あずかり知らぬところでは。
「紗良はさあ、結局俺よりも別の事が大切なんだよ。自分自身とか、仕事とか友達とか、俺はお前のなんだったの?ちゃんと好きだった?はあ、もう苦しいわ。別れよう?」
そう言って、1DKの私のマンションを出ていく彼の名前はなんだったか。忘れてしまったけれど、私なりにちゃんと好きだったんだけどな。1年半付き合って、思いを伝えてたつもりだったんだよ、本当に好きだったんだよ。それでも伝わらなかったんだね、貴方には足りなかったみたいだ。
確かに仕事も友達も大切だから、彼だけを最優先には出来なかった。だから私だけじゃなくて、彼にも私を最優先にする必要は無いと常々言い、職場の飲み会も友達と遊ぶのも、止めた事はなかった。そのうち気を引くかのように、職場の女の子がかわいいとか、友達に誘われたから合コンに行こうかなとか言い始め、それは私にとって逆効果だと彼は知っていたはずなのに。それでもそんな事をしたのは、やっぱり私の思いが伝わらなくて不安にさせたからなんだろう。
だからごはんを食べに来た彼に、食後のコーヒーを飲みながら訊いたのだ。
「職場の女の子といい感じなのは、本当にその子が好きだから?それとも私の思いが伝わらなくて、不安になっちゃった?」
2人で座るのに、ちょうどいい大きさのアイボリーのソファに並んで腰掛けて、勇気を出して訊いた言葉がダメだった。そんなつもりはなかったのに、怒らせてしまった挙句に別れを切り出され、腹を立てつつも悲しげに出ていくその背中を追えなかった。
「……ちゃんと好きだったんだけどなあ。ごめんね、伝わらなかったみたいだ。あーあ、好きだったなあ。」
一人でそう呟きながら、泣きたいのに泣けない私は冷蔵庫を開け、冷やしていたビールを取り出してそのまま台所で飲んだ。ビリビリしつつも癖になる炭酸が喉を通り過ぎていき、私の痛くて痛くてモヤモヤしたこの思いも一緒に飲み込んで、消えてなくなればいいのにと強く目を閉じたのだった。
それからも相変わらず、歯科医院への通勤とたまに友達と遊ぶ日々が続いていた時、たまたま彼を見掛けた。医療器具メーカーの営業をしている関係で、医院に来た時に知り合ったのがきっかけで仲良くなり、告白されて付き合ったのだけれども。スラッとした細身の長身に黒のスーツが似合っていて、思わず見とれてしまった。
しかし隣にスーツのかわいらしい女性が並んで歩いている事に気付く。そして2人が楽しそうに笑っているのを見て、ああ彼は幸せなんだなと思ってフッと笑った。あれから既に2ヶ月経っているのだから、もう歩み出していてもおかしくないし、むしろいい感じの人がいたのならば、なんらおかしい事じゃない。
本当に、彼が幸せそうで嬉しくなる。だから心から微笑んで目を逸らし、私は私の道をしっかり歩いていこうと改めて決意した。ちょっといいビールでも買って帰ろうかな、そして自分なりに豪華なごはんを作って、飲みながらいっぱい食べちゃうもんね。こんな胸の痛みなんてすぐ忘れて、流し込んでやるんだから。
「紗良?」
背中に掛けられた少し大きめの声も、きっと幻聴なんだろう。私が生み出した願望でしかない。どうか幸せになってね、本当にそう思ってるんだよ。口角を上げたまま我慢出来ずに振り返った先に、彼が立ち止まってこちらを見ていた。その顔は驚愕でありつつも、目が合った途端に泣きそうになっていて、どうして貴方がそんな顔をするの?と思ってまたフッと笑った。そして何故かこちらに来ようとしていたけれど、隣の女性が押さえていて動けないらしい。それはそうだろう、他の女の元に行く想い人を止めない人はいない。
「幸せになってね。」
きっと聞こえないだろうけど、それでもどうしても言いたかったから。心からそう思っていたから。だから微笑みながらも、胸の痛みなんて無視してそう言った。するとより一層眉間に皺を寄せて、とても苦しそうに私の名前を呼んだ。いいよ気にしなくて、私はちゃんと歩けるから。だから安心して、幸せになって。それが本当に私の願い。好きだったよ、心から。どうかこれだけは、伝わってほしい。そんな思いを込めて、目を細めて微笑んだのだった。
そして背を向けると、今度こそ駅の中へ歩き出す。しっかりした足取りで、前を向いて。それでも名前を呼ぶ声が聞こえる気がするのは、今度こそ幻聴でしかないだろう。未練たらしく引きずるのが嫌で、別れてすぐにスマホを替えたせいで連絡がくる事は無い。でもいいんだ、これで。彼は幸せになるべきだ。ああ胸が痛いな、恋ってどうしてこんなにつらいんだろう。好きだった時も、別れてからも。だったらもう恋なんてしたくないなあ。どうせ追い縋るなんて事も出来ないような、自分を捨てられないかわいくない私なんて、恋に向いていないのだから。
強く誓った私の前に、電車が到着して扉が開いた。迷いなく乗り込んで、空いてはいたけど席に座らずに反対側の扉の前に行くと、手すりに寄りかかって窓の外を眺めた。ああ生まれ変われる事があったら、こんな不器用な人間じゃなくてもっと素直に、かわいい女の子になりたいなあ。
それからすぐに仕事が忙しくなって、彼の事を考える暇もなく日々は過ぎていく。いろいろな感情を忘れる程の忙しさは、却って私にとっては良い事だった。だから余計に、漸く取れた連休に浮かれていたという事もあって、お風呂でビールを飲むなんていうアホな行いをしたんだった、そうだったなあ。
それにしても私のベッドは、こんなに広くてフカフカしてたっけ?いくら寝返りを打っても落ちなさそうだし、あったかいなあ。だけどなんか、だんだん苦しい気がする。あれ?なんで苦しいんだろう。それに誰かが頭を撫でてくれてるような気もする。あれえ?
「ふふ、どんな夢を見てるの?かわいいね、俺のサラはかわいくて仕方がない。どうして泣いていたんだろうね?きっと俺のためだ。そうじゃないなら許せないなあ。」
という、物凄く恐ろしい声が聞こえた。まさか!!!
パチッと瞼を開けると、オニキスのように深い艶の黒い髪と、見とれるような夕日色の綺麗な目が飛び込んできて、それがうっとりした顔で微笑むベル様だと理解した。あれ?!どうして一緒に寝てるんだ?!ヤナは?!それはもう大慌てでワタワタと周りを見ようとした私を、蕩ける笑顔のベル様は更に強く抱え込んでしまった。朝から刺激が強いっ!!
「おはよう、サラ。君が泣いている気配がしたから、添い寝しに来たんだよ。だけどあまりのかわいさに我慢出来なくて、抱きしめたら起こしてしまったようだ。ごめんね?さあもう少し寝よう、かわいいかわいい俺のサラ。」
いや寝られるか!!!無理でしょうよこの状況!!途端に顔が真っ赤になって、心臓がドキドキとうるさく鳴り始めた。そんな私を恍惚とした表情のまま、おでこや瞼、そして唇に優しく何度も口付けしながら、名前を呼んでかわいいと連呼する。うわー!!どんどん目が覚める!!確かに温かくて落ち着くけどさあ?!絶対寝られないわ!!
なんて思っていたのに、抱きしめる力を少し抜いたベル様に、頭を撫でられていたら結局徐々に瞼が重くなって、「サラ、おやすみ。愛してるよ。」という声を最後に意識が落ちたのだった。人肌って、やっぱり温かいなあ。
「……サラ、君は誰にも渡さないよ。絶対に元の世界になんて戻さない。ふふ、早めにチョーカーを作っておいて良かったな。誰かが君を強く強く呼んでいるようだよ?そのせいか少し向こうに引っ張られたみたいだね。でも大丈夫、絶対に放さないからね。サラを愛しているのは俺だけでいい。君には俺だけいればいい。ふふふ、大好きだよ。」
眠っている私には、こんな魔王発言をしているなんて知る由もないのだけれども。意識がある状態で聞こえていたら、きっと悲鳴を上げてヤナに抱き着いていたと思う。良かった寝てて!!
それから数時間後、私の起床に合わせて起きてきたヤナが、添い寝しているベル様を見つけてそれはもうブチ切れ、果敢にも怒鳴り散らして部屋から追い出してくれた。途中で目が覚めて飛び起きた私を、愛おしそうにギュッとして勝手にちゅっちゅしてからしぶしぶ出ていったベル様に、心底ぷんすこしたヤナがまだ怒っていたけど、それでも朝の支度を丁寧に手伝ってくれた。さすが出来る専属侍女さんだ!!
「さてお嬢様、本日は休日ですからこのドレスなんていかがです?あのくそy……殿下はやる事があるとかで、午前中は来られないと嘆いてやがったので私と過ごしましょう!!」
絶対にクソ野郎って言いかけたじゃん!!面白いからスルーするけど、ベル様にやる事があるのは本当らしい。昨日のパーティの後始末なんだろうなあとすぐに分かったので、無理しすぎないように、としっかり言い聞かせたけどきっとあまり意味は無いだろう。どうか穏便に、罰を与えすぎないようにしてほしい!!オリーブ殿下も恐らく反省してるだろうし、加勢した女生徒達もそうだろうから!!
「ヤナ、アンディと仲良くなれる気がするんだ。だからお手紙書いてみようと思うんだけど、どうかな……?」
選んでもらったモスグリーンのデイドレスに着替え、我が儘を言って2人で朝ごはんを食べながらそう訊いた。ちょっと照れちゃって持っていたパンをちぎちぎしてたら、何故かヤナが悶絶して必死で口元を抑えている。
「え?!大丈夫?!どうしたの、パンが詰まっちゃった?!」
と叫ぶように言って、光の速さで近付くと背中をトントンする。しかしヤナはより一層悶絶し始め、もうどうしていいのか分からくて泣きそうになったけれど、「……ヵヮィィ。」という低すぎて聞き取れない何かを呟いていた。そしてすぐに立ち直ると、
「……ご心配をお掛けしました、申し訳ございません。もう大丈夫です。それとお手紙の件ですが、大変お喜びになるかと思いますよ。お坊ちゃまはずっと、入れ替わられたサラお嬢様にお会いしたいと、何度も申しておりましたから。」
少し噎せつつも笑顔でそう言ってくれた彼女に、嬉しくなって破顔しながら「ありがとう!!」と言うと、今度は蹲ってプルプルと震え始めてしまった。だから一緒になって蹲り、ヤナが落ち着くまで背中を擦っていたのだった。
もう少ししたら、アドバイスをもらってお手紙書いてみよう。サラさんのご両親にはまだハードルが高いから、まずは仲良くしてくれそうなアンディに。それから、ベル様にも書いてみちゃおうかな。日頃の感謝を伝えるのは、言葉でもいいけど文字で書いた方がより強く伝わるかもしれないし。だから怖い時の方が多いけど、それは目を瞑ってまずは感謝だけでも書こうと決意したのである。
□
「それで、俺のサラを強く呼ぶ声は遮断出来そうか?」
彼から漏れ出す魔力による冷気のせいで、室内が凍ってしまいそうだ。しかしそれよりも答えを間違った方が、命の終わりが近いだろう。
「ええ、試みてはいます。ですがかなりロバーツ伯爵令嬢の中の女性を呼ぶ思いが強く、完全に遮断するにはロバーツ伯爵令嬢と、中にいる女性の2人が融合する事が重要です。」
指先が悴んで上手く動かせないが、それでも手元の魔力が込められた直径30cm程の鏡を覗きつつそう言った。これは代々王族のみが、その身に流れる魔力を込める事によって、異世界の様子を見られるという国宝の鏡だ。そしてそれを扱うためには、優秀な魔道具師も必須であり、俺はその代々仕える伯爵家の息子である。
ロバーツ伯爵令嬢が入れ替わったという、信じ難い話をきいて以来、その魔力が実際に違うのを目の当たりにした事によって、話では知っていたが本当に異世界が存在するのだと思い知らされた。そして第一王子殿下は、その入れ替わった女性に異常な程に執心しており、どうしても元の世界に戻したくないから、繋ぎ止めるために協力してくれと申されたのだった。それは協力を要請と言いつつも断る事を許さないものであり、命を賭ける覚悟で第一王子殿下の魔力を、マンダリンガーネットという宝石に込めてチョーカーを制作したのである。その時にいろいろと付与してほしいと言われたが、盗聴だけはやめた方がいいと全力で否定したのは英断だっただろう。
そして実は数日前から、チョーカーで抑えているとはいえ中の女性に対して、向こうの世界から彼女を呼ぶ声が強すぎて呼び戻されそうな気配があり、第一王子殿下が今にも世界を壊しかねない程の、静かだがとてつもない怒りを抱いてここに来たというわけだ。しかしこればっかりは、彼女が完全に融合しないと遮断する事が出来ない。だからとにかく、何気なくチョーカーに触れながら魔力を込めてもらい、どうにか彼女達が完全に融合するのを待つしかないと伝え、それまで絶対に直接呼び声が聞こえないようにしますと誓った。
「……あい分かった。ならば絶対にその約束を守れ。少しでも声が聞こえたならば、俺は世界を壊すぞ。」
更に室内に充満する魔力が増し、あまりの寒さにエグゼクティブデスクの上のマグカップが割れた。しかしそんなことはどうでもいい、出来る事は全力を尽くすまで。それが代々王族に仕えてきた、魔道具師の家の息子の宿命なのだから。
「ほとんど融合しているようですが、完全になるにはもう少しかと思います。恐らく、ロバーツ伯爵令嬢というよりも、中の女性の心が固く閉ざされている模様ですね。彼女の心を早急に溶かす事が最重要です、第一王子殿下。」
白い息を吐き出しながら伝えると、不敵な笑みを浮かべながら頷いてくれた。そして、「引き続き抑えるように。」と言い残して、鏡に割れそうな程の魔力を込めてからドアに向かわれた。
「さあ、俺のサラが寂しがってるだろうから、さっさと女共を罰してしまおう。エル、まずば隣国と通信するぞ。ああサラに会いたい。」
ひっそりと立っていた専属侍従のエルヴィス・コナー辺境伯令息に、うっそりとした微笑みを浮かべながらそう言うと、静かに頷く彼を伴って部屋を出ていった。
「……こ、怖かった!!頑張って抑えるぞ。」
シンと静まり返り、徐々に温度が戻ってきた室内で独りごちると、鈍く光っている鏡を覗き込む。そこにはこちらの世界には存在しない衣服を身に纏い、ロバーツ伯爵令嬢の中の女性に由縁があると思われる手のひらサイズのるぬいぐるみを額に当て、咽び泣く一人の男が映っている。何度も何度も名前を呼びながら、会いたい愛してる、やり直したい、愛してるんだと叫びたいのを堪えるように呟くその姿は、胸を締め付けられるような思いがする。俺にも婚約者がおり、彼女を心から愛しているから気持ちが分かるのだ。だって彼女は俺を愛していない。個人的には助けてやりたいが、それでも俺は第一王子に生涯仕える宿命を背負っているから。
「……悪いな、諦めてくれ。」
目を伏せながら鏡の中の男に告げると、込められた第一王子の膨大な魔力を使って、こちらの世界と向こうの世界の細くも太い繋がりを抑えるために動き出したのだった。




