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ありったけのものを捨て去る朝
それは喪失と獲得の夜明け
とは言え──僕が本当に失ったものなど
何もなかったのだと気が付く朝
人はただ、己の定めを歩き続け
そして求めるものの本当に出会う
だから、きっと誰しもがいつかは
意識の奥の自らの名を呼ぶ時が来る
そうあってほしいと願うのは
僕のいだく儚い希望なのかもしれない
何も掴めず、目覚めもせず
そうして墜落していくだけの
どうすることもできない者も
はるか時の先には現れるだろう
だがそれでも、僕たち人間には
どうしようもなく諦め切れない
そんなひとつの夢がある──そう
そんな夢が、あってもいいはず
地上に対する官能の喜びを
その全てを捨て去ってでも欲しいものが
僕らの言葉には存在する──いや
こんなことを言うと、サイハ、君は
求めるということの執着を咎めるだろうか
でもサイハ、僕はそれも分かってる
だから、僕は少しだけ笑って
聖なる光としての君に対して
今はまだ顔を逸らしながら
「もうちょっと待ってて」と言う
サイハがこの町を去ってから
僕はしばらく理想に置き去りにされ
ぽつぽつと言葉少なく歩く日々を過ごした
少し経った頃、知り合った女性と付き合いはじめ
彼女はサイハと違って
陽気に大地を飛び跳ねる、そんな人だった
彼女の翔ける場所には彩り豊かに花が咲き
声は喜びと明るさを広げ
その視線は幸せを作り出そうと健気だった
何もかもがサイハと違う──でもそれは
僕にとって満ち足りた何かではなく
彼女との一挙手一投足が
底知れぬ虚しさの予感を生み、事実それは
深い暗闇と、ありえない永遠への
欲しがるほどに焼けつく渇望だった
彼女は神を知らず
その子の成す奇蹟を知らず
そして聖霊を知らなかった──だから
僕は彼女を遠く感じ
触れる肌の全てが
人というものを暗く閉じ込めていた
それでも僕は、サイハのいない空白を
そんなもの以外でどう埋めていいのか
まったく分からなかった──僕は
そもそもサイハしか知らず
地上の色合いがけして僕を満たすことなどないと
そんなことはよく分かっていたのに
それでも──どうしようもなく
彼女という虚構にすがるしかなかった
すがればすがるほどに
この世界が悲しく青ざめていくと分かっていながら
サイハがこの町を去って三年が経つ頃
僕はサイハの死を知る
世界を歩き回った彼女は
その光を少しずつ大地に落とし続け、そして
人間としての彼女の地上は
光のまばゆさにとうとう耐え切れなくなり
旅先の荒野でひとり力尽きたのだという
それがどれだけ、僕の言葉を震わせたことか
強烈な稲妻に引き裂かれ
真っ暗な大地の割れ目に落ちていくように
僕は光を見失い、言葉を見失い
そして何もない世界の時間を見失い
気が付くと──僕はたったひとり
この町の灰色の床に座っていた
彼女は献身的に心配してくれたけど
でもやっぱり、神を知ることはなかった
虚ろな部分に埋め込める何ものも持たず
彼女は泣きながら
僕のもとを去っていった──ああ
その涙は、いったい何だったのだろう
どんな色も付かないその雫は
けっきょくのところ
彼女を人間足らしめることができなかった
だから──僕という荒野を離れ
鉄と石のジャングルに寝床を求め
今は──そう、きっと
もっと居心地のいい色彩の地上で眠っている
それで良かったのだろうかと
今でもたまに思うことがある──でも
たぶん僕には何もできない
彼女は求めたけれど、だからこそ
僕から求められなかった──僕は
求めることができなかった
それでも今、彼女が彼女の幸せを感じ
それで満たされているのなら
僕は間違っていなかったと、言えるだろうか
どうしてこんなに、彼女のことを気にするのか
それは特別なことなのか、それとも
ただ捨て切れない何かに固執しているのか──
きっと、サイハ、君がいなければ
僕は延々この答えを出せないまま
自分すら見失っていただろう
そう、君がいなければ──
喪失は時に清く無限の空白を作る
サイハの死はやがて
僕の言葉の多くを白い地平とし
そしてあらゆる音が消える時
そこに流れ込んでくるのは
紛れもないサイハそのものとしての
僕自身だった──
だから、僕の名以外の何ものも知り得ることのない
そんな彼女の言葉と同じように
僕の名もまた、彼女の、その
本当の名以外を知ることはなく
それは光で、サイハという
そのアザの向こう側に隠れていた
ひとつの、ただひとつの
僕らだった──だから
鐘の音の奥に潜む静寂の水平線のように
そこには反転した地上が
これ以上ない現実感で聳え立ち
あらゆる絆を浮かび上がらせ
定めのなかで目覚めゆく思考と意志が
僕という存在を地球に打ち込んでいく
サイハ──君は言う
「あなたを求める者の声が
もしも色を帯びているなら
その色はあなたを引きずり落とします
あなたが色を求めるのなら
必要のない綻びに
いったいいつまで星を翳らせるのですか」
そうして貧しさの内に
ボロ布の奥の宝を秘めて
香油は全て流されていく
そして空の入れ物に、黄金色の光が満ちる
さわさわと鳴っていた麦穂は
自らを忘れ、ただこうべを垂れる愚者となり
サイハの歩くその道を理解する
僕はでもまだ──
光の落とす影のなかで
君を感じるという幸せに泣きながら
その涙に写る僕らの名を予感するだけ
いや──だとしても
そうだとしても、僕には希望がある
どんな悪意も傷付けることのできない
サイハ、君という希望──
いつか僕が死に絶える時
それは僕の内で声を発する