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6−2 算術の騎士

 パチリ、パチリという鋏の音と共に、雲の隙間から光が差すように、地面に太陽からの光が差してくる。 


 朝靄が太陽の光に道を譲るような、この光の筋と共に生まれる木漏れ日こそが、地面の小さな植物達を育てていくのだ。生命の不思議さを実感しながら、テオドールはところどころ紅く色付いてきた樹の隙間から見えるようになった青い空を見上げる。そこに、声がした。


「相変わらずだね、ミーンフィールド卿」


 振り返るといつの間にかそこには、長い茶色の髪に緑の瞳の、細い剣を腰に佩いた、背の高い若い騎士が立っていた。


「アンジェリカから、君が元気でやってるか見てこいって言われてね」


「つまり『あの唐変木が森でサボってないかきちんと見てこい』と言われたわけだな」


「ご名答!」


「いつも書類仕事を押し付けて申し訳ない、オルフェーヴル卿」


「どうってことないさ。君が近習のテオドール君かな。確か第二席のお孫さんの。今後も宜しく。僕はル・オルフェーヴル・セルペンティシア・ド・カンタブリア=アルティス。名前が長いから、オルフェーヴルって呼ばれているんだ。騎士団では第四席」


 思いのほか気安くひょいと頭を下げられて内心戸惑いながらテオドールも胸に手を当てて返事を返す。


「お名前はかねがねうかがっておりました。第五席近習のテオドールと申します」


「ふふ、礼儀正しくて何よりだよ」


 木から降りてきたミーンフィールド卿が言う。


「館まで案内しよう。それと、お手合わせを願えるだろうか」


「君とかい?」


「こちらのテオドールと」


「えっ、僕とですか!?」


「剣の速さを武器にするなら一度は経験しておくべきだろう。オルフェーヴル卿の『速さ』を」


「君と勝負すると一試合に数時間はかかってしまうからね。御前試合時間の最長記録を更新したくらいだ」


「最長記録を!?」


 目をぱちくりさせるテオドールにオルフェーヴルが言う。


「アンジェリカのあの剣に堪えきるタフネスな騎士相手に長時間戦っても分が悪い。しかも試合となれば鬼のように強いミーンフィールド卿だ。本来なら初手でささっと倒さないといけないんだけど、なかなかそうはいかない。でも、どうしても勝たないといけない理由があってね。あの時はもう、それはそれは必死だったよ」


 ふとミーンフィールド卿が懐かしげに口元に笑みを浮かべる。


「七席以上の御前試合は三本勝負だった。人生で何度も色んな相手と剣を交えてきたが、あの御前試合は、一生忘れないだろうな」


 何故か少し照れくさそうにオルフェーヴル卿が頭を掻く。そんな彼に卿は言う。


「アンジェリカは健康でいるかね」


「ちょうど一昨日ローエンヘルム卿の鍛冶場に彼女の剣を隠したのがばれて大目玉を喰らったよ。健康そのものだね。お医者様も太鼓判だよ」


「昼食ついでに、出産前後の妊婦と赤子向けの薬草を煎じたものを用意してこよう。テオドール、良い機会だ。剣も手に合うように直したばかりだろう。運が良ければ、国で二番目の騎士から一本はとれるかもしれない。名誉なことだ」






 何回も、何回も立ち会っても丸で剣筋が見えない。五回目の立会になってやっと微かに見えてきた、古風でやや優雅な立ち姿からはまったく想像もできない速く自在な剣に、何度も何度も振り回されて、思わずテオドールは修行場所になっている庭の一角に座り込む。


「君はちょっと真面目すぎるところがあるのかな。柔軟に、数式を解くように……っていうと何時もアンジェリカが怒るんだ。数式と剣術に何の関係があるんだ! とね」


「オルフェーブル卿は、算術がお好きなんですか」


「ああ。好きだよ。算術が好き、というより、算術から見えてくるものが好きなんだ。どこの地域で、何が獲れて、人はどう流れ、国はどう育ち、土地をどう豊かにしていくか、がね」


 あまり算術が得意なわけではなかったが、まるでそれは一本の糸の様だ、とテオドールは目を丸くする。


 そして、こういう優れた考え方を持つ人がいる。それは、国という一枚の美しい織物を作り上げるには欠かせないことなのではなかろうか。思わず姿勢を正して、テオドールはオルフェーブル卿の前に座りなおす。


「……カンタブリア家はアルティス王家に近い血筋でね。僕は第十七子。三十四人中のね」


「アルティス王国のご出身だったんですね」


「そうだよ。僕の剣のスタイルはやや古風だろう。それだけが故郷の名残さ。騎士になりたくって毎日毎日修行してたけど、なんといったって第十七子。王家からの叙任なんて夢のまた夢でさ。押しつけられたのが、うちの領地の帳簿づけ。つまり机でのお仕事だったんだよ」


 二人で庭に座り込み、汲み上げてきたばかりの透き通った井戸の水をたっぷりと口に運ぶ。


「嫌じゃなかったんですか?」


「最初はもちろん嫌だったけどね。でも、自分の領土の農作物や特産品、色んな帳簿を見ているうちに、少しづつ興味が出てきたのさ。こうすればもっと早く利益が算出できるんじゃないか、ああすればいいんじゃないか、真夜中までそういった数式を編み出して………はは、おかしい話だろう。騎士になりたいはずなのに」


 テオドールが真顔で首を振る。


「いいえ、全然、おかしくなんかないです。僕はあまり算術は得意ではないけど……」


「いつでも教えてあげるから、城に来たら訪ねておいで」


「本当ですか。嬉しいなあ……」


「君は本当に素直な子だねえ。ミーンフィールド卿の従者って言うからとんだ悪ガキだったらどうしようかと思っていたよ」


 あっけらかんとオルフェーヴル卿が笑う。思わずテオドールが目を白黒させながら、声を少しひそめて言った。


「ファルコさんとお師匠様は、なんか昔から色々と、その………」


「平和なお城にだいたい騒ぎを持ち込むのは彼らだったからね! まあ始末書を送り付けるのは僕だったからさ。ファルコとは闇取引もしたけど」


「や、闇取引……?」


「どうしても欲しい算術書が他国でしか手に入らない時にね。始末書の代筆と引き替えに買ってきて貰ったのさ」


 ヒュイっと口笛を鳴らすと、ひらりと一羽のツバメがオルフェーブル卿の肩の上に降りてくる。


「そんな彼も今じゃあ国一番の魔法使いだ。この子はガエターノ。僕とアンジェリカの間をどの鳥よりも速く行き来してくれる。結婚祝いに送られた特別な鳥なんだ。ロッテみたいに喋ったりはしないけれど。賢いし、人の言葉や顔はわかるんだよ」


 肩に乗ったガエターノが丸い瞳でテオドールを見ると、片方の翼を広げてぴょこりと頭を下げる。


「……はじめまして、ガエターノさん。ご挨拶をありがとう。僕はテオドール。ここのミーンフィールド卿の近習なんだ」


 ウンウン、と小さな頭で頷いて、ひらりと今度はテオドールの肩に飛び移る。そんな一人と一羽の様子を微笑みを浮かべながら見つめ、オルフェーブル卿は少し懐かしげに呟いた。


「……そうだ、今の君くらいの歳だったなあ。どうしようもない壁にぶつかって、家を飛び出したのは。まだちょっと苦い思い出だけど、ね」


 自分とて刺繍の道を選ぼうとして家出を試みた経験があるが、どうやらそれよりも大きな何かがあるらしい。庭の緑がそんな彼を気遣うように優しく揺れる。


「まあ家出してなかったらアンジェリカに出会うこともなかったんだし、人生ってそんなもんさ」


「何か……あったんですか」


 遠慮がちにテオドールが聞く。


「そうだね。ちょっと難しくて、今となれば滑稽でもある話さ。僕の実家のカンタブリア家は王家に忠誠を誓ってる。毎年色んなものをお城へ献上したりとかするわけさ。僕とて領内の帳簿をきちんと作って提出してたんだけどね……。簡単に言うと、『王家よりも我が家の方がずっとお金持ちなのは良くない』ってわけで、僕が正直に出していた帳簿は全部しっかり書き換えられて国王の元に届いてたんだよ」


「えっ、そんな」


「アルティス王家も今の国王になるまでには色々あったからね。もう五十年も前だけどカンタブリア家と争ったことだってある。そう、色々あるのさ。でも僕は愕然としたよね。毎晩毎晩、領土を、そして我が国を豊かにするべく頑張っていたのに、それが全部無意味で、しかもこのままじゃあ騎士にだってなれない。それで、国を飛び出したんだ。たったひとりで」


「たった、ひとりで………」


「それで、カールベルクにやってきたんだ。小さい国だけど『善き心とそれに見合う腕前』さえあれば騎士団に入れるって聞いてね。あれは申し込みに行く日だった。受付のところに一人の老人と、やたら大きな剣を持った少女が立っていてね。もう亡くなってしまったけれど、法務官のジャコモ卿、今では僕の妻、アンジェリカの育ての親だったお方さ」

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