すだけだ。
「さあ、馬車に乗って。えーと……貴方、名前は?」
名前、か。
貧民街で呼ばれていた名前を名乗ってもいいが、下手に名乗れば、そこから俺の居場所を嗅ぎつけてきた奴らが来るかもしれない。
それに俺は、もうあそこから追い出された身だ。
居場所も失い、天涯孤独となった俺が、今さら名乗る名前なんてあるわけがない。
「俺の名前は……もう無い。好きに呼べばいい」
「……そう。じゃあ、私が名前をつけてあげる。あなたの名前は……リアよ。分かった?」
なんだか女の子みたいな名前だ。
だが、どうでも良い。
どうせ、気まぐれな貴族のことだ。しばらくすれば放り出されるだろう。
「……ああ、それでいい」
「そう。じゃあ次は私の名前ね。名前は……長くて面倒だから、エルザと呼べばいいわ。本名はあとから誰かに聞いてね」
そう言ったあと、手を引かれながら馬車に乗せられる。
馬車は静かに来た道を引き返し、大通りから離れ、壮麗な邸宅が立ち並ぶ貴族街へと戻っていく。
「それじゃあリア、あなたの事を教えてね」
「何が知りたい?」
「そうね、それじゃあ最初に……年齢は?」
「……十二だ」
「うそ、私より一つ上なの? 体は私より少し小さいくらいなのに」
「うるさい」
体が小さいのは、ろくに栄養が足りていないからだ。
貧民街で満足に栄養のあるものを食べている子供など、ほとんどいない。
多くは飢えて死ぬ。
そのことが、彼女には分からないのだろう。
少しキツい言葉を投げかけようかと思ったが、なんとか思いとどまった。
「……ごめんなさい。もしかして私は、私の知らない事で貴方を傷つけてしまったのかしら?」
……表情に出ていたのか。意外と聡いな。
「いや、お前は悪くない。ちょっとイラっとしただけだ」
「……ごめんなさい。私はあなたの事をもっと知らないといけないわね」
「気にするな」
コイツが俺のために気を使って話しかけてくれたのはわかる。
だから、俺がどうこう言うつもりはない。
その内容がたまたま、ほんのちょっと癇に障っただけだ。
そのあとは会話らしい会話もなく、馬車は石畳の上を進んでいく。
しばらく乗っていると、ひときわ大きな館が見えてきた。
どうやら馬車はその館へと入っていくらしい。