私の幸せは、希望は、未来は°
ジュリア視点です。
「助けて……助けて…エディ……。」
目の前の簡素なベッドに横たわるクリームブラウンの髪の女が、つらそうに眉間に皺を寄せながら呟いている。先程からずっと呼ぶその名前は、彼女の婚約者ではない。同じクラスで仲良くなったという、子爵令息の名前だった。
「ローネ」「エディ」とお互いを愛称で呼び合う程の仲で、クラスメイトも彼らはそういう関係だと認知していたらしい。しかし同時に、クローネ・ビリー子爵令嬢には10歳からの婚約者が存在しているという事も知られている。だからこそ余計に、この2人を応援するオーディエンスも少なくなく、余計にルーカス・ノートン伯爵令息が怒り心頭で、ビリー子爵令嬢を隷属させるために、禁忌である魔道具を早急に開発している事も極秘だが私は知っていた。しかしてこれはこの2人の問題であり、ベオウルフ殿下が何も言わないのであれば、もちろん私も口を挟む事はない。
そして今も苦悶の表情を浮かべながらも、エディエディと呼び続けているその姿は、なんだか滑稽に見える。彼女の様子と安全に保護、且つダミーの幻影を見せる魔道具をここに置くために来たのだが。
「……殿下への忠誠心を裏切っててでも、守りたかった婚約者なのにな。この女が呼ぶのは別の男だなんて、彼はきっと発狂して今度こそ廃人と化してしまうだろう。哀れだな。」
ボソッと独りごちた時、ズズズ……という音が聞こえて後ろを振り向いた。サッと足早にこちらにやって来た男が、私の前に来ると深く腰を折って挨拶する。その強い目を見つめ返しながら、「ご苦労だな。」と声を掛けたのだった。
「とりあえずここにこの幻影を見せる魔道具を設置した。今からベオウルフ殿下が魔力を込めてくださったこれを使って、この女を連れていく。お前は引き続き任務の遂行をしっかり頼む。……嫌だろうが、本当に嫌だろうがどうか耐えてくれ。」
最後の方はうんざりした顔の騎士に向かって、申し訳なくなって私までしょぼんとしてしまう。しかしそれでも心からの言葉を贈ると、少しだけ眉毛が元の位置に戻っていて危うく笑うところだった。
そうしてお互いに頷き合うと、彼はまた仕掛け暖炉を元に戻して山小屋を去る。それを見届けてから、ビリー子爵令嬢を肩に担いで幻影用の魔道具を設置し、問題なく機能するかをチェックしてから、転移の魔道具でベオウルフ殿下が指定した離宮の一室に入ったのだった。そしてそこにある、あの牢屋とは比べ物にならない程のベッドに寝かせると、少し肩を回しながら扉の外に待機していたメイドに世話を頼み、再び魔道具を使って転移する。そこで待っていたベオウルフ殿下に、無事に任務は完了した事を伝えたのだった。満足そうに頷いてくれた彼に、私もしっかり頷き返す。あとは、殿下に全てお任せしよう。
さあロバーツ伯爵令嬢、貴女の言う『魔王』は本当に、まさに魔王という感じで頑張っておられますよ。きっとどこへ行っても逃げられないでしょうから、諦めていただかなくては。殿下が望むのならば、私は絶対に協力を惜しみませんしね。
□
ローガンが去ってからの数日間を、手紙のやり取りはほぼ毎日しつつ、ゆったりとお母様が好きだったバラ園や温室などで過ごしていた。たった数日とはいえ、小屋に置いてやっている女の安否が気になるけれど、死なないだろうし別に問題ないだろう。それにいざとなればこれはローガンの頼みであって、私は場所の提供をしただけだと言えばいい。
そうしていつものようにバラ園にあるガゼボで、お気に入りに囲まれながらお茶を飲んでいたら、ローガンが突然ここに転移してきたのである。あまりにも急すぎたので、驚いて固まっている私の前に小走りで来ると、すぐに紅茶を持っていない左手をサッと持って頬ずりされた。まだ髭もなくスベスベでキメ細かい白い肌は、思った以上に気持ちいいわね、なんて思っていたら。
「ジュリア嬢、大変お待たせいたしました!!あの女の精神が元の世界に戻りましたよ!!どうやら心が元のサラ・ロバーツと完全に融合していたようで、アレが戻ってからは魂が抜けたのか、まるで人形のようになっていますが、それはどうでもいいでしょう。むしろ好都合です!!」
見えない尻尾を、大きく左右に風を切って振っている幻が見えるけれど、今はそれどころでは無い。遂にヒロインが断罪されたわけだ。つまりここからは私の単独ステージとなり、見事に返り咲いてベオウルフに愛され、国民から愛され、カデンにも再び愛されるという大団円が待っているというわけね?
理解した瞬間、満面の笑みを浮かべてローガンを見つめた。彼の顔は赤く染っており、私の事が愛おしいという感情を隠しもしない程の熱を孕んだ目をしている。うふふ、とっても役に立ってくれて嬉しいわ。この子をここまで従順に育て上げた私も、さすがという感じね。前世の知識があって良かった、まあヒロインの事は予想外だけれども。
「さあジュリア嬢、支度をなさってください!兄上に謁見の手続きを済ませておりますから!!明日の午後一番に、王宮の謁見室にて話し合いをしましょう。もちろん僕も同席しますね、しっかり貴女がどれ程素晴らしいかを、兄上に言い聞かせないといけませんから!!それがきっと洗脳をより一層解くきっかけにもなるでしょうし。」
そう言うと、再び私の左手で頬ずりをし、うっとりした表情でこちらを見ていた。だから私も同じように微笑んで、彼の頬を親指で撫でてやる。それだけで逆上せたように赤くなって、なんて初心でチョロいのだろうと更に笑ってしまった。
そうと決まれば早速支度をしなくては。私の美しさを惜しげも無く披露して、再びベオウルフが一目で恋に落ちてしまうような、そんな魅力を最大限に出さなくてはね。ドレスは彼の瞳に合わせて、輝く程の煌めきを散りばめた夕日色にして、装飾品はブラックダイヤモンドにしましょう。本当はオニキスの方が彼の髪の毛に似ているのだけれど、私はそっちよりもダイヤの方が好きだから。ベオウルフの色を纏う事に違いはないのだし、何も問題ないでしょう?うふふ、貴方の頬がバラ色に染って、うっとりと私に見とれる姿が目に浮かぶわ。そうしてすぐに跪いて、手の甲にキスをくれるの。私はそれを微笑んで受け入れてあげるわ。ああ興奮する!!
「それではジュリア嬢、明日の正午過ぎに迎えに来ますからね。僕と一緒に転移して向かいましょう!!その方が早いし楽ですよ!!」
ニコニコと嬉しそうにそう言われた私は、「ええ、もちろん。待ってるわ?」と微笑んで、また頬を指で撫でてやったのである。それからすぐに、心からの寂しいという顔を隠しもしないで、彼は王宮に転移していった。
さあ行動を開始しなくては。時間が無いのだ、早急に取り掛からないと終わらない。サッと立ち上がると、お気に入りの護衛にエスコートされながら自室に戻り、侍女達に指示を飛ばして準備を促す。途中で漏れ出た笑い声に怯え、震える侍女やメイドの顔をしっかり覚えた。だってこれからは、私の奴隷同然の扱いを許されるようになるのだから。
「うふふ、あははははははははっ!!!」
またしても屋敷中に響き渡る私の笑い声を、誰も止めることはなかった。いや出来なかったという方が正しいのだろう。ああ、最高の気分ね!
そうして翌日、前日から取り掛かった支度は昼前に漸く終了した。もっと迅速に取り組んでくれていれば、こんなに待たされずに終わったというものを。なんて鈍臭いのだろうか。しかして私は機嫌がいいから、今日だけは見逃してあげる。口元に微笑みを浮かべたままランチを食べたのだった。そして食後の紅茶を飲んでいる時に、しっかり正装してより麗しくなったローガンが迎えに来てくれた。
その姿は美しい私の隣に並んでも、まあ引けを取らないのではないかという程。黒のジュストコートに金糸の刺繍、そしてエメラルドのカフスボタンという、どう見ても私をイメージした色をしていたけど、それもまた気分を向上させるスパイスとなった。これを見たベオウルフが、嫉妬して早急に自分がより一層素晴らしい物を作るでしょうね、ふふふ。
「ローガン殿下、貴方もとっても素敵よ。私の色をイメージなさったの?嬉しいわ。」
跪いて手の甲をスリスリと撫でる彼に向かって、同じように微笑みながらそう問う。すると途端に真っ赤なバラ色に頬を染め、ゆっくいと頷いたのである。なんてかわいくてチョロいんだろうか。彼はこのまま精神的に縛り付けて、どこまでも利用してやらなければ。そろそろ婚約者が必要らしいけれど、お飾りだけで済む女を宛がおう。そうすれば彼はずっと、私の虜のままでいられるのだから。
「ああ、女神と見紛う程に美しい貴女を、どうかエスコートさせてください。その権利は、今だけは誰にも譲りたくない。どうかお願いします。」
懇願するように熱い眼差しをこちらに向け、見上げてくる顔は15歳のくせに色気が溢れており、思わず見とれそうになる程であった。しかし私はそれよりも、早くベオウルフを夢中にさせなければならない。だからニッコリ微笑むと、頷いて了承したのだった。
そうして嬉しそうにするローガンにエスコートされ、王宮の謁見室に転移したのである。あまりにも久しぶりに訪れたような気がする王宮は、私がいた頃と変わらず美しく煌びやかだった。この全てがもうすぐ私の物になると思うと、高鳴る胸を抑える事が出来ない。
ふわりとしたドレスを入念にチェックし、乱れが無い事を確認する。そういえばお気に入りの護衛がいないが、彼は侍女や侍従と共に後から馬車で来るらしい。もちろん我が公爵家のあの転移ポータルを使ってだけれども。
彼の他にもたくさん、見目のいい騎士を侍らせる事にしましょう。だって王妃となる私を護る事は当たり前なのだし、彼らを選ぶ権利も当然私にある。たくさんの候補の中から数人選んで、日替わりで護衛してもらえば休息も取れるだろうし、なんてホワイトな職務環境なのかしら。やっぱり私はこんなにも慈愛に満ちているし、真のヒロインで間違いないのね。あの女はいわば、こうなるための踏み台というところかしら。
そうして嬉しさからずっと微笑みながら、必死で何かいろいろと話し掛けてくるローガンを右から左に受け流していると、謁見室の最奥にある高台の玉座に、パッと現れた美しい男。ローガンなんて足元にも及ばないような、誰もを一瞬で虜にしてしまうその姿。最後に見た時よりも更に魅力的になったようで、儚さまである。それはきっと、私がそばにいられずに、あの女が洗脳した事による代償なんだろう。でも大丈夫、私がまたそばにいて、貴方に愛されてあげる。そう思ってニッコリと微笑んで、誰もが賞賛するカーテシーを披露した。さあベオウルフ、私の足元に跪いて?
私は何の不安も無かった。それゆえに自信も溢れていたし、これからの未来に希望しか無かった。だからこそ、私はとても美しいはずなのに。
「……お前の顔など二度と見たくなかった。久しいな、キャンベル公爵令嬢。ああ、もうすぐ貴族ではなくなるのだから、そう呼ぶ事も必要ないが。」
うっそりと微笑み、地獄の底から響き渡るかのような低くて底冷えする声を出し、美しい夕日色はまるで海に沈んだような、濁って揺らいでいる瞳の男は誰だろう。私のベオウルフならば、こんな事は言わないはず。隣のローガンも狼狽えているが、どうにか姿勢を正すと口を開いた。
「兄上!どうなさったのです?ジュリア嬢に向かってなんという事を!!やはりまだ、完全に洗脳は解けていないのですね……。しかしご安心ください。あの女の精神は元の世界に戻りましたので、直に解けていくでしょう。そしてもう遠慮する事なく、ジュリア嬢と生涯を共にしてよろしいのですよ!!」
嬉々として、且つ溌剌としたよく通るテノールボイスが、謁見室に響き渡る。それを聞いて、私も漸くハッとすると改めて微笑み、またしてもカーテシーをしてから口を開いたのだった。
「ベオウルフ殿下、お久しゅうございます。私がいない間に、洗脳されてしまったと聞いてとても胸を痛めておりました。お可哀想に……。これからはまた、私がおそばで支えさせていただきます。どうぞ宜しくお願い致しますね。」
最後に、最大に美しい笑顔を見せてやる。しかしベオウルフは相変わらず無表情で、玉座での格好も非常に悪い。肘掛けに右肘を付き、その手に頭をもたげて長すぎる脚を組んでいた。私が美しい笑顔を見せてやったのに、何も言わず何も反応しないなんてありえない。ずっとうっすら頬を染めて、私を見つめていたはずなのに。あのクソ女の呪縛は、なかなかしぶとく根強いようだ。思わず舌打ちをしそうになるが、なんとか堪えて微笑み続けたのだった。
「お前達は先程から、俺の許可無く勝手に喋っているなあ?誰が発言していいと言った?面倒だから放っておけば、有り得ない事をいけしゃあしゃあと……。」
そう言うと、彼は大きな溜め息を吐いてこちらを見た。その目は相変わらず暗く淀んでおり、あまりの底知れぬ恐怖に震えてしまった。そして少しづつ漏れ出ていた彼の魔力が、一気に室内に放出される。ブワッと凍えるような冷気が走り、立っていられない程の圧で膝を付くが、誰も助けてくれない。ローガンも頭を抱えて蹲っていて、その姿は苦しみに悶えているようだ。どうして?
助けて欲しくてベオウルフを見ると、彼は更に魔力を強くさせて、私が四つん這いになるようにしてきた。なんて屈辱的な……!!こんな格好をさせるなんて、洗脳が解けて愛を乞うてきても、もう絶対に許さない!!!
そんな恨みのこもった目を向けたのに、彼は気にしないどころかむしろ楽しそうに、うっすらと口角を上げていた。決して私と目が合って嬉しいとかそういうモノではない。あれは痛めつけて楽しいというか、苦しむ私達を見て喜んでいるように見える。どういう事なの?!ベオウルフ、どうして?どうして?!
「ああバカバカしい。説明するのも面倒だが、どうしてもお前達に理解させなければならない事があるから、それだけは言わせてもらう。俺は決して洗脳なんてされていない。その証拠はいくらでも出せるし、ローガンが勝手にそう思い込んでいただけだ。真っ直ぐで芯が強い弟だと思っていたのに、ただのバカだったなんてな。ああ残念だ。それを鵜呑みにして、調子に乗っていたキャンベル公爵令嬢も、そのあまりの頭の悪さに、呆れを通り越してむしろ無感情でしかない。」
四つん這いにさせられたまま、ベオウルフが発した言葉の意味を理解出来ずに戸惑う。だからそれが、洗脳なんじゃないの?!そう思う事こそが証拠でしょうが!!そう叫ぼうとしたのに、喉からはヒューヒューとした空気しか出てこない。ええ?!と驚いて何度も声を出そうとするが、一向に空気しか出ないのである。
「ああ、うるさいから声を奪っておいたよ。だから大人しくその無様で情けない格好のまま、お前の断罪式を始めようか?」
ああ、そんな、どうして。私はこれから、王太子妃となり、そして王妃になる予定なのに。誰もが私に跪いて、頭を垂れて、持て囃して、そして、それで………。
徐々に頭が真っ白になり、身体の感覚も薄れていく中で見たベオウルフの表情は、まるでこれから喜劇でも始まるかのように、心の底から楽しそうだった。
『悪魔っっ!!!』
必死の叫びは空気しか出ず、誰に届く事も無かった。ああベオウルフ、どうか目を覚まして……。




