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5−5 水源の樹

 城の工房で、きちんと自分の手や体格に合った形に修理された剣を握って、テオドールが言った。


「本当に、ありがとうございます」


「なに、これから忙しくなるじゃろうて、ちょうどよかった。森に届ける手間も省けたでのう」


「………竜、ですか」


「わしもおまえさんの祖父も、頭は固いが勘所は鈍っておらんのでな。ミーンフィールド卿、あれはつまり『緑の魔法使い』の助言。騎士として生まれたものは、魔法使いの助言をないがしろにしてはならぬのだよ。もちろん、騎士の近習であるおまえさんもな」


 どこか遠い国のおとぎ話の生き物の話を真面目に聞かされているような違和感、それと同じくらい、なんとも得体のしれない何かを前にしている気持ちもまた拭えない。


「……僕は、どうすればいいんでしょう」


 思わずこぼすように呟いたテオドールに、ローエンヘルム卿がパイプを片手に持ったまま言った。


「師匠が、教えてくれるだろう。だが、あの男は聡いが、一人で生きる時間が長くなってきている。それは良いことであり、そうでないことも、時にはある。ティーゼルノットも、気にかけておったからな。だから……そうじゃなあ。お前さんにも、やるべきことがある」


「やるべきこと………」


「よく学び、そして、共に居てやりなさい。それだけで良いよ」


「………はい」


 おそらくはひとりでも生きていける男の傍らに居る、ただそれだけでいい、と諭されるのは何とも不思議な気分である。


「あまり、お役には立てないと思いますが……」


 城の工房でローエンヘルム卿が微笑んだ。


「否、そんなことはなかろうて。……テオドール、人は誰でも何かしらの価値があるが、お前さんの価値を見つけだしたのはあの男になるのだろう。剣を持つ手、剣以外を持つ手、どちらにもな。だから、お前さんも、信じてやりなさい。魔法使いであり騎士である、類い稀な師を」






「少し遠回りになるが」


 そんな師匠に連れられてやってきたのは、国境東の森だった。


「カールベルクの水源地だ。先日ちょうど道が完成したらしい。近くまでこうして馬で来れるようになった」


 川沿いの道を、二人で馬で走る。


「水源地の『長老』に挨拶を」


「『長老』?」


「足場が濡れているから、滑って転ばないように」


 馬を止めて、そっと近くの樹につなぎ、ミーンフィールド卿はテオドールを促した。促されるままについていくと、水場独特の湿った香りと森の深い香りが交じり合う。


 柳の木々のしなやかな枝が音を立てながら揺れ、一歩歩く毎に水の香りが漂う。ミーンフィールド卿の住まう国境の森とは違う香りだ。樹や花だけでなく、森そのものにも「個性」があるなんて、今までは知らなかったことだ。


 前を歩くミーンフィールド卿に視線を投げる。木々に挨拶するように時折視線を投げては、奥へ、奥へと進んでいく。木々や花が彼の周りで風もないのに揺れる。丸で『緑の魔法使い』でもある自分の師をうやうやしく案内している様だ。


 昼の光と水と緑が一幅の織物の様に混じり合って出来た、深い霧の様な香りが心地よい。思わず息を吸って、そっと吐く。


「ここがカールベルク城下の水源地だ」


 目の前が開けて、湖が現れる。碧く透き通る美しい水。そして、ひときわ大きな柳の木が、湖のほとりに聳える様に立っている。


 枝の一本一本が太く、葉のひとつひとつが大きい。その枝葉の間から漏れる木漏れ日が、湖の表面を宝石のように照らしている。威容を誇るというよりはこの湖周辺の緑を静かに見守っているような、その大きな柳の木に、ミーンフィールド卿は語りかける。


「お久しぶりです、長よ」


 耳には聞こえない声、というものがあれば、こういったもののことだろう。自分には魔法の素養はないはずなのに、目に見えるものと、耳から入ってくる音の数々が混ざりあい、頭の中で低く響きあう。


 突如として重低音で鳴り響く角笛の音を頭の中へ直接流し込んだような、そんな感触に、思わずテオドールは足を止めて立ち尽くす。ミーンフィールド卿が、大きな柳と何か話しているようだが、何も聞き取れない。思わず隣の樹にもたれかかると、今度は少し小さな笛の様な音が耳に響く。


(木々の、声?)


 『緑の魔法使い』であるミーンフィールド卿はきっと、こういった森の木々の声を日々聞き取り、会話することができるのだろう。思わず足元に咲いていた花に触ると、今度は、星を散りばめるような高い音が響く。これは、花の声なのだろう。


「あ、えっと、その………驚かしてごめんよ」


 思わず声に出してそういうと、星を散りばめるような高い音が、柔らかい音に変わる。


「テオドール、何か聞こえるのか」


 ミーンフィールド卿が振り返る。


「は、はい。何て言ってるか、わからないけど………笛のような、星のような音が、いっぱい」


 再び、低い角笛の音が響く。ミーンフィールド卿が、柳の木に再度振り返って言った。


「……我が近習でして。宜しければこの弟子に御身の枝を一振り、授けてやってはくれませんか。柳の文様は縁起が良いと聞いております。……ええ、刺繍の素養がありましてな。わずかながら、長、御身の声にもこうして応える力も持っていますゆえ………」


 低い角笛の音が、笑うように愉快そうに響く。ゆらり、と枝が揺れ、ぱきり、と音がして、枝が一振り、テオドールの腕の中に落ちてくる。


「………城からのあまり喜ばしくない知らせですが、御耳に入れておいた方がよいかと思いまして。ええ、母は数年前に。……亡き母は言っておりました。異変を感じることがあったらまずは御身に相談せよ、と」


 すると、枝がもう一本、今度はミーンフィールド卿の元へ落ちる。


「………そうですな。我が母の森に、供えておきましょう。それでは長、どうかご健勝で」


 低い角笛の音のような声が、朗々と、だが、ほんの少しだけ寂しそうな音色で応える。この『寂しげな音色』をつい最近聞いた気がして、テオドールが眉を寄せる。


(ああ、あの夜の………)


 大いなる魂の交合が、恋を阻むことがある、と語っていた吟遊詩人の奏でた、あの琴の音色である。


 この樹ももしかして、まるで人の様に、誰かをかつて愛していたのかもしれない。師匠の背中を見つめながら、テオドールはふと、この師の母が描いて遺したあの美しい画帳を思い出す。きっとどこかに、この柳の樹も描かれているのだろう。そんな気持ちと共に、胸に詰まった何かが、すとんと落ちる不思議な感覚。


 人も樹も鳥も、恋をするのだ。


 自分の生きる世界の中に息づく、丸で知らなかったもうひとつの美しく、そして心揺さぶられる世界。


 ああ、何故だろう、無性に針を動かしたい。そういった美しいものを自分の世界にも留めてみたい。突如胸の中で燃え上がった熱い何かを抑える様に、テオドールは、柳の枝を手に、水辺の爽やかな空気をもう一度、深く深く吸い込んだ。






 見知った街道を通り、見知った森へと帰る。ミーンフィールド卿が夕暮れの光を背に、馬から降りながら言った。


「………母は遺言で『この森中に灰を撒いてくれ』と言い残した。つまり、ここは我が母の森だ。水源の森も気に入っていたようだが、私のことを考えたのだろう。魔法使いであり、騎士でもある私が住める、騎士の使命にとっても重要な国境の守りを、私に託したわけだ」


「お母様が……」


 カールベルクの郊外で療養している体の弱い母に、今日のことをいっぱい手紙にしたためてみよう、と思いながら、テオドールも馬から降りる。


「今日、初めて樹や花の声を聴きました。なんて言ってるかは、わからなかったけれど」


「世界には時折ああいう、力ある樹が存在する。その枝を大事にするように。世界にはああいった、不可思議で優しく、力ある者がいる。優しくはないものも、時には。………騎士としては、竜と相見えるのはまたとない機会ではあるが、入江姫の島の祠で眠っていた卵も、おそらくああいった不可思議で力ある者なのだろう」


「……はい」


「木々や花々と語るだけのささやかな力であっても、魔法使いである以上、不可思議で力ある者は敬わねばならない、と教わってきた。難題だな。テオドール、君が、騎士で芸術家であるのと同じように」


「げ、芸術家だなんてそんな、僕、そ、そんな大袈裟なものじゃないです、ちょ、ちょっと、刺繍が好きなだけで……」


 ミーンフィールド卿が館の扉を開き、明かりを着け、静かに微笑む。


「あの水源地の大樹の声を聴くことができるのは、魔法使いか芸術家だけだ。あの大樹は君の心の中にある本質の一つを、間違いなく見抜いたのだろう」


 思わず手にしていた柳の枝を握りしめる。ふと心が温かくなった気がして、何故か、目の端からぽろりと一粒涙がこぼれ落ちる。慌てて服の袖でそれを拭って、背筋を伸ばしてテオドールは言った。


「………はい、頑張ります。もちろん、騎士の修行もだけど」


「よろしい」


 ぽんぽん、と己の近習のくしゃくしゃの赤毛を二回撫でて、ミーンフィールド卿は館の階段を上がっていく。


「給水器の水もそろそろ切れる頃合いだったな」


「僕、汲んできます」


「ランプを井戸に落とさないように。枝は君の部屋に置いておこう。夕食はパンと蜂蜜の残りがあるが、良かったかね」


「はい!」


 枝を渡して、ランプを受け取り、テオドールは階段を駆け下りる。夜の帳が静かに降りてくる夕暮れ時の、いつもの森。この森の樹々も、夜になったら眠っているのだろうか。


 城の皆も夕食の頃合いだろう。女王陛下や、鳥の魔法使いファルコ、ベルモンテに、入江姫、そして城下町のロビンの工房にも平等に夜の帳は降りているのだろう。


 あの明るく親切で心優しい未亡人が、どうか寂しい思いをしませんように、と心の片隅で祈りながら、テオドールは井戸の方へと向かっていった。

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