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カフェの空気は湿っていて
今──危険な火花のように
あらゆる色が明滅し、音も立てず
この空間を威嚇し続けている
僕はそれらに対して
どのように星を差し向ければいいのか
けっして──そう、けっして
僕は対立したいわけじゃない
できれば色のひとつひとつを
柔らかな水のように取り込み
静かに瞼を閉じるその優しさで
肯定してやりたいと思う──だけど
僕はきっと、萎縮している
そしてそのまま前のめりとなり
サイハを、その言葉を
受け入れられないまま──いや
理解できないまま、だけど
きっと彼女は正しいのだという予感に
抗いようもなく膝をつくしかないのだと
そう、分かってもいる
だとしたらこの無駄な時間を
僕は何と名付ければいいだろう
それともやっぱり君は
無駄なんかじゃないと、言ってくれるだろうか
「サイハ、君は──
いや僕には、もう選択権なんてないことを
それは理解してる──だけど
僕には分からないし
だからこそ、戸惑い、途方にくれてる」
「卒業したら、この町を出ようと思っています
そして世界中をまわり
私の命の続く限り
この地上に光を置いていきたいのです」
「だったら僕だって
君についていっていいはずだよ」
「それはあなたにとって
美しいこと?
醜いこと?
この町のどうしようもない悪意を抜けてまで
あなたにとってやる価値のあること?」
サイハの言葉を、卑怯だとは思わない
だから僕には、反論の余地などない
この町でサイハと過ごした年月を
これから先、真に意味あるものとするために
僕はこの町に刻み続けなければならない
この町の、悪意たちの墓標のそばに
僕の名前を、サイハの名前を──
でもそれを、果たして僕はたったひとりで
この先延々とやり続けられるだろうか
いや──分かってる
サイハはそれができると思い、だから
この町を出ていくと、そう言っている
僕らは離れ離れだ
手を伸ばしても、サイハのアザに届かない
でも──でも、そう、それでも
僕が星を伸ばしさえすれば
いつだってサイハの光に結びつくと
それくらい分かってる──分かってるけど
だけど、僕は
サイハのその肌を諦められるほどの
荒野を歩く貧者になんてなれない
サイハ、君は
こんな僕に失望するだろうか
溜め息をついて
悲しそうに首を振るだろうか
いいや、そんなことはせず
ただ僕を信じてくれるその瞳の
なんと厳しく、辛い視線であることか
君に触れられない僕は
いったい何を頼りにこの輪郭を保てばいいのか
でも──
「サイハ、僕のこの苦しみは
僕にとっての必然なんだと
それくらいは分かってるよ
だけど人がその試練に耐えられるかどうか
それはまた別の話なんだ
運命が回る時
人は誰しもがその輪からこぼれ落ちずにいられるわけじゃない
サイハ、君は
僕ならこの転回を乗りこなせるだなんて
そう思ってるの?
いいやサイハ、君はそう思ってる
だからこその君の決断を、きっと
僕はみっつの意味で喜ぶべきなんだ
だけどそうできない僕がいるなら
サイハ、君はいったい
どんな言葉で僕に慰めの聖水をかけてくれる?」
「あなたは私と一緒にいることで
ずいぶん地上に慣れてきました
それを否定しないでください
私はあなたとの時間を
この名が知る内の最も大切な光と思っています
ですがカナタ、あなたは
そして私は──ここに居続けるわけにはいきません
あなたはいつかのあの石のように
自らの柔らかな言葉まで硬化させるつもりですか
地上を知る幸は、行き過ぎれば毒となり
私たちに病と不幸をもたらし
そして軟弱な葦のように私たちを薄弱にします
もう、私たちには時間が来てしまいました
これ以上、私たちはこの身体をもって
互いの顔に触れ合うわけにはいきません
だからカナタ、どうか──
あなたの手足がくず折れて
そしてそこから新たな手足を
あなたの煌めく星を編んで成してください
それが私たちの、新しい体となります
カナタ、私は、私の言葉は──
けっしてあなたの名以外何も
知り得ることはありません」
それは何よりも貴い、サイハからの秘蹟だった──
君と僕とは黄金色の輪に繋がれ
そして時代とこの町のなかで
生きとしいけるもの全ての思いとして
今──透き通る静寂の涙を落とす
どこまでも愛おしく僕に降り注がれる
サイハの聖別された声──
僕は、きっと僕は
この事実だけで満足するべきなのだ
いやそれ以上のいったい何が
僕を真の意味で満たしてくれるだろう
大災害は、僕の貧しさを浮き彫りにした
だけど僕は仮の再生を始めたこの町で
サイハとともに、地上を知った
自分はけっして貧しくなどないと
そう思い知ってきた喜びと憎しみ、それから、虚しさ
捨て去るべきものを明らかにしながら
でも──それでも、捨て切れなかった
サイハは言った
──自分だけは綺麗な場所にいたいだなんて
そんな逃避で命を削るのですか
そうだ、僕にはそれが
今ならその通りだとよく分かる
純粋無垢な隔離の場で
悪意の欠片も知らず息をすることが
果たして人を健やかにし、幸せにし
そして強く全き意志を育むだろうか
いやでも──僕らは戦うことを選び
その先に、悪の黒き翼が天に向かい
金色の梯子となることを祈り続けている
そのもとには黄金色の麦畑が広がり
あらゆる巡礼に冷たく温かい雨が降り注ぐ
そんな世界がこの町に広がるのは
まだまだ先のことだろう
そしてこれからは僕ひとりで
この地面を耕していくことになる
サイハは──彼女は
その輝くアザは、もっと広大に
世界を照らすということを意志している
僕は──
サイハの命に口づけをする
それは少しの抵抗もなく、澄んだ水のように混ざり合う
「だから、カナタ──
私たちはここで、別れるのです
でもそうして捨て去ったものが
きっと見えない命の枝となり
憎むべき不死の芽を打ち砕いていくでしょう──
あなたに響き渡る光と煌めき
そしてそこに灯る火が──あなたの名に貫かれますように」
僕は、ただ
昇りゆく涙の音を聴きながら
離れゆくサイハの光を追う
目の前にあるのは
紅茶でもコーヒーでもなく
はるか星の世界からこぼれる、時代の声だった
どんどん、どんどん──
サイハが遠ざかる──でも
交わした口づけは消えることなく
どんどん、どんどん──
僕の内で確かなものになっていく
それは流れ込んでくる言葉
僕の貧しさを愛してくれる、アザの向こうの
サイハという、永遠の恋人だった